モグラの穴
柊圭介
第1話 逃亡
机の上の時計は夜十時半を指していた。
僕はベッドに座って自分の足元を見つめていた。もう準備はできている。通学用のスポーツバッグには、教科書やノートの代わりに着換えが詰まっている。目立たないように黒のパーカーも着ている。あとは、出て行くだけ。
きつく見開いた目の下がヒクヒクと引きつっている。なにを震えてるんだ。迷うことなんかない。もう気持ちは決まってる。ここに居続けることなんかできない。
大きく息を吐いて立ち上がった。スポーツバッグを抱いて、音を立てないようにそうっとドアを開けて廊下へ出る。隣の部屋では少し開けたドアのすきまから諒二の寝息が聞こえる。チビのくせに寝息だけは大きい。
きしませないように気をつけながら階段を降りた。ここからが肝心なところだ。ガラス張りのドアから居間を覗き込むと、ソファで晩酌をしながらテレビを観ている親父の背中が目に入った。テレビのボリュームが大きい。これは助かる。
おそらくダイニングにいた母がやってきて親父の隣に座った。親父のつまみに手を伸ばしている。
「紘一はもう寝たのか」
親父の声がしてドキッとした。
「ええ、もう寝たみたいよ。疲れたから諒二を寝かしつけたら僕も寝るなんて言ってたから」
寝てねえよ。それどころか出て行こうとしてんだよ。あんたらは何も知らないんだ。何も分かっちゃいないんだ。
二人はそれからテレビに集中しはじめた。お笑い芸人がやかましく騒ぎ立ててるのを見てクスクス笑っている。なにが可笑しいんだか僕には分からない。分かりたくもない。
一瞬の素早い動きでドアを横切った。通過。あとは玄関。息を止めて靴に足を入れる。テレビの声がひときわ大きくなり、わあっと笑い声が起こった。親父と母親もつられるようにして声を立てて笑っている。
今だ。
ドアノブに手をかけてぐうっと押した。わずかに開けたところを身を縮めるようにして猫みたいにすり抜けた。細心の注意を払ってドアを閉める。
僕は目を光らせるようにして周りを見回した。近所の家々は窓が閉まっている。誰も僕を見ていない。大丈夫。
脱出成功。
急げ。
あの人のもとへ走れ。
あの人とこの町を出て行くんだ。
スポーツバッグをかつぎ直すと、貯め込んでいたエネルギーを吐き出すかのようにして全速力で駆け出した。
ぬるい風の吹く三月の夜道を。
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