第16話 ジュ・テーム

 その週末、僕は部屋に閉じこもってひとり悶々としていた。


 ──ジェレミーがいなくなる。いなくなってしまう。


 冷静に考えれば分かっていたことだ。彼は三学期だけの研修の先生。新学期もここにいるとは限らない。

 だけど、僕は、僕ひとりがひどい裏切りにあったように動揺していた。


 彼がいなくなる生活。僕の日曜日がなくなる。オムライスもゾロも消えてなくなる。学校の拠りどころも消えてなくなる。あとに残されるのは、罵声と脅しと、モグラ叩きの夜。何も見ていないクラスメート。何も知らない家族。そんないつもの日常。ハンガーにかかった学生服。また月曜日もこれを着て地獄の門を通るのか。救いの時間のなくなったあの場所へ通うのか。


 ──無理だ。もう、僕は耐えられない。


 

 机の上の時計は夜十時半を指していた。僕は着換えをつめたスポーツバッグを抱いて、──逃亡した。



 肩で息をしながら見上げると、ジェレミーのアパートには明かりがついていた。玄関のベルを押したら、すぐに足音が聞こえてガチャッとドアが開いた。


「コーイチ……!」

 ジェレミーは驚いて目を丸くした。

「こんな時間にどうし……」

「静岡に連れてって──!」


 口をついて出たのはその言葉だった。


「お願い、僕を静岡に連れてって。ジェレミーと一緒に、僕を、連れてって──!」


 ジェレミーの顔を見たら、いっぺんに涙があふれてきた。

「僕を置いてかないで。僕も一緒に連れて行って。お願い──!」


 僕はすがりつくようにジェレミーの胸に飛び込んだ。ジェレミーはうろたえて後ずさりをした。

「おい……」

「行っちゃうなんていやだ! 僕はこれからどうしたらいいの?」


 大きな背中をぎゅうっと強く抱きしめた。


「ジェレミーのいない生活なんてできない。僕はジェレミーと一緒に暮らしたいの。ジェレミーがいれば何も要らないの。家族も学校もみんな捨てる。ジェレミーがそばにいてくれたらそれだけでいい。ジェレミーさえいれば、何も要らない……!」


 胸の中に顔を突っ込んで激しく泣き出した。


「僕はジェレミーが好きだ。分かってるでしょ。僕の気持ち、ほんとは分かってたんでしょ。ジェレミーが好き。一緒に連れてって。お願い。離れるなんていやだ。僕はジェレミーが好き……ジェレミーが好き……ジェレミーが好き……」

 

 Je t'aime. Je t'aime. Je t'aime ──.


 熱に浮かされたように僕は初めて口にする愛の言葉を繰り返した。

 ジェレミーは優しく僕の体を抱き返してくれた。あたたかい、あたたかい体。背中を包んでくれる、頼もしい腕。僕の髪を撫でてくれる、大きな手。僕はこの人と幸せになりたい。ずっと一緒にいたい。

 だけど──。


「──コーイチ、それはできないよ」


 僕はびくっとして顔を上げた。

 ジェレミーは小さくため息をついた。

「君の気持ちは嬉しい。でも、それは僕にはできない。なぜなら──、」


 僕の目を見つめて静かに言った。


「第一に、今の君は冷静じゃない。第二に、僕は君の気持ちに応えることができない。君のことは好きだけど、君が抱いているのと同じ感情じゃない。第三に、僕は君が本当に求めている人間ではない」

「本当だよ、僕はジェレミーが──」

「想像してごらん。もし君がパリに住んでいて、今のような精神状態じゃなかったとする。そしたら、君は僕のようなクマみたいなおじさんを好きになるかい?」


 言葉がつまった。エミールの横顔がよみがえる。

「……ほらね」

 ジェレミーは優しく微笑んだ。


「そんなのずるいよ! 僕は本当にジェレミーが……」

「僕がフランス語で話しかけたのが悪かった。ここに連れてきたのがいけなかったんだ。ただ君を励ますつもりで、君と仲良くなりすぎたのが……。僕のせいだね。ごめんね、コーイチ」


 あきらめろって言われてる。無理だって言われてる。それでも僕は彼にすがりつきたかった。

「それならキスさせて。一度だけでいい。ジェレミーとキスしたい。お願い!」

 ジェレミーは首を振った。

「駄目だ」


 僕は崩れ落ちるようにその場にしゃがみこんだ。

 う、う、う……。

 泣いても、泣いても、まだ涙が出てくる。


「……ちょっと待ってて」

 ジェレミーはそう言い残して部屋に引き返した。戻って来ると手に持ったものを僕に差し出した。


「これを、君にあげるよ」

 ゾロのフィギュアだった。

「これを僕だと思って、なんて言うと、ちょっとキザだね。だから、そうだな……。君のお守りだと思って、持っていてくれ」

  

 絶望の中でもらった、ふたつめのプレゼント。剣を振り上げる、黒づくめのヒーロー。僕の手の中で、ゾロの上に涙のしずくが落ちる。


「……もう、帰りなさい、コーイチ。パパやママが心配するだろう。駅まで送っていくよ」

 

 僕たちは何も言わずに駅まで歩いた。駅を少し通り過ぎたところでジェレミーが立ち止まった。

「ここからは、ひとりで帰れるね」

 僕は小さく頷いた。


「じゃあ、……元気で」

 ジェレミーはいつかの時みたいに僕の肩をわしっと掴んで、両頬にビズをした。でも、これはあの時と同じじゃない。別れのビズだ。


 さようなら、元気で。さようなら。


 僕は涙のたまった目でジェレミーを見上げた。ジェレミーは最後に僕を力いっぱい抱きしめてくれた。そして、おでこに優しくキスをしてくれた。


「──Au revoirさようなら


 ジェレミーが背中を見送っているのが分かる。僕は涙を流しながら早足で歩いた。ジェレミーの視界から早く消えるために。現実に戻るために。


 家に帰ったらまだ明かりがついていた。玄関の鍵も開いたままだった。音を立てないようにそうっと入ったらまだ親父の観ているテレビの音が聞こえた。さっきと同じ、大きなボリュームで鳴っていた。僕は出て行った時と同じ動作で今度は自分の部屋に戻った。時計を見ると、針は十一時三十分を指していた。


 人生をかけた脱出がたった一時間──。

 たった一時間の間に僕はみごとにフラれた。僕の初恋はたった一時間で終わりを告げた。あっけない。ほんと、一時間前の自分が、バカみたい。


 肩を震わせて低く笑った。笑ってるうちにまた涙がわき出てきた。

 ベッドに突っ伏して、声を殺して泣いた。

 ゾロの人形を握りしめて、いつまでも泣いた。

 永遠に泣ける気がした。

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