第4話 エスカルゴ
「佐伯君、なんかもっとフランス語喋って」
休み時間に僕に近寄ってきたのは男子ではなく数人の女の子たちだった。フランスと聞いてストレートに憧れを表現する人たちだ。
「なんかって言われても……」
「ねえ、パリってどんなとこ?」
「パリの人ってやっぱりおしゃれなの?」
「朝はクロワッサン食べるの?」
矢継ぎ早に質問が飛ぶ。
「うーん……」
こういう時にざっくりとパリの要約をするのは難しい。パリの人はけっこう言葉がきつい。東京の人なんかに比べたらはるかにダサい。クロワッサンは高いから毎日は食べない。街はきたない。道には犬の糞がそこかしこにある。メトロにはジプシーのスリがいる。そういうことを言っていいのだろうか。それとも夢を壊してはいけないのだろうか。
でも可愛らしいセーラー服を着た女子に話しかけられるのは悪い気分ではなかった。だからできるだけ親切に答えようとした。そしたら。
「モテるねえ」
「おフランス」
教室の真ん中からまた男子の声がした。やっかみだ。僕が女の子に囲まれてるのが気に入らないんだ。なんて分かりやすいんだろう。
この人たちは外国から来た人間のことを珍しがって話しかけてくれてるだけだろ。それに僕は女の子に囲まれたところで鼻の下をのばして有頂天になったりはしない。だって僕は──。
「エッフェル塔」
「シャンゼリゼ」
「トレビア~ン」
「ハダジュバ~ン。アザブジュバ~ン」
くすくす。くすくす。
なんだか侮辱されてる気がして不愉快になってきた。それでそのグループに向かって声をかけた。
「ねえ、何か僕に言いたことがあるならはっきり言って」
彼らは一瞬黙って、お互いに目を合わせた。そして僕をチラチラ見ながらまたヒソヒソやり始めた。
「カマンベール」
「フォアグラ」
「エスカルゴ」
ありったけのキーワードを呟いては笑っている。
「あ、それいい!」
グループの中のひとりが手を叩いた。
「エスカルゴ」
それから僕の方に向かって笑いながら言い放った。
「お前今日からエスカルゴな!」
は?
意味が分からなくて訊き返すと別の奴が言った。
「今日からお前のことエスカルゴって呼ぶから」
僕はそいつの顔を見返して──そいつが冗談で言ってるのか本気で言ってるのか見極めるために──そしてその顔からは何も読み取れなかった。
「じゃあエスカルゴってことで。決定」
勝手に決定して彼らは大笑いした。分からない。これは親しくなろうとするための一種のユーモアなのだろうか。それともフランス語のあいさつのせいで、僕が鼻持ちならない気取り野郎だと決めつけられたのだろうか。だとしたらおかしい。そもそもフランス語イコール気取り野郎という方程式は僕の中には存在しない。どんな下品な奴でもフランスにいりゃあフランス語を喋る。
「そんなの失礼だろ。僕には佐伯って苗字があるんだよ」
本当に気分が悪くなったので言い返したら、グループの真ん中にいた奴がチッて感じで僕を睨み返し、こいつムカつく。と呟いた。
給食の時間はそのグループに囲まれた。それで箸はちゃんと使えるのかとか、フォークとナイフは要らないのかとか言う。
「ねえ、もうそういうのやめてくれない?」
僕はうんざりして一番しつこい奴に言った。
「僕は日本人なんだからさ、箸ぐらい使えるしさ。こういうのあんまり面白くないよ。エスカルゴとかもやめて。僕は日本人なんだから」
「じゃあおフランスをひけらかすなよ」
「ひけらかしてないよ。あと、おフランスって言うのもやめて。僕その呼び方好きじゃない」
「だっておフランスだろ、おパリだろ」
「ひとが嫌がってるのになんで繰り返すの?」
声のトーンが少し上がった。僕は教室全体が僕たちを見ていることに気づいた。
そいつはチッと口の中で舌打ちした。
「ちょっとした転校生いじりだろうが。冗談通じねえなあ」
「転校生いじりって何?」
僕が訊き返すとそいつは呆れたような顔で僕を見た。
「ダメだこいつ。やっぱガイジンだ」
同じ国籍の人間に、僕は初めてそう言われた。その言葉は結構グサッときた。
僕は日本人だよ。だから、もう普通のクラスメートになろうよ。そう言おうとした時、
「……やっぱムカつくわ」
低い声でそいつが言ったのを合図に彼らは給食のトレーを持って僕の前から去った。
家に帰ると母がどうだった? と訊いた。フランス語で挨拶したら場が白けたなんて言うと絶対非難されるだろうと思って、うん、楽しそう、とだけ答えた。
母は僕が楽しいかよりも授業についていけそうかを心配しているようだった。授業は難しかった。先生の言ってることは六割がた分かった。微妙な数値だけど、まあ最初はこんなところだろう。
それよりも僕は早くクラスに馴染んで、エスカルゴってあだ名が終わってくれることを願っていた。早いとこ普通の日本の中学生になって、普通の中学生活がしたかった。
でも、その望みが叶うことはなかった。
次の日学校に行くと、さっそく僕の上履きがなくなっていた。
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