終わりなき旅路(二)

 桜田事変のあと。

 水戸藩徳川家中では密勅をめぐり藩内が割れて、血で血をあらう内訌の連続と天狗党の乱があったが、彦根藩井伊家中も数奇な運命をたどった。

 後処理において、岡本黄石という家老が陣頭に立った。

 「おのれ水戸藩ッ。御殿様のご無念を晴らすため、即刻水戸藩邸に討ち入りすべし――」と怒りをあらわにする勢力も家中であったが、まず黄石はこれを押さえた。いっぽうで幕府にたいしては「我が主人は登城の途中、暴漢のために傷つけられた」とだけ届けでて、穏便にすませた。

 結局、井伊直弼の死因は病死とされ、幕府で公式に記録された。

 ところで黄石は、直弼とひどく不仲だった。

 彼は五十歳にさしかかろうかという年齢で、裕福な家老職の家柄へ養子にはいり、暇にまかせて漢詩を好んだ。豊かな学識こそ備えていたが、頑なな攘夷論者で時流にたいする理解は古かった。直弼と対立したのち、長らく罷免されて退いていたが、直弼の横死後に表舞台へかえってきた。

 かたや直弼を支えていた近しい家臣に、長野主膳という者があった。

 主膳は、直弼と誕生が半月ほどしか違わぬおなじ年齢で、公私ともに気がよく合った。直弼が江戸で幕政の中枢にいたころ、主膳は京に滞在して親幕府派公卿である関白九条尚忠と通じて、将軍継嗣問題など諸処の工作にあたっていた。

 徳川斉昭が水面下で権謀術数をめぐらせた勅書を把握できなかったことは、主膳にとって痛恨の過失といえる。

 直弼の死後は、主膳は藩主を継いだ井伊直憲に仕え、直弼の遺志をつなぐべく引きつづき藩政に参与したが、直憲に疎まれて黄石と激しく対立した。

 世の趨勢もめまぐるしく流転する。

 かつて南紀派と対立していた一橋派が優位になり、世論において幕政改革の気運が大勢を締めるようになった。

 文久二年、七月。

 公武一和派の公卿と薩摩藩島津久光、一橋慶喜、松平春獄らが中心となり、幕政において文久の改革が断行された。この時に久光は京から江戸へ下向したのであるが、その帰り道で起こったのが生麦事件である。

 この改革なかで南紀派は幕政から罷免され、ついに息の根を止められた。

 彦根藩への処遇はさんざんだった。

 直弼の失政を咎められ、三十万石から二十万石に厳封される。

 直弼に仕えていた主膳は、罪人として捕らえられた。切腹はおろか葬儀すら許されず、賊として斬首捨て置きとされた。

 粛清は主膳の弾劾だけでとどまらない。

 桜田事変で直弼の側にいた者たちは、藩主を守りきれなかったことを名目に切腹あるいは斬首が命じられた。それは本人ばかりでなく、親族郎党にまでおよぶ凄惨なものだった。

 畢竟、名目など何でもよかったのだ。

 厳封に伴う口減らしが必要であったから、折も折り、直弼に近しく仕えていた者たちを根こそぎ粛清するのが目的だったに過ぎない。

 結句、彦根藩の藩論は、黄石らを枢軸とした尊王攘夷論へ傾いて行く。

 それから天誅組の乱、蛤御門の変、天狗党の乱、長州征伐においては、常に幕府軍で中心的な役割を果たし、何とか三万石を回復した。

 しかし、末端の者たちの血を流して得た成果としては、あまりにも少なかった。これらがつもりつもって、鳥羽伏見の戦で藩内がふたたび割れた。

 一貫して黄石は慶喜に従っていたが、下級藩士や神職を中心とした勤王党たちは薩長と気脈をつうじてそちら側についてしまった。

 なんとも嘆かわしく、皮肉な話だ。

 彦根藩といえば、徳川幕府の立役者であった神君家康公の寵臣井伊直政公を藩祖とする家柄。その彦根藩が、割れて薩長に与したと聞いたときには、何の因果かと新八は耳を疑ったものだった。

 そして江戸深川、品川楼仮宅の一隅。

 目のまえにいる佳紫久は、その彦根藩に仕えた武家の娘だと言っている。

 なぜ、こんなところにいるのか。

 彼女は膝にのせた拳をきつく結び、怨念がこもった低い声音で口惜しげに語った。


「わが兄は、その刀傷がしめすとおり、身を賭して懸命に応戦したのです。身を賭して御殿様と家中を守ろうとしたのです」


 白い手の甲を、行灯の灯りで光る涙がトツトツと叩いた。


「――兄は新心流の皆伝者でありましたから、剣において水戸者などに遅れをとることはございませんでした。いくつか手傷を受けましたものの、最後まで、立派に刀を振るいました。なのに、なのに……井伊家中に巣食う奸臣の謀略によって、二年も経ってから、こともあろうか罪人として処罰されました」

「…………」


 これも悪名の衣だ。

 直弼ばかりではない。

 佳紫久の兄もそうだ。

 直弼に従った者たちは、悪名の衣を着せられて時の渦に沈められたのだ。

 奇しくも新八は、その続きとなる文久三年から時の潮目に立つことになった。

 だから佳紫久は、京の出来事を知りたがったのだろう。

 兄の死の意義を見出すため。


「佳紫久――いや、其許の名をお教えいただけるか」

「……煕子ひろこ、と申します」

「なるほど、煕子どのか。周囲を明るく照らす子であれと、お父上とお母上は願われたのであろう」

「どうでしょうか、今となってはわかりませぬ」

「そうか……」


 ということは、煕子の父と母は、もうこの世にいないということだろう。

 目線を落としていた煕子は、ゆっくりと睫毛をもちあげて新八をまっすぐに見つめた。


「新さまがこちらにいらしてお姿をお見かけしたとき、私は不思議と兄を思い出しました。兄は朝晩に必ず剣を振っているような人で、ご飯よりなにより剣術を好みました。私はそのような兄が大好きで、幼少のころは女だてらに男装をして、剣術の稽古場までついてまわりました」

「では、煕子どのの抜き打ちは」

「はい。体が女子のものにかわりはじめてからは習うことがかなわなくなりましたが、新心流でございます」

「ほう、どうりで」


 彼女の太刀筋は剣術の真似事という域をとびこえていたので、新八はふかく得心する。

 煕子が遠い目で小さく笑う。


「フフフ……。いつか私の抜き打ちで兄から一本を取ろうと、ひそかに部屋で一人稽古をしておりましたの。ですがいつも、新さまのように易々とかわされてしまい、そのたび、兄は朗らかに笑っておりました」

「そうか、そうか……優しい兄上であられたのだろう。俺は兄弟姉妹がいなかったから、煕子どのが羨ましい」


 すると突として、煕子は「これをご覧ください」と己の胸元をはだけて乳房をさらした。

 新八は「おッ……」と目をそらす。


「急にいかがしたのか。先ほど話したとおり、俺はいまだ妻の喪中にあって、そのつもりはござらぬ由、どうかしまってくだされ」

「いいえッ、どうかご覧ください。この恥にまみれた体を。新さまにしかおわかりいただけないことだと存じますゆえ」

「いや、見るわけにはいかない、やめてくれ」

「お願いいたします。どうか、どうか……」


 懇願する煕子のかすれ声が、新八の胸を突いて、しくしくとしめつける。

 武家の女子がそこまでして言うことであるから、これ以上拒める理由もなかった。

 新八は恐るおそる、煕子の胸元に目を向けた。

 が、すぐに息をのんだ。


「そ、それは……」


 鳩尾のあたりに、一つの刺し傷が浅黒く浮いていたのだ。

 それは間違いなく、自害をするためにつけた傷であろうとわかる。


「煕子どのはご自害をなされたのか」


 煕子は無言のまま、コクリと頷く。


「なにゆえか」

「――兄が斬首となった日。取り潰しの上意を命じられた我が家では、父と母、私と幼い妹で別れ盃をかわしたのち、辞世の句を詠みあって自害におよびました。父が妹と私、母の順で刺してくれたのですが、何の因果か、父の手元が狂ってしまったのでしょう。私だけが生き残ってしまいました」

「…………」

「それから私は遠戚家で匿われましたが、我が家は罪人を出した家にございます。迷惑をかけるわけにはまいりませぬから、廓へ入ることを決めました」

「なんと、みずからか」

「はい」


 当世、家計に窮した武家の没落や姫の身売りはよく聞く話であるが、煕子のような仕儀は稀だ。

 桜田事変によって運命を歪められた者が、人知れずここにもあったのだ。

 新八ははたと「しまった――」と己を呪う。

 手をついて頭を垂れた。


「あいや、これは済まなかった。知らなかったこととはいえ、井伊御家中に仕えておられた御家の姫君にたいし、水戸者たちの話を長々としてしまうとは。ひどく不愉快でござったであろう。この通り、深くお詫びを申し上げるッ」

「いいえ……」


 煕子はゆっくりと首を横に振って、ぎこちなく微笑んだ。


「水戸の方に対して恨みはございません。いえ、あの心優しき御殿様を汚い手口で殺められたのですから、以前はございました。ですが考えてもみれば、兄は水戸の方を数々斬ったのでありましょうから、私が水戸を恨めば兄の剣を汚すことになります。今は藩を情けなく思いこそすれ、誰かを恨みに思う気持ちはござりませぬ。恨んだとしても、女子の私はただ疲れるだけで、現実は何も変わらないのですから……」


 その心情は、絶望というものだろう。

 煕子という女子は、なにもかも望みを絶ったのだ。

 男子ならば怒りをもやして雌伏し、復讐の機をうかがうこともできる。

 だが煕子は女子であるから、それは叶わない。

 永久に。


「なんということだ。なんと理不尽なのだ、憂き世は……」


 ひとりで憤怒する新八の許に、着物をなおした煕子が膝を寄せて、そっと包みこむように抱き寄せた。


「ありがとうございます。これも何かのご縁でござりましょう。私は、時の辻をまっすぐに駆けてこられた新さまに知っていただけただけで、救われた思いになれます。孤独ではなくなります」

「俺など、そのように立派な者ではない」

「いいえ、ご立派であられます。これからもご存分に奮われませ。どうぞ真っ直ぐ歩まれませ」


 暗がりのなか、煕子の愛くるしい笑顔が新八を照らした。

 その顔に見覚えがある。

 おなじく武家の女子である母の顔が重なった。


「じつはゆうべ、私はひさびさに兄の夢を見ました」

「兄上の……夢」

「ですから今宵も、どうか添い寝をお願い申し上げます。それならばよろしいでござりましょう。駄目ですか」

「それは……煕子どのが望まれるならば、構わぬが」

「明日の朝は、私が新さまを送り出してさしあげます。それは私が兄にしてやりたかったことであり、新さまのご妻女が新さまにして差し上げたかったことでござりましょう。ですからいまだ今生にある私が、しかと――」


 その夜。

 ふたたび新八は、小常と磯子と過ごすやわらかな夢を見た。

 煕子は、家族とすごすあたたかな夢を見たのだった。


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