鳥羽伏見(四)
北正面の淀城下と西左手にのぞむ橋本宿から、黒い煙が何本も立ち上る。
焦げ臭い風が鼻腔を覆った。
「なァ、ガムシンさん。薩軍が官軍成りしたという噂、あれは本当だろうか」
「フン、去年の倒幕の勅書しかり、どうせまた薩長と倒幕公卿のでっちあげに決まっている。そんなものに踊らされる奴らはつくづく阿呆だ」
「金ヶ崎合戦の信長公、関が原の三成公然り。戦でもっとも恐ろしいのは背後からの裏切り。あとは役立たずの味方、ですね」
「然様。何が御譜代、何が徳川八万騎か。つい先日まで威勢はよかったが、働きぶりはまるで雑兵だ。聞けば彦根藩などは二つに割れ、今や京で薩長の太鼓持ちをしているというではないか。直政公と井伊掃部頭様は、草葉の陰でむせび泣いておられるであろう。いったい我らの苦労は何であったのだと。その点、会津はいい。一貫している」
「ええ、あれこそ武家のあるべき姿」
やれやれと首を回してから、新八は己の装備を手早くあらため、紐と帯を締めなおす。
「――だがそんなことはどうでもいい。まずは我らが為すべきことを為す。薩軍の一等強い奴を斬り、土方さんに手土産としてやろうではないか。もうひと暴れして、ここから退こう」
「ハハハ、さすがは
「お主こそ、ここにきてまで俺を馬鹿にしておるのか」
「いえいえ、滅相もない」
斎藤は人懐っこい顔で笑い、ペロリと舌を出す。新八は斎藤の額をペシッと、しなりをつけた平手で叩いた。
この男はどんなときも冗談が好きな剽軽者で、真顔で嘘を言って人を笑わせる。時々どこまでが嘘でどこからが本当かわからなくなるほど。それだけ周囲にながされない確固とした芯をもっていて、肝が据わっているということの裏返しでもある。奴が緊張で狼狽する姿を見たことがない。だから土方は、綱渡りをするような探索方を任せたのだろう。
流儀は斎藤曰く山口一刀流。太刀筋は古風で居合術は一級品。肝が据わっていることと相まって、虚実を巧妙におりまぜ、あらゆる場面に通用する無敵ぶりだ。
そうこうしているうち、二丁ほど向こう、木陰からしきりに発砲をくりかえす一隊が目視できた。数は二十数人といったところ。正面から迫る会津兵に気をとられ、こちらにはまったく気付いていない。
腕に白布の合印をつけている。
あれは、薩軍だ。
新八は険しい目つきに変わり、隊士たちに「いくぞ」と顎先で促した。
「隊を二つに割る。斎藤、お主は後方に回れ。俺が側面から斬りこむ」
「承りました。――よし、行くぞ」
何度も繰り返してきたことだから、たがいの意図が阿吽の呼吸で伝わる。
斎藤を先頭にした十名は、蛇のように音もなく樹間を滑っていった。
「さて、我らも参る。よいか、孤立するなよ。一人に時間をかけるな。必ず二三人で当たれ。こんなところで死んでいられるか。必ずや突破して大坂へもどるのだ」
青白い鈍い光を目に宿らせた一同が、無言のまま頷く。新八は「たのもしい奴らだ」と口元を歪める。一斉にスラリと抜刀し、切っ先を脇に垂らした。
敵の死角から音もなく忍び寄る。そろそろ斎藤の隊が配置についた頃。
薩軍の奴らは懸命になって発砲したままでいる。
一閃。
新八は身を小さく縮めて敵陣に飛びこみ、端に居た一人を袈裟に斬り捨てる。端から端を睨めまわし、ゆっくりと立ち上がった。
虚をつかれた薩軍の兵たちは「何ごとか」と新八を見て、はたと射撃をやめる。
阿鼻叫喚の戦場で、突とできた余白に響き渡る大音声。
「新撰組であるッ――」
新撰組の名を聞き、兵たちは条件反射的にギョッとして、口が半開きになっている。
「これなるは二番組組長、永倉新八。誰ぞ、腕に覚えはあるかァッ」
それを合図にしていた斎藤が、衣を風に流しながらふわりと鷹のごとく飛び込んできた。着地と立ち上がりざまに挨拶がてら、早くも二人を斬り捨てる。
まるでそれは、季節をむかえた彼岸花。
真っ赤に咲く大輪の死に華。
刀で斬られた人の命とは、斯くも美しく爆ぜる。
斎藤は自ら咲かせた満開の花道を悠然とくぐり歩く。
「おのれ、薩摩の芋侍ども。臭い屁ばかりをこきおって、ケツの山を四つにしてやるから覚悟せよ」
どんなときも真顔で冗談をかかさない斎藤だった。
さらに隊士ら二十数名がなだれこみ、次々と刀を体ごと叩きつける。
しかし流石は薩摩の侍たち。血気の壮士ばかりと見えて、血を見て怯むどころか寧ろ奮いたって抜刀する。すぐに薬丸自顕流特有の高い八相構え――蜻蛉となりて、甲高い奇声を発しながら迷いもなく強烈な打ちこみを放ってくる。
ただちに混戦となった。
新八は一人二人と斬りつけたのち、やっと己の獲物を見つけてペロリと舌なめずりをさす。
大柄な、岩のような顔をした男が一人。長い抜き身を引っ提げている。
「貴公、この隊の隊長だな」
「いかにも。某は佐古田才蔵ち申す。新撰組の永倉殿とあらば、相手にとって不足なし。いざ、尋常に勝負」
「おう、承った。さァ、こい」
佐古田は蜻蛉の構えを取り「キィエエエィエエエッ――」と渾身の打ち込みを放ってきた。
新八は体を開いて易々と間合いを外す。振り下ろされた佐古田の太刀筋が終点に達しようとするやいなや、切っ先に己の刀を当てた。そのまま、指先と全身が連動した繊細な操作をもって、佐古田の刀を掬い上げる。
佐古田も剣が使えるほうであろう。刀の自由を奪われたと瞬時に察し、「うッ……」と呻き声をもらして引き剥がそうとした。
が、なおさら刀がくっついて来る。こうなってしまっては、すでに新八の掌中である。佐古田は刀もろとも体の自由を操られ、流れて万歳をする格好になり、僅かほんの一瞬であるが重心を崩された。
その一瞬――されど剣術においては永遠のはじまり。
何万回、何十年と剣を振って鍛錬しようとも、すべては一瞬と一刀で決し、あっけなく今生が終わる。
生きるとは、死に際をつなぐこと。
それが剣術。
新八が歩む不退転の一本道だ。
佐古田才蔵という侍は、漆器が割れたような乾いた音を、耳朶の奥に聞く。
するとにわかに、右のこめかみが小便でも浴びたかのようにサーッとぬくくなった。
はて、なんだろうか。横面に切っ先がかすったか。
傷口をあらためてみる。手のなかに豆腐を掴んだような、ヌルリと滑る感触があった。
「これは……」
はじめて見たもの。
これは、脳味噌。
割れたのは己の頭蓋だった。
佐古田の視界はグラリと揺らぐ。もう一度自分を斬った男の顔を見ようと思ったが、それは叶わなかった。そのまま、棒倒しのように顔面から倒れてこと切れた。
「さて、わりと呆気なかったが――」
苦戦している味方はいないか。
もっと強そうな男はいないか。
勝ちの余韻に浸ることもなく、新八は目だけを素早く動かして次の相手を探す。ところが薩摩の兵はことごとく倒れ、またはどこかへ逃亡していた。
血振りをしたのち、鍔鳴りを残して鮮やかに納刀する。隊士の面々を見渡せば、手足を浅く斬られた者が二人あったようだが、動くには問題がなさそうだ。大坂まで辿りつけるであろう。
「よし、参るぞ」
「「おうッ」」
この日、新八と斎藤が率いた隊は最後まで後方にとどまり、神出鬼没の活躍を見せた。
ひたすら走り、がむしゃらに戦い、みごと殿軍の役割を果たす。
その働きぶりは「古名将の退口にも劣らぬ」とて、陣中の語り草になった。
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