第15話 最後の授業

 恋ってのは、一度落ちると、とりとめもつかないほど吸い込まれていってしまうものだ。

 その人のいる世界だけが現実で、その人の口にする言葉だけが真実で、その人の言うことなら三歳の子どもみたいに何でも信じてしまう。足が地についていないみたいにふわふわとして、心はいつもそわそわして、体がまるで自分のものでないように宙に浮いている。そんな深刻で幸せな病だ。それが、初めての恋なら、なおさら。


 僕の病は日ごとに柔らかく優しく僕の心をむしばんでいく。


 Jérémie。その名前は、魔法の呪文のように僕の心をときめかせ、そして、ぎゅうっと締めつける。ギリシア彫刻とは程遠いぬいぐるみのような彼の容貌が、その名前を呟いた途端に色気を帯びてくる。大きな広い肩。奥まった水色の優しい瞳。ビズをするたびに僕の頬をくすぐるひげ。教室でのよく通る声と、部屋にいる時の、穏やかな話し方。そんなのが全部僕の胸をざわざわとかき立て、意味もなく涙が出そうになる。

 ベッドで寝返りを打ち、彼のことを思いながら自分の体を抱きしめる。出るのはため息ばかり。隣にあの人がいたらどんなに幸せだろう。あの人とひとつになれたら、あの大きなあったかい体に抱かれて眠れたら。そしたら、僕はもう二度と目覚めなくったって構わない。


 自分の気持ちが叶わないことぐらい知っている。万分の一もチャンスがないことぐらい分かってる。だから秘かに心にしまっておくだけでいい。ずっと友達のふりをしてそばにいられればいい。明日になればまたあの人に会えるのだから。日曜日は彼の隣でゾロを観られるのだから。


 だけど、そんな僕のはかないのぞみは、期末試験が終わった三月のはじめ、まだ授業が二週間ほど残っている金曜日に打ち砕かれた。 



「おい、ハゲ、月曜に三万円持ってこい」

 エスカルゴはいつしかハゲに昇格していた。僕は男子トイレの隅で須藤たちに囲まれていた。他の男子は、


「そんな……三万円なんて……ないよ……」

 震えながら言ったら、須藤は僕をすごんだ。

「あるだろ。お前フランス帰りなんだろ。お前んち金持ちなんだろ。持って来いよ」

「ないよ……」

 心臓をバクバクさせながら言い返したら、今度は古関が僕の脇腹をげんこつでぐうッと押さえた。こいつは暴力担当だ。

「持って来なかったらどうなるか分かってんだろうな」


 目に涙が浮かび上がってくるのを必死でこらえる。泣いたりなんかしたらこいつらの思うつぼだ。

「分かった……」

 とりあえずこの場を逃れたくてとりあえずそう答える。

「絶対だぞ。持って来なかったら──」


 五時間目のチャイムが鳴った。須藤たちは僕を突き飛ばしてトイレを出て行った。僕はじっとして三十秒ぐらい待ってから、何事もないふりをして教室に戻った。大丈夫。金曜日の五時間目だ。ジェレミーの時間だ。僕の救いの時間だ。


「おーい、みんな、席につけー」

 小川先生はいつもの調子でだらしなくそう言った後、教壇に立ったジェレミーを振り返った。


「えー、今日は、みんなにお知らせがあります。ランバート先生は、今度から静岡の中学校で教えることになりました。今日は、先生の最後の授業です」


 ──え?

 今、何て言った?


「向こうで色々と準備があるため、月曜日にはもう発たれるそうです。みんなの大好きなジェレミー先生の最後の授業だぞ。一生懸命聞くように」


 息が止まった。


 クラスから、えー、とか、さみしいー、とか、声が上がる。その中で、僕は、凍りついたようにジェレミーを見つめていた。

 最後の授業? 最後の授業──?

 頭の中でそれだけがぐるぐる回っている。


 ── I'm very sorry to leave you, guys. It was a lot of fun talking with you. I hope you continue studying ……


 ジェレミーがなんか言ってるけど頭に入らない。何も聞こえない。ただこの人がいなくなるということしか分からない。

 そんな馬鹿な。そんな馬鹿な。そんな馬鹿な。まだ春休みまでに二週間も残ってるのに。まだ話し足りないことがいっぱいあるのに──。


 ジェレミーは僕と目が合うと、小さな目を細めてそっと笑った。僕は、何を考えればいいのか分からなくて、残りの時間、ただ茫然と教壇のジェレミーを見つめていた。


 ── Good-bye, everyone!


 チャイムが鳴り、ジェレミーはいつもの笑顔で教室を出て行った。

 僕はその他大勢の中の、ひとりだった。


「おい、月曜に三万円、忘れんなよ」


 耳もとに須藤のダメ押しの声がした。僕は英語の教科書をしまうことも忘れて、その脅しにぼんやりと頷いた。

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