第3話 最初の間違い

 日本に来て気づいたんだけど、フランスっていうと頭にをつけるんだよな。。国の名前にをつけるのなんてフランスぐらいだろう。まあそれは勝手にすればいいとしても、住んでた人間に言わせりゃ、そこに意地悪で卑屈なニュアンスが伴うのが不愉快だ。僕は別にヴェルサイユ宮殿に住んでたわけじゃない。

 あと、パリで育ったって言うとまるで僕が毎日エッフェル塔に行って毎日シャンゼリゼを歩いてたみたいに思われるんだ。それでおやつにはマカロンを食べて晩御飯にはフォアグラを食べて? 観光客かよ。すごい勘違いだ。お前はいつの時代の人間だって言いたくなる。


 そんなこと思ってる奴なんかいないよって言われそうだけど、実際僕が編入したクラスではそういう風に見られたんだから嘘はついてない。

 フランス語ができるということが特技でもなんでもなく、ただ笑いのネタにしかならないことも初めて知った。

 残念なことに、僕の入った学校は、そういう学校だった。



『佐伯紘一』


 担任の小川先生は黒板に大きくこう書くとクラス中を眺め回した。僕の目の前には僕と同じ格好をした少年たちと白いスカーフをつけたセーラー服の女の子たちが座っていた。みんなアジア人だってことに僕は心のうちで圧倒されていた。もちろん、そんなことは分かってたんだけど。でもここまでみんな東洋人だとなんだかすげえ、ってなる。


「佐伯君は四歳から十四歳までフランスのパリに住んでいたそうです。今回お父さんのお仕事の都合で帰国し、この学校で一緒に勉強することになりました」


 クラスがざわざわする。思った通りの反応。

 お仕事の都合、か。パリ勤務なんていうと聞こえはいいけど、簡単に言やあ九年間も飼い殺しにされた挙句業績不振になって、パリ支店を潰されて帰って来ただけだ。栄転じゃない。だから東京じゃなくて地方勤務なんだ。でもその話はタブーだ。


「日本語は話せるけど読み書きはあまり得意じゃないんだよな」


 先生が僕を振り返る。僕は曖昧に口を歪める。


 郷に入れば郷に従え、っていう親父の方針で僕はパリの公立学校に通っていた。その方が国際感覚が養えると思っていたらしい。そのせいで僕は日本語よりフランス語の方が先に口から出るようになってしまった。母はそれを心配して、というか、気に入らなくて、僕にスパルタ式の日本語通信教育を施した。だから漢字だって一応読めるし、中二のクラスに入れてもらえるほどの学力はあるはずだ。だけど実際のところ僕が日本語を覚えたのは「キャンディ・キャンディ」とか「ベルばら」といったクラシックな少女マンガに興味があったからだ。何か問題あるだろうか。


「だからみんなで佐伯君を助けてやってくれ。頼むぞ」

「よろしくお願いします」

 僕はそう言って頭を下げた。


「そうだ、」

 先生はとてもいいことをひらめいたという顔で僕をじっと見た。

「せっかくだからフランス語で挨拶してくれないか。先生、本場のフランス語を聞いたことがないんだよ」

 そら来た。これも僕が予想していたことだ。

「みんなも聞いてみたいだろう」


 ほとんど押しつけのような先生の言葉にクラスからお義理みたいなまばらな拍手が起こる。


 僕は迷っていた。フランス語を話してはいけないという母の言いつけと、聞かせてやれという親父の言葉が重なる。そこに諒二のセリフがよみがえる。

 ──ボンジュールって言ったらみんなよろこんでた。


 そうだな。ここはひとつやれ。

 恥ずかしさよりも、みんなをちょっとだけおどかしてやろうという余計な見栄が勝った。

 僕は小さく頷いて、クラスを見回し、それから少しだけ声を張り上げた。


「Bonjour. Je m’appelle Kôichi Saeki. Je suis ravi de vous rencontrer. Je suis né à Tokyo, mais j’ai vécu à Paris pendant 10 ans. Donc je ne connais pas bien mon pays natal… Eh bien, je suis très content de commencer cette école. J'espère que je vais m'adapter rapidement. Merci.」


 ざわざわしていたクラスが水を打ったように静まり返った。


 自分にしては一等級の挨拶をしたつもりだった。東京生まれだけど十年もパリに住んでいたから母国をよく知らない。だから日本の学校に行けるのは嬉しいし、早くこの生活に慣れたいと思っている。そう言った。嘘とかお世辞じゃなくて本当にそう思っていた。僕は目の前にいるひとりひとりの顔を眺めながら温かい拍手が返って来るのを待った。


 でも、拍手は起こらなかった。

 それどころか、波が引いていくみたいなうすら寒い空気を感じた。


 知らない言葉を耳にした時の、好奇心と同時に起こる警戒心。自分たちと同じ顔をしている人間が外国語を話すことに対する違和感と嫌悪感。教室に漂っていた空気は多分それだった。

 それから失笑。

 クラスの真ん中あたりの席にいた男子がクスクス笑い声を立てた。

 失笑かよ。

 ひとが挨拶してるのに、失笑かよ。

 

 先生がひとりだけパチパチと手を叩いた。ひとりだけの拍手は薄っぺらな音がした。

「ありがとう。やっぱり本場仕込みのフランス語は違うねえ」


 僕は今朝の母の忠告を思い出してすでに後悔していた。小学生の言葉を鵜呑みにした自分をアホだと思った。

 先生は僕を窓際の一番後ろの席に座らせた。座った時、教室の真ん中の方から小さい声が聞こえた。


「おフランス」

「オッサレー」


 制服のせいで少し汗ばんでいた背中がすうっと冷えた。

 思えばそれが最初のエラーだった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る