戦士たちの休養(一)
宿舎をでた新八らは、大股歩きで袴のすそを流し、肩で風をきって日本橋の賑やかな大通りを歩く。
島田魁、中村小三郎、蟻通勘吾、梅戸勝之進、前野五郎などなど、いずれもこれから存分に遊ぶつもり満々の面持ちだ。それはそうだろう。鳥羽伏見で生死の巷を出入りして、まだ間もないのだから、たがいの幸運と今生を謳歌しないわけには行かない。
昨日はちらちらと雪が舞った。一転して今日はうららかな小春日和になったので、人の通りも多い。
「京もよかったが、やはり江戸だ」としみじみ思う。
新八にとって江戸は生まれ育った故郷だ。そのように感じるのも当然至極のこと。
天保十年四月十一日。下谷三味線掘にある松前藩上屋敷の長屋で、新八は元気な産声をあげた。幼名を栄治という。
長倉家は、代々江戸定府取次役として仕えてきた百五十石の由緒ある家柄。栄治は父母がやっと遅くに得たひとりっ子であったから、誕生時には二人そろって涙をながして喜び、その溺愛ぶりは周囲をあきれさすほどであった。
おそらくそのためだろうか。栄治は生来向こうみずで、腕白な気質にすくすく育つ。父も叱るときはちゃんと叱る人ではあったが、なにぶん息子が可愛くて仕方がないから、よその親にくらべるとずいぶん甘い。いつも迷惑したのは、栄治がやるひどい悪戯を被る家人たちだった。
八歳のころ。
栄治は自ら父に願いでて、剣術の修行を志す。武芸をお家芸とする家柄ならばともかく、幼いうちは家で父が真似ごとのような稽古をつけてやるのが普通だ。ある程度体ができあがるのを待って、十二、三歳をこえてから正式な師範につかせるのが平均的であったから、やや早いほうだといえる。
まず母は「それならば」と、手縫いで小さな稽古着をこしらえて着さす。その姿を見た両親は、そろって目尻を下げて、
「あらあら、武蔵と卜伝も真っ青ですわ」
「ほんになァ。栄治には天与の才があるのやも知れぬ」
と喜んだ。
かたや父は父で、仕事そっちのけで道場をさがしてまわる。
「あそこは稽古場が汚いからいけない。栄治が病になったらたいへんだ」
「師範の所作が気に入らぬ。栄治に粗野な悪癖がうつりでもしたらたいへんだ」
「こちらの師範は面構えがよくない。栄治の顔があのようになったらたいへんだ」
あれでもないこれでもないと悩んだすえ、ついに江戸で聞こえた達人、神田に道場をかまえる神刀無念流撃剣館岡田十松を師にさだめ、「わが子の武運長久あれ」と送りだした。
だが実のところ栄治の父は、とても正しい選択をしたといえる。子供とは、五歳から十二歳にかけて体と運動能力の伸び盛りをむかえる。とくに十歳から十二歳期の発達は、乾いた土に水が染みこむように著しい。もしここで運悪く、おかしなクセが体に染みついたりすると一生悩まされることもあるが、逆に良縁と良師にめぐりあえたなら、本人の遺伝と努力次第で、天与の才を燦然と開花さすことが稀にある。
栄治は後者だった。なりゆきとはゆえ父が栄治に与えたものは、まさしく英才教育にほかならなかった。
もちろん当の栄治もがむしゃらに励む。読み書き学問こそ少しばかり苦手であったが、好きな剣術となれば話は別。工夫を惜しまず、労を労とも感じず、楽しくて仕方がないという具合だった。
入門したてのころは剣に振り回されているような姿であったが、霜のあした月のゆうべを荒武者にまじって鍛錬するうち、気がつけば大人から強かな一本をピシリと取るようにさえなる。師の十松も顔をほころばせながら「長倉は拙者の高弟でござる」と得意げに人へ紹介してくれたもので、栄治はそれがとても誇らしく、嬉しかった。
天与の才を明らかに発露させた栄治の成長は止まらない。やがて十五で切紙、十八になったころには本目録の皆伝を授けられ、いつしか道場屈指の腕前になっていた。
またいっぽう、十八で元服をして前髪をおろし、名を新八とあらためる。末広がりの目出度いこの名には、長倉家の繁栄を願う両親の心がこめられていた。
ところで当時の松前藩家中では、次男三男を名のある塾へ送りだして修行さすのが慣わしであったが、家督を相続する長男は外に出さないのが通例だった。共に剣を学んだ友人たちが次々と塾へはいる様を見て、負けず嫌いの新八が黙っているはずがない。これをよしとせず「私は到底、小成では満足できませぬ」とて、両親にだまって藩邸からぬけだしてしまった。
誤字当字まじりの拙い置き手紙を読んだ父は、別な意味で溜め息をもらしはしたが、可愛い一人息子のもどかしい気持ちもよく理解できた。「それもこれも、なかなか子を成せなかった我ら親に責任がある」とまで思ってしまう。
何ら怒りであるとか憂いを見せずに、むしろ親の手許から離れようとする我が子の成長を頼もしくすら思い、「奴め」と微笑む始末。
「まァ、窮屈なお役目仕事などやらすより、しばらく自由にさせてやったらよいと儂は思うが、お前はどうか」
「はい。あの新八のことです。行く先々で活躍し、屹度何かを得て、元気に帰ってくるはずです。あの子の好きにさせてやりましょう。可愛い子には旅をさせろともいいますから」
「然り。親は親、子は子だ。それぞれの天命をもって生まれてきた別な人格であるから、親が子の重石になってはいけぬ。つまらぬ小役人の儂が教えてやれることは、とうに尽きた。少し寂しくなるが、こればかりは仕方ないな」
「はい、そうです」
この親にしてこの子あり。
新八の楽観的で屈託のないまっすぐな気質と、よどみない澄んだ太刀筋は、両親譲りであったのかも知れない。父は「どうせ近所の塾に行くというし、お咎めもないだろう」と考え、藩には修行にだしたということにして届け出ておいた。
それから新八は、本所亀沢にある百合本という幕臣が開いている神道無念流の塾へはいり、代稽古や出稽古をして四年間を気ままに過ごす。ますます剣の腕は高まり、飽き足らなくなったのちは武者修行の旅にでて下総をまわった。
江戸へ戻ってきてからは、御書院番組で心形刀流剣術の坪内主馬という人から腕を見こまれ、師範代として招かれた。そこの道場にいたのが島田魁で、以来彼とは長いつきあいになる。
そして、出稽古をして忙しなく動き回っているなか、近藤の天然理心流試衛館と親密の交わりを結ぶ仲に至る――という仕儀だった。
隣を歩く島田は、ますます禿げが目立ってきた頭を大きな手でさすりながら、しみじみと言う。
「やはり、江戸はよいですな」
「うむ、ちょうど俺も然様に思っていた。ことさら初春の江戸は、盆地で寒い京とも趣きが違う」
「はい。そろそろ早梅も咲いているのでしょう。愛でるのが楽しみです」
この島田魁という男。生まれは美濃国の大庄屋の次男坊であったが、天性の剣の素質を発揮し、惚れられて武家の養子になった。新八よりも十一歳上だから、今年で四十になる。
六尺を超す大きな体格をした巨漢で、戦場では武蔵坊弁慶か張飛のように暴れまわる。一見すると恐い面構えの剛の者に見えるが、内実はとても繊細で、試合はこびの進退や太刀筋は器用だ。
あとは乙女のように優しい側面がある。たとえば新八の着物がほつれていると、目ざとく気がついて太い指で丁寧に縫ってくれたりもする。また、とにかく甘いものが大好きで、島田が作ったお汁粉は甘すぎて余人には食べられないほど。いつかこの争乱が収まったら、島田は甘味処をはじめたいと考えてもいるそうだ。
新八とは坪内道場で知りあったが、浪士組に参加した新八を追い文久三年五月に上洛してきた。新撰組隊士のなかでは、ほぼ旗あげの頃から居たにも等しく、誰もが一目置く古株。新八が率いる二番組の伍長を務め、たよりになる右の剛腕である。
「――ときに新さん、そろそろお父上とお母上に顔を見せてやってはどうです。せっかくこうして近くまで来たのですから」
「あァ……ウン、そのうち落ち着いたら、そうする」
「やれやれ……またそのような。ここから目と鼻の先ではないですか。きっと会いたがっておられると思いますよ」
「いや、いい。いまお会いしても要らぬご心配をおかけするだけだ。男が一度志を立てて故郷をあとにしたからには、志を遂げるまでは引かぬ、顧みぬ。これは剣の道と同じである」
「へぇ……それはそれは、そうですか。まァ、いいです。また私から百合本様経由でお便りをだしておきますが、構わないですよね」
「好きにすればいい」
京の壮士たちを震え上がらせた我無性者、永倉新八も人の子。両親の話をされると途端に弱くなるというもの。実のところ、思いつきで苦しい言い逃れをしたわけでもない。本音を言えば優しい両親に会いたくないはずがなかった。
しかし、もしもひとたび両親の顔を見たとき、どのような心境の変化が生じるのかまったく読めない己が心配なのだ。
だから今は、会わないでおく――そう心に決めている。
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