夢醒めて(二)

 いっぽう、前線で負傷した兵たちが続々と土埃や血まみれになって戻ってくるにつれ、しだいに戦の全容が明らかになってゆく。

 つい前日まで、慶喜は肚をくくり「千騎が一騎となるまで退くな」と臣下一堂に激を飛ばしていたものだが、前線の現実はあまりにひどかった。

 旧幕軍が相手にしていたのは薩長ばかりでもなく、薩長に錦の御旗が与えられたことを境に、かつて懇意にしていた土佐藩などの有力諸侯が、続々とあちらの陣に合流したと聞きおよぶ。

 しかもなんと、岡山藩池田家、鳥取藩池田家が敵方に加わっているというではないか。慶喜の周辺にあった重役の面々は、どよめかずにいられなかった。なぜならば岡山藩と鳥取藩の現藩主は、徳川斉昭の実子で養子に入った者。つまり慶喜とは母違いの骨肉をわけた兄弟だ。

 報せを受けた慶喜は、めずらしく動揺の色をかくさずに「まさか、それは確かであるのか」と何度も伝令に問いかけもしたが、


「なんと嘆かわしいことか。余はここまで衆人から憎まれているのか……」


と、ひどく落胆した。

 会津藩公用人、軍事奉行添役の神保修理は、理路整然と進言する。神保は幼少から秀才の誉高く若干三十四歳と若いが、松平容保の信頼も厚く重役を任されるほどの人材。開明的な国際感覚を備え、容保の命により長崎へ出向き、勝海舟や坂本龍馬といった海軍伝習所系人脈や西国藩士とも広く交流があった。


「この戦局、確たる援軍のあてもなしに籠城などもってのほかで御座います。上様が朝敵となり、日本の舵取りを奸臣に専横されてしまっては、皇国の国難ほかなりませぬ。今ならば帝への申し開きの猶予も御座います。江戸の兵立て直しも可能で御座いましょう。何卒御短慮めされず、ただちに東帰恭順なさるべきと存じまする」


 だがこの論は、神保一人の独見でもなく、まっとう合理的な正論でもある。現下、次にどこから裏切り者がでてくるのか、まったく読めない状況だからだ。

 そもそも出陣寸前まで、幕臣のあいだで論が割れていた経緯があった。「奸薩討つべし」と気勢をあげていた強硬派があり、かたや諸藩の勤王党とちかしい穏健派がいた。従来、穏健論が多数派だったものの、結果的に江戸薩摩藩邸の一件が強硬論の背を押す。それは斬りあいがはじまりそうなほど激しい対立を見せた。穏健派にとってみれば、鳥羽伏見の戦況は「それ見たことか」である。

 どさくさに紛れて、その燻りが露になった。

 将軍護衛役のために編成された、遊撃隊という名の幕臣精鋭部隊がある。隊士面々の名を聞けば、当世の誰もが恐れをなす。

 隊頭取は直心影流剣術の榊原鍵吉、心形刀流剣術の三橋虎蔵。以下、心形刀流伊庭八郎、自得院流槍術高橋泥舟、砲術家人見勝太郎などなど三十数名。

 いずれも音にきく武芸者たちが名を連ねていたが、そのなかに鏡新明智流士学館の桃井春蔵という男がいた。頭取並という役職。士学館といえば、幕末期の江戸三大道場として有名であり、桃井の腕前は江戸屈指に数えられたほどでもある。

 ところがこの桃井は、かねてより勤王党と誼をつうじ、薩長土の志士らと懇意にしてきた。土佐勤王党の武市半平太や岡田以蔵は門弟だったから、筋金入りの勤王家である。

 此度の出陣について桃井は当初から強く反発、強硬派からの襲撃を警戒して配下ともども陣から離脱していた。が、大坂城の混乱に乗じてまぎれこみ、慶喜の居間にほどなく近い柳の間に火をかける。

 まさに寝耳に水。新八も土方も、内部からの裏切りに唖然とした。

 新撰組は、


「それ捕まえろッ、逃すな」


と脱兎のごとく逃亡する桃井の一党を追跡したが、奴らはまんまと大坂蔵屋敷へ駆けこんでしまう。


「糞ッ、土佐藩邸に逃げやがった」

「一同、手出し無用、手出し無用であるッ」


 藩邸ともなれば、さすがの新撰組も手がおよばない。もし強引に押しこみでもすれば、第二の江戸薩摩藩邸となり、薩長に新たな口実を与えるは必定。

 忍んで諦めるしかなかった。ともすれば桃井の思惑は、わざと火に油を注ごうとしていたのかも知れない。

 斯様な具合だから、もはや戦どころではなかった。

 財政、外交、軍事、疫病、災害――

 積年の政治課題は、二百六十年以上つづいた幕藩政治体制の屋台骨を揺るがし、武家の存在意義と個人の自己意識を不安定せしめた。その反動として、帝の臣下であることを拠りどころとする歴史観と思想が、幕末に沸騰期をむかえる。そこにこの争乱。濃淡はありこそすれ、真面目に学問をした者ほど勤王でない者はなく、根っこは広く深い。

 慶喜も生粋の勤王だ。

 よって勤王か佐幕かというよりも、次に誰が徳川宗家を裏切るのかという構図だった。その心的過程において勤王という言葉は、とても都合がよい大義といえよう。長年仕えた徳川を裏切るのではなく、帝に忠勤を奉じるのだ――と言い訳と格好がつく。

 長いものに巻かれたい、己より短いものを信じることができず、嫉妬して足を引きたくなるのが日本人の性分ゆえ、こうした選択肢を提示されればより長いものを選びたくなるのは必然のこと。

 時間がたてばたつほど、噂が虚実混濁となって伝播し、裏切りの連鎖が果てなく起こる恐れがある。このままおめおめと戦場から引くのは武家として情けないが、すでに大坂城は底知れぬ虎口だ。

 かの神君家康公とて、三方ヶ原では命からがら武田軍の猛追から逃げきり、本能寺の変後はさんざんな目にあいながら伊賀越えをして難をのがれたもの。これらの逸話が示唆する教えは深い。

 怪我によって戦に参加していなかった近藤勇も「こうしてはおられぬ」と大坂城へはいり、次のように建言した。


「拙者の負傷は癒えておりませぬが、幕軍の不利の折、遊撃隊と見廻組を拝借願えましたら薩長の兵を京まで追いのけ、屹度大勢を挽回致しまする。上様はその間に海路を江戸へ御帰城相成り、あらためて関東の兵を率いられ、さらに御上洛の策を取られては如何で御座りましょう」


 慶喜は憔悴した顔色で、頭を縦にも横にも振ることなく、各家臣たちが入れかわり立ちかわり主張する論を黙って聞いていた。

 しかし、その夜更け。

 大坂城内が南下してくる薩長軍にたいして慌しく備えているなか、夜闇にまぎれ、人知れず一大事が起こる。

 突として慶喜は、松平容保、松平定敬、老中酒井忠惇と板倉勝静、若年寄永井尚志をなかば強引にともなって城から出ると、軍艦開陽丸に乗って大坂を離れたのだ。

 新撰組にも命が下る。大坂城にあった十万両を搬出したのち、警護役として一月十日に順徳丸へのりこんだ。上様と会津公の命とあらば、是非もなく従うほかない。

 それから一月十二日、開陽丸は品川へ到着し、順徳丸は続いて一月十四日に横浜港で投錨した。

 斯くして新八ら新撰組は、京で世話になった恩人らに礼を述べることはおろか、惜別の寸暇すらなく、およそ五年の濃密な歳月を過ごした思い出ぶかい夢の地――京師を、あとにしてきたのだった。

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