第2話 帰国家族

 話を十月まで戻す。

 その日僕は日本のある地方の町の中学二年に編入した。うららかという言葉がぴったりくるようないい天気の日で、朝からちょっと汗ばむぐらいだった。僕は初めて袖を通す学生服の重さに驚いていた。


「これ暑いね。本当に着て行かなきゃダメなの?」

 僕が言うと母が怒ったみたいに答えた。

「当たり前でしょ、十月は衣替えって日本では決まってるの」

「でも暑いし重いんだけど」

「今日は初日なのよ。こういうのは最初が肝心なの。生意気だなんて思われたら面倒なんだから。ほら詰襟もちゃんととめて」

「はあい」


 ダイニングにいる父が新聞から目を上げて僕を眺める。


「ほう、なかなか似合うじゃないか」

「お兄ちゃんカッコイイ!」


 同じく朝飯を食べている諒二が調子を合わせた。ひと足先に小学一年に編入した弟の足元には、新品の青いランドセルが置いてある。諒二はこのランドセルを気に入って片時も離さない。


「それからね、」

 制服の肩の埃をはらいながら母が言った。

「みんなの前でフランス語を喋ったりしちゃだめよ。そういうのよく思わない人もいるんだから」

「分かってるよ、何回も言わなくていいよ」

「構わないじゃないか。みんなに聞かせてやれ。僕は立派な国際人ですってさ」


 母の助言を親父がかき回した。

「いまどき帰国子女なんて腐るほどいるんだ。なにも意識することはない」

「ボクも学校でフランス語しゃべったよ」

 諒二がまた口をはさむ。

「ボンジュールって言ったらみんなよろこんでた」

 ほらな、とでも言いたげな目で親父は母をチラリと見た。


「それよりもちゃんと勉強についていけよ。お前のためにと思ってわざわざ一年ずらしたんだから」

「なんだか中学をやり直しさせられてるような気がするよ」

 そう言ったら親父も母も笑った。

「やりなおしー!」

 諒二までそう言って茶化した。

 

 同じような家が並ぶ閑静な住宅地。ほんの小さな裏庭のついた二階建ての一軒家。そこに引っ越してきた、両親と男の子ふたりの四人家族。

 爽やかな、ホームドラマにでも出てきそうな、ごく普通の幸せな家庭。味噌汁の匂いがダイニングに立ち込める、平凡な朝の風景。それがその頃の僕たちの姿だった。


「あなた、今日は?」

「遅くなる」

 短くそう答えて親父は僕と一緒に玄関を出た。

「いってきます」

「いってらっしゃい。頑張ってね」

 母の明るい声が後ろから追いかけてきた。


「どうだ、緊張するか?」

 道すがら親父が訊いた。

「そりゃまあ、緊張するよ」

「帰国子女なんて言葉は意識しなくていい。お前はお前だ。いつもの紘一のままでしっかりやれ」


 今日はやけに父親ぶる。親父ひとりが空回りしてるみたいでおかしいけど、同時にその言葉はちょっと頼もしくもあった。


 学校に近づくにつれて僕と同じ格好をした生徒たちが増えてくる。彼らは急ぎ足に中学の校門を抜けて行く。

「じゃあ、頑張れよ」

 門の前で親父が僕の肩をバシッと叩いた。その後ろ姿を見送ってから、僕は改めて校門を眺めた。


 どっしりした石の門には、筆で描いたような字体で中学校の名前が彫ってある。同じ中学でも、味もそっけもない鉄門だったパリの中学コレージュに比べたらなんてかっこいいんだろう。そしてその奥には三階建ての白い校舎が立っている。


 僕は、今日から日本の中学生になるんだ。

 緊張よりも弾む気持ちの方が強かった。

 大きく息を吸い込んでから、僕は背筋を伸ばして颯爽とその学校の門を通った。


 ──それが、地獄の門だとも知らずに。

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