第21話 嵐のあと
翌朝、気がつくと、親父と諒二はもう会社や学校に行った後だった。昨夜割った窓ガラスにはごみ袋で目隠しがしてあった。部屋じゅうに散らかっていたガラスの破片もなくなっていた。ただ、脚の一本折れた椅子が、ダイニングの隅に恥じるように置いてあった。
僕は母が黙って出してくれた食事をうつむいてモソモソと食べた。僕たちは目を合わせなかった。まるでライオンに餌でも与えるように、母が僕のひとつひとつの仕草に神経をとがらせているのが分かった。
──お母さん……ごめん。
そう言えたらどんなによかったろう。でも僕は声を出すことができなかった。そんな言葉で収まらない何かをしてしまったという思いだけが、重たく僕の上にのしかかっていた。
凍りついたような朝だった。
母も僕も、何を言えばいいのか分からなくなっていた。自分からは何も言えないくせに、心のどこかでお互いに声をかけられるのを待っていた。相手の顔色をうかがいながら表面をとりつくろう関係ができてしまったのは、多分、この時からだと思う。
それから僕はずっと部屋にいた。ベッドに腰かけてぼうっとしていた。机の上にはゾロが立っていた。ジェレミーにこれをもらったことも、駅前でさよならのビズをしたことも、何もかもが遠い昔の出来事に思えた。
僕はゾロを手に取ってキスしてみた。泣けるかと思ったけど、泣けなかった。涙どころかため息すら出てこなかった。固まってしまった心のまま、僕はよれよれになった学生服や床に放り出したスポーツバッグを眺めていた。
いつの間にかまた眠っていたらしい。午後三時ごろだったろうか、武司おじさんの鳴らす玄関のベルの音で目が覚めた。
「急にあんな電話よこすからびっくりするじゃないか」
玄関から武司おじさんの声が聞こえた。
おじさんは母の兄で、東京の母の実家で暮らしている。ずっと独身で、英語の塾をやっていて、フランスにいた頃に僕たちが日本に滞在する時はいつもこの「東京のおじさんの家」に泊まるのが習慣だった。
母は何か困ったことがあるとすぐ兄に相談していた。電話──いつの間にしていたんだろう。自分の手には負えないと思って泣きついたのだろうか。
「コウちゃん! コウちゃん!」
おじさんは階段に向かって大声で怒鳴った。
僕がゆっくりと階段を降りると、おじさんは明らかにショックを受けたような顔で母を振り返った。
「いつの間にこんなに痩せちゃったんだ? なんだこの顔は。この頭は。江梨子、いったいこの子は何があったの?」
母はウウッと声を漏らして口を押さえた。
僕は黙って首を垂れた。
「だから僕は言ったでしょう。いきなりこんな生活、紘一君には荷が重すぎるって」
ソファの向かい側に腰かけた両親に向かって、武司おじさんは苛立ちを隠しきれない声で言った。帰国することになった時、僕を地元の公立中学に入れると聞いてひとりだけ反対したのがこのおじさんだった。
僕はおじさんの隣に座らされて、親父が忌々しそうに口を歪めるのを見ていた。親父とおじさんはソリが合わないってことを僕は昔から知っている。
「九年ですよ。九年もフランスに暮らしといて、はい今日からお前は日本人だよなんて、そんな簡単に馴染めると思ってたんですか? しかもこんな多感な時期に。中二なんてね、難しい年頃なんですよ。あなたは物事を甘く見すぎたんじゃないですか?」
静かだけど容赦ないおじさんのセリフが突き刺さる。
「だから僕は東京の私立に通わせた方がいいって言ったのに……」
「しかしね義兄さん、家族というのはそんな簡単に離ればなれになるもんじゃ……」
親父が苦しそうに反論する。おじさんは大きくため息をついた。
「その結果がこれですか。あなた方は本当に彼のことを考えたんですか」
それを聞いた親父が怖い顔でおじさんを睨んだ。
「ちょっと兄さん……」
不穏な空気に母がそわそわしはじめる。僕はだんだんいたたまれなくなってきた。
「……あんたにそんなことを言われる筋合いはない」
親父のこめかみがピリピリ痙攣している。
「これは私たち家族の問題だ。あんたがどうこう言う話じゃない」
「何ですって?」
「自分は独身のくせに。子どももいないあんたに家族の何が分かるっていうんだ!」
ついに怒鳴ってしまった。おじさんの声もつられて高くなった。
「それとこれとは関係ないでしょう! それで手遅れになってから助けを求められてもね──」
「江梨子、だから電話するなと言ったんだ!」
「だってあなた──」
「僕は心配してわざわざここまで来たんですよ! なんて言い草だ!」
──やめて。
「コウちゃん?」
おじさんが僕を振り返った。
「──もうやめて。おじさんもお父さんもやめて。僕が悪いの」
親父も母さんも悪くない。悪いのは僕なんだ。家を破壊した僕。家族を傷つけた僕。何もかも捨てて逃げようとした僕。ジェレミーを好きになってしまった僕。漢字が書けない僕。学校に馴染めなかった僕。
日本人になれなかった僕──。
「僕が悪いの。全部僕が悪いの。僕が悪いの」
ぶるぶる震えながら何べんも繰り返した。
「全部僕が悪いの。だからもうやめて」
震えが止まらない僕の肩を、おじさんの手がガシッと掴んだ。
「しっかりしろ。これは君自身の問題なんだぞ」
おじさんはひと言ひと言はっきりと区切るように言った。
「コウちゃん。両親の前で、君の気持ちを、はっきりと言ってごらん」
「……気持ち……?」
「君は、いったいどうしたい? どうすれば、君は楽になれる?」
「……でも……」
喉の奥に大きなかたまりがつっかえたように、声が出てこない。首を振る僕をおじさんが促すように見つめる。
「誰も怒らないから。言ってごらん」
──言ってもいいの? 本当のこと、言ってもいいの?
「さあ……」
おじさんが励ますように頷いた。
僕は喉元をヒクつかせながら、消えそうな声でこう呟いた。
「……僕、もうここにいたくない……。フランスに……帰りたいよ……」
その途端、怒涛のように心の中で何かがあふれ、ものすごい勢いで流れ出した。
僕はおじさんの胸に顔をこすりつけ、大声で泣き出した。幼い子どものようにしゃくり上げながら、全部吐き出すみたいに繰り返した。
帰りたいよう……!
フランスに帰りたいよう……!!
「──そうか。つらかったなコウちゃん。つらかったな」
おじさんが僕の背中を抱きしめる。母が泣いている。親父がため息をつく。
やっと言えた。
ずっと言いたかったこのひとことが、やっと言えた。
えも言われない安堵と、同じくらいの罪悪感が、心の中でぐちゃぐちゃに入り混じっていた。
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