終わりなき旅路(三)
「新さま、新さま、もう朝でございます」
深い眠りから揺り起こされ、新八はうっすらと目をあけた。
その視界にあったのは、花魁の化粧を顔に乗せていない煕子の清かな素顔だった。
白粉など必要もないほどに肌が透けるように白い。
「おう、すまぬ。皆は、先にかえったか」
「いいえ、いま敵娼たちが新さまとおなじように起こしてさしあげているところですよ」
「そうか、手間をかけさせて済まぬ」
「とんでもございません。これから西軍と一戦まみえる新撰組の皆さまを送り出す栄誉なお役目とあって、女たちははりきっておりますの。武家出の者は、私だけでもございませぬゆえ」
「そうなのか」
いまだに寝ぼけている頭を枕から引き剥がし、さっきからせわしなく動きまわっている煕子のうしろ姿を眺めた。
ふと昨夜の二人のことが脳裏をよぎったので、新八は一人で頬を赤くした。
それにしても、今朝の煕子は違う。
ああした着物は京で何度も目にしたから、そちらの方面に疎い新八でもわかる。
友禅染めだ。
大小の梅をあしらったあでやかな着物が春を感じさせてくれる。堅く文庫結びにした赤色の帯には、白い橘の花が盛大に咲き誇っていた。しかも前結びではない。後ろ結びだ。
小さく結った島田髷は、武家の女子がやるそれだった。その装いから家格の高さがうかがえる。
新八は自然と布団の上で威儀を正した。煕子の姿がそうさせた。
それを見て煕子がクスリと笑う。
「どうしたのですか、起きた途端に布団のうえで正座などなされて」
「いや、体が勝手に動いただけだ。気にしないでくれ」
「でもわかりますよ。私たちはそうしたものですから。これは理屈ではございませぬ」
「うむ」
幼少のころから染みついた条件反射であるから仕方がない。
松前藩主へ側室を送り出したこともある長倉家の、厳粛な女たちの顔を思い出したゆえに、体が察して勝手にやったこと。
「新さまのお着物が仕上がって戻ってまいりました。間に合ってよかったです」
「おう、ありがたい」
着物を手にとろうとしたところ、煕子が細い腕をのばして首を横に振った。
「今日は私が着付けをしてさしあげますから」
「それは悪い、妻女でもないのに」
「いいえ、駄目です。賭けには私が勝ったのですから、ここではいっさいを私の言うとおりにしていただきます。武士が二言はなりませぬ」
「そういえば……そうであった」
結句、中村小三郎は食い下がってみたものの、小亀と結ばれることはなかった。したがって二人の賭けは煕子の勝ちとなったのであるが、今朝は煕子の願いを聞くと眠るまえに約束させられた。
「では、まことに畏れおおいことではあるが……」
新八は背を向けて寝巻きを脱いだ。すかさず煕子が着物をかけてくれる。
さらに袴をはかせてもらい、彼女が慣れた手つきで手際よく紐を結んでくれるのを待った。紐が締められるたび、腰がはいって丹田に気がたまってゆくのを実感する。
やがてできあがった結び目は、整っていて美しかった。袴の折り目が左右対称に端然と伸びている。なかなかこうは着付けられないものだ。煕子が生まれ育った家風が知れる。
しかしここまで人からやってもらうのはいつぶりか。おそらくは幼いころに母以来であるので、少しばかり気恥ずかしさがなくもなかった。
煕子が瞳を寄せて下からうかがう。
「きつくはございませぬか」
「いや、俺はきつくて丁度よいほうだ」
「フフフ、やはり。兄もそうでしたから」
「剣士の性分であろうな」
つぎに鏡のまえへ座るようにうながされた。
「こんどは何をするつもりだ」
「髷を結いなおして差しあげます。お髭もうっすらと生えてきたようですから、剃刀も当てましょう」
「おいおい、そこまでしてもらっては悪い」
「髪結いが来ないときには、いつも女同士でやっているのです。どうぞおまかせください」
「よもや、首を掻くつもりつもりではあるまいな」
「まァ、分かってしまいましたか、ウフフフ」
どうやら煕子は、兄にしてやりたかったことを辿りたいらしい。
兄は罪人として処刑されたゆえ、最期まで家族は何もしてやれなかったことを昨夜も涙ながらに悔しがっていた。となれば拒むことはできない。
「では、何から何まで世話になり済まぬが、せっかくなので頼むとしよう」
「はい」
煕子は新八の髷を解いて丁寧に髪をすいてくれた。
さらに髪をきつく引きあげて、いつもよりやや高い位置で髷をたばねた。
「これは、少し、高くはないだろうか」
「いいえ、これぐらいのほうが歩くたびに垂らした
「そうなのか……」
「ええ、そうですとも」
あとは熱心に髭を剃ってくれた。
「さすがは刃物の扱いに長じておる。うまいものだ」
「昔、父と兄が御前へあがる際には私がやっておりましたの。母はこれがとても苦手で、しばしば頬を切ったりしまして、そうなると夫婦喧嘩がはじまって大騒ぎ」
「ハハハ、それは大変だ」
「あッ……動かないでくださいませ。危のうございます」
「煕子が笑わすからであろう」
「ま、そうでした。フフフ」
それから、二人分の朝餉がはこばれてきた。
なんのことはない一汁一菜の膳であるが、どうしたことか、今朝はやたらと匂いと味が鮮明に感じられた。
正面では煕子が、武家の娘らしく行儀よく静かに食べていたが、新八の視線に気がついて箸をとめた。
「いかがなされましたか。お口に合いませぬか」
「いいや、うまい。格別な味だ。江戸の朝をむかえたと思える」
「そうですか。それはよかった」
新八は「こうしたものも悪くない――」と今は思える。
十一年前、家を出た十八のころは違っていた。
武家の習わしに従って父とおなじお役目につき、親や上役がきめてきた嫁を娶り、子をなして安穏と老いてゆくことなど酷くつまらないものに思えた。
ゆえに茨の道と知りながらも武芸者としての大成を願い、周りが行くなと言った分岐路をあえてまたいだ。
だが、いざ大政奉還となり、二百六十年もつづいた徳川の幕藩体制が突然目のまえから消失して先行きがわからなくなってくると、急にあの頃が懐かしくなって、愛おしくすら思えるから人とは身勝手なものだ。
もしも――
父と母の言うとおりに過ごしていれば、今ごろどうしていただろうか。こうして四人で、もしかすると五人六人で賑やかに朝餉を囲んでいたのかも知れない。
父と母にとって新八は、たった一人の息子。
「父上と母上も孫の顔を見て過ごしたかっただろうに、大変な親不孝をしてしまった……」と今さらながらに思う。「今日、この足で顔をうかがいに立ち寄ろうか――いいや、なるまい。ならぬのだ新八」とまた掻きけす。
新八は脱藩までした身だ。
当然父と母には恥と心配をかけてしまったであろうし、なにより、いまだ納得のゆく手柄を立てていない。これでおめおめ帰れば恥の上塗りだ。「帰郷するならばそれからだッ」と己に言い聞かしながら飯をかきこんだ。
煕子が膝をよせて、たおやかな所作で両手を差し出してくれた。
空になった椀を乗せる。
「すまぬな。今朝はとても腹がすいた。山盛りで頼む」
「はい。たくさんございますから、ご存分に」
耳をすませば、道をゆく町人たちの声が聞こえた。
江戸深川の朝は、今朝もいつも通りに明けた。
それぞれ敵娼の部屋で食事と身支度を整えた隊士の面々は、玄関先で新八を待っていた。いずれの顔も夢見心地のまま昨夜の余韻をのこして、いまだ緩んでいる。
中村が新八の顔をのぞきこむようにして迎えた。
「おはようございます、ガムシンさん」
「おう、待たせたな」
「昨夜はお楽しみでしたか」
「うるさい。その野暮さ加減が小亀に嫌われたのだ。まだ悟らぬのか」
「へへへ」
新八につづいて煕子がやってきた。
島田は武家娘の姿でいる彼女を見て、「ほう」と目を細めて唸る。中村たちは目を丸くさせた。
ほかにも品川楼の者たちがつぎつぎとやってきて、総出で見送ってくれる。あの用心棒たちでさえ、家中勤めをする侍のようにかしこまって頭を垂れていた。
新八が中村にうながす。
「おい中村、あれを」
「はい」
中村は風呂敷包みを楼主のまえにどさりと置いて、大きく開いてみせた。
そこには重ねられた小判の束が乗っていた。百両ある。
女たちがどよめいて覗きこみ、楼主は首を横に何度も振って狼狽の色をうかべる。
「イヤイヤイヤイヤッ、滅相もございません。永倉様、こんなにたくさんはいただけません」
「よいのだ。いろいろとよくしてくれた礼ゆえ受け取ってくれ。おかげで隊士どもの鋭気を養うこともできた。むしろこれでもはまだ足りぬほどと存ずる。多いぶんは皆の小遣いにしてやるがよい」
「は、はは――ッ。そのようにいたします」
平伏する楼主のとなりで、指をそろえて待つ煕子が首を小さく傾げて愛らしく微笑んだ。
思わず新八も微笑みを返す。煕子は小常ともまた違うやわらかさを持った不思議な女子だ。
「では煕子どの、世話になった」
「いいえ、行き届かぬ点ばかりにて申し訳ございませぬ」
「我らは軽々しくもまた会おうなどとは言えぬ身なれども、いずれまたどこかで」
「はい、その日を楽しみにしております。お手柄のお話をたくさんお聞かせくださりませ」
そして煕子は威儀を正して新八と隊士たちを見渡す。
小さな唇を動かして、思わず背筋が伸びてしまうような張りのある声音を発した。
「新撰組の皆さまの武運長久をお祈り申し上げております。どうぞ悔いなきようまっすぐに、ご存分に奮われませ」
楼主、花魁、奉公人たちもつづいて一斉に礼をした。
気がつけば通りにはたくさんの人が集まっていて、おなじように垂首している。
新八たちは驚いて顔を見合わせたが、島田が「ここはどうか新さん、ひとつお願いします」と穏やかに言った。
新八は無言でうなずく。
懐かしき江戸の空気をいっぱいに吸い込み、大きく胸をふくらませた。
はたしてこれまで何度、この名を口にしてきたか知れない。にもかかわらず名乗りをあげるたび、ますます誇りに思える名だ。
その名は、
「我ら、新撰組であるッ――。風雲急を告げる世相なれど、皆々が安んじて暮らせるよう屹度江戸を守る所存。開府以来二百六十年。この安寧を乱す者あらば、我らが悉く成敗してくれようぞッ」
うららかな早春の朝の気に、新八の大音声が響いた。
頼もしい口上を聞き、場にいる者たちがワッと沸いた。
「新撰組、日本一ッ」
「江戸を頼みましたぞッ」
「なにとぞご武運をッ」
新八は煕子と目で意をかよわせて、たがいに頷く。
それから颯爽と黒羽織をひるがえし、明るい通りに踏み出した。
そこにあったのは、人人また人。
隊士たちの顔をひと目見ようと集まってきた深川の住人たちが沿道にならび、二階の窓からものめずらしげに顔を出している。
江戸っ子は賑やかな祭りごとが大好きだ。
新撰組の隊士たちは新八を先頭に二列縦隊となりて、たくましく胸を張り、袴を風にながし、足並みを揃えて勇ましく歩いた。
彼らを見送る人の列は、大門通りを抜けるまでつづいた。
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