第14話 ひみつの庭
それから僕は日曜日のたびにジェレミーに会いに行った。最初は遠慮がちに喫茶店の前を行ったり来たりして、でもそのうち大胆になって、道場の入り口の横で彼を待ち伏せた。
ジェレミーは僕を見ると「また来たな」って顔でニヤッと笑って、それから僕の肩に手を回して歩いた。喫茶店でオムライスをごちそうになり、その後はジェレミーの家に行って、ソファに並んで座り、ビスケットを食べながらゾロのビデオを観た。
その時間は、僕にとってのオアシスだった。カラカラに干上がった心を潤してくれる、数時間だけの楽園。
フランス語で自分ひとりだけの隠しごとを「秘密の庭」というが、ジェレミーとの時間はまさにそれだった。彼のアパートは、息のつまりそうな毎日の生活でやっと酸素が吸える隠れ家。ふたりで並んで腰かけるソファは、あったかく僕を包んでくれる繭。僕は思いっきり気を緩めてベラベラとくだらないお喋りをした。油断していっぱい笑った。
僕の学校生活には、月曜日の二時間目と水曜と木曜の四時間目と金曜の五時間目という救いの綱ができた。窮屈そうにワイシャツを着て教壇に立つジェレミーを見つめながら、僕はこの人の日曜日を独占しているのだと思う。この人のヒーローを知っているのだと思う。学校で先生のことを呼び捨てにできるのは僕だけ。そうやって周りを出し抜いているという優越感に浸る。それがつらい中学生活のたったひとつの慰めだった。
期末試験が近づき、僕は勉強までジェレミーの家に持って行った。ジェレミーは自分の机を僕に貸してくれて、自分はテーブルの前にあぐらをかいて漢字ドリルを広げた。
古典は地獄だ。僕は机から振り返り、ブツブツと書き順を確かめながら漢字をなぞっているジェレミーを眺めた。
「……どうした?」
「ジェレミー、そんなことやって楽しい?」
「楽しいよ。なぜ?」
「僕には苦痛でしかないから」
ジェレミーは苦笑した。
「確かに難しいけどね。でも、フォルムがきれいだし、優雅で、とても芸術的な文字だよ、日本語は」
「そう? 僕は日本語は嫌いだよ」
つい吐き捨てるように呟いてしまった。
「僕は日本語なんて嫌いだ。日本人も嫌いだし、この国も嫌いだ」
僕は日本語に幻滅した。浴びせかけられる暴言や中傷は、僕が習ってきた日本語ではない。
ジェレミーは悲しそうな目で僕を見上げた。それから、低い声で、ゆっくりと言った。
「……それは不幸だぞ、コーイチ」
まっすぐに僕の目を見据えたまま、ジェレミーは続けた。
「君が日本人を嫌いになるのは分かる。ひと握りの人間のせいで、その国の人間すべてが憎くなる気持ちも分かる。だけどね、言葉を憎んではいけないよ。言葉には罪はない。使いようだ。その人間がどう使うかだ。醜い言葉だけをとらえて自分の母国語を嫌いになってしまうなんて、悲しいじゃないか」
「でも……」
「コーイチ、これは君の母国語なんだよ。フランス語と同じぐらい大事な君の宝物なんだよ。僕は日本語が大好きだ。音も、形も、美しい言葉だ。だから僕は憧れた。だからもっと上手く使えるようになりたい。僕はこの言葉を流暢に扱える君をうらやましいと思ってるんだ。分かってないだろ」
だけど……。僕は黙ってうつむいた。
「日本語を勉強しなさい、コーイチ。もっともっと、日本語を、自分のものにしなさい。祖国の言葉を、もっと大切にしなさい」
「……祖国……」
祖国ってなんだ? 旅行でしか来たことのない国。言葉を話せるだけの国。友達のいない国。僕を迫害し、傷つける国。それでも、それは、僕の祖国なのか?
「国を知るには、まず言葉を知る。言葉を制覇したときにやっと本当にその国が分かって来る。僕はそう思う。今はつらいかも知れないよ。でも大丈夫、いつかきっと君は日本語を制覇する。いつかきっと、君はこの国を好きになれる」
「うん……」
うなだれてしまった僕を見て、ジェレミーはドッコラショと変なかけ声をかけて立ち上がった。
「君にいいものをあげよう」
本棚の前に立ち、奥の方から一冊の本を取り出した。
「気に入るか分からないけど、ほら」
差し出された本を見て、僕は目を見開いた。
「ベ……ベルサイユのばら?!」
「知ってるかい?」
知ってるもなにも……。
「知り合いの女の子にもらったんだけどね、僕にはまだこれは読めないから。よかったらやるよ。ほら、マンガだと読みやすいだろう? それともこんな女の子っぽいのは嫌かな?」
「もらいます!」
即答。夢にまで見たベルばらの日本語版。第一巻。まさかジェレミーからもらえるなんて……!
「あ、あのね……僕、先週、誕生日だったんだよ。十五歳になったの」
「ああ、そう?!」
「だから、これはジェレミーからの誕生日プレゼントってことにしてもいい?」
「もちろんさ」
「ありがとう!」
僕はジェレミーに力いっぱい抱きついた。ちょうど胸のところに顔が当たって、ボワンとはね返るような弾力があった。まるで大きなぬいぐるみを抱いてるみたいだ。
「ほうら、やっぱりそこまで嫌いじゃないんだよ、日本語」
からかうような顔でジェレミーが笑った。
そんなんじゃないよ。ただもうこんな偶然、嬉しすぎて。僕はジェレミーの体によじ登るようにして、そのひげもじゃのほっぺたに特大のビズをした。
人生で最良の日、ってのがあるとしたら、きっとこんな日のことを言うのだろう。僕は家の机の引き出しにこっそりとベルばらを隠した。誰の目にも触れさせない、自分だけのバイブルのように。
飛び込んだ胸の感触を思い出し、頬が熱くなる。
彼がどんどん特別な人に変わっていくのを感じる。
もうごまかせない。
僕は、ジェレミーに恋をしている──。
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