霜雪に咲く早梅(三)

 芹沢、平山、平間、土方歳三は、角屋から八木邸へもどって飲みなおしをした。

 そこにはお梅、桔梗屋吉栄ききょうやきちえい輪違屋糸里わちがいやいとさとが待っていて、めいめいに酒の肴を持ちより、ささやかな酒宴となる。

 土方にとって、楽しいひとときだった。

 話題は世間話、新撰組のみじかくも濃い昔話、たがいの郷自慢にまでおよぶ。

 朗らかな笑いが絶えず、しみじみと居心地がよい。ひさしぶりに心が落ち着いた。

 と同時に、土方は己の身の上を呪う。「なぜ、こんなことになってしまったのか。俺はなぜ、こんな場所に立ってしまったのだろう――」と。

 すっかり夜が更け、子の半刻を過ぎていた。


「さて、芹沢隊長。楽しい酒でした。私はそろそろ」

「あァ、これはしたり。ずいぶんと遅くまでつきあわせてしまった。土方君は総会の準備で動きまわっていたから、至極疲れていたであろうに。気がつかず申し訳ない」

「なんの、あれしきのこと朝飯前ですよ」

「さすが、たのもしいかぎり。――この通りだ。心より礼を申し上げる」

「いや……ハハ、やめてくださいよ。それでは」


 部屋を出た土方は、八木邸の者たちが隣室で寝静まっているのを確認したのち、玄関の戸を力なく開けた。

 豪雨――

 そうだった、雨が降っていたのだと思いだした。

 大粒の雨が地と屋根を叩く。

 轟々と唸り声をあげている。

 これは天が怒っているのか、泣いているのか。

 雨粒が落ちるたび、土方は、「外道め、卑怯者め」と天から何度も咎められている心地がした。

 暫したたずみ、底なしに暗い夜空を呆然と見上げたのち、羽織をかぶる。通り向こうの前川邸へむかった。

 それから。

 夜明けまえのこと。

 雨はまだ激しく降りつづいた。

 通りは川のようになり、庭先は池のように水がたまっている。

 土方は雨音と暗闇にまぎれ、ふたたび八木邸へやってきた。

 さきほどとはうってかわり、恐るおそる、息をひそめながら。

 芹沢という侍は、水戸で数々の修羅場をくぐりぬけてきた経験があるゆえだろう。察知する感覚が新撰組の誰よりも鋭い。彼に悟られないようにして近づくには、細心の注意をはらう必要があった。

 なにゆえにわざわざ、そんなことをするのかといえば、それは――

 暗殺するためである。

 京都守護職御預り、新撰組局長、芹沢鴨を。

 まさか芹沢を亡き者にするために謀略をめぐらす羽目になろうとは、土方は一片たりとて夢にも思ってみなかった。

 深い理由は知れない。

 ただ近藤からやれと言われた。

 「待ってくれ、それは誰の指示なのか」と問えば、近藤は誰とも名をあげず、「上からの命である」と応じた。

 畢竟、会津藩からだ。

 となれば、近藤と土方にとって否応もない。

 「上意下達。それが士道だ」と近藤は言った。

 実行するうえで一番の問題は、神道無念流の者たちだ。

 ほかでもない、新八と野口についてである。

 江戸から共にでてきた同志の新八を殺したくはない。また、わずか二十歳になったばかりの無邪気な野口を死なすのも人としてしのびない。

 そこで土方は島田に相談をもちかけた。当日の段取りについて万事を決め、新八と芹沢を引き離すことにした。野口は新八についてくるだろうと読む。結句、そのとおりに至る。

 襲撃の計画はこうだ。

 四人で押し入り、まずは剣の腕がたつ平山と芹沢を分断する。そのあいだにお梅と吉栄を逃がし、なるべく刀を抜かせないようにして、二対一で挟撃する。

 別室で糸里と眠る平間は、剣士というよりは文士。どうとでもなる。勘定方として貴重な人材でもあるから、できることならば生かしておきたいと考えた。

 しんと静まりかえった暗がりのなか。

 土方は、芹沢たちが眠っているであろう部屋のまえまで来た。

 柱に背をあずけ、生唾を飲みこむ。

 自身の鼓動だけが鳴り、脈が指先まで波打つのがわかる。

 呼吸がひどく乱れ、おさえつけても漏れてしまう鼻息が、情けなく震えていた。

 音はない。

 おそらく、すでに寝静まっているのだろうと判断した。八木邸の門口で待っている三人に合図を送るため、一歩踏みだす。

 その時だった。


「――土方君か」

「ッ……」


 室内から芹沢の声がした。

 土方は背筋が凍りつき、思わず息を詰まらせる。


「まずいッ、気付かれてしまったか――」


 焦ると同時に、不思議と安堵の気持ちがおとずれた。

 小さくため息を吐いて呼吸をととのえる。

 今日は失敗だ。

 また日をあらためればよい。

 そうすれば昨今の変転めまぐるしい世情のこと。来月にでも一橋慶喜が上洛すれば状況がまったく変わり、芹沢を生かしておいたほうがよいという方針に一転することも十分におこりうる。

 土方は気をとりなおして明るく返事をした。


「あァ、申し訳ございません。起してしまいましたか。はい、土方です。前川邸の厠で誰かがひっきりなしにゲエゲエとやっているもので、臭くてかなわないのでこっちに来ました」

「……そうか、それは難儀であったな。少し……話がある。なかに入りたまえ」

「はい、失礼いたします」


 土方は襖に手をかけ、眠る者をおこさぬようゆっくりと引いた。

 ところが。

 部屋のなかからのっそりと流れでた空気の臭いに驚き、ぴたりと手を止める。


「これは……血の臭い」


 部屋のなかは、真っ暗で何も見えない。

 土方は目を凝らしつつ、一歩、また一歩と慎重な足どりで踏みいれた。

 三歩目――

 ぬるりと滑る感触に足裏をとられた。

 体の均衡を保てなくなり、ひっくりかえってその場に尻餅をついた。

 畳の上においた両掌に、べっとりと血がへばりつく。

 あらためて周りをあらためた。


「二人……たおれているのか」


 市中の捕り物ではいつも先頭を切り、いまや「鬼の土方」の異名を得ているほどであったが、この状況には思考がひどく混乱した。

 部屋の奥から芹沢の声がする。


「そこにあるのは、平山とお梅の亡骸だ」

「えッ……」

「――某が、手に掛け申した。土方君が帰ったのち、まずは抜き打ちに平山の首をはね、女たちと平間を裏口から……。三人のことは、見逃してくだされ」

「な、なぜですかッ」

「これは神道無念流の問題でござる。天然理心流の手をわずらわせるわけには、まいらぬゆえ、某が……」

「なッ、なんということを」

「本日の総会と、新撰組をとりまく情勢は、あえて言われずとも存じておる由」


 芹沢はすべてわかっていた。

 わかっていて総会に出席し、いつになく力強い演説をしたのだと土方は悟った。


「ところが困ったことに、お梅が……お梅がな、逃げぬというのだ。某のそばから絶対に離れぬと駄々をこねた。某が死ねば、後を追って自害して果てると。芸妓あがりのお梅が自害の作法など知るはずもなく、仕損じて苦しむのは明らかであるというのに、おかしいであろう」

「…………」

「そしていきなり、こう言った。梅が見たい――と。某の故郷、愛おしき水戸の、偕楽園の美しい梅を、某と見てまわりたいというのだ」

「それで……」

「二人で別れ盃をかわしたのち、首をはねた。我が居合術をもちいて首を断てば、痛みを感じぬであろうからと思ってのこと。最後に斬ったのが女子とは、さてはて、武家の名折れにて」

「いいえ違いますッ。最後に女子の願いを一刀で叶えられたと考えれば、剣士冥利に尽きるというものではございませんか」

「ハハ……さすがは土方君。ものは言いようである。では、そう思うといたそう。――さりとて、たいした女子だ。最期の最期まで、涼やかに、愛らしく、麗しく微笑んでいた。侍でもああはいかぬ。それが某は、愛おしくて愛おしくて、哀れで哀れで……」


 土方は、声がするほうに向かい、四肢で這った。

 畳一面に広がる血の海はすでに冷たい。おそらく、時間がずいぶんと経っているはずだ。

 芹沢が震える声で、途切れ途切れに語りつづける。


「もしもこの世が、かように薄暗くなければ。もしも某との出会いが、もっと違ったものであれば……。決して、決してあのようには死なせなかったものを。お梅には、女の幸せというものを味あわせてやりたかった」

「なにを言われますか。芹沢隊長に出会ってからのお梅さんは、ずっと可愛らしかった。女としての幸せを噛みしめていたからこそ、芹沢隊長のそばから離れなかったのではないですかッ」

「フフ……然様であろうか。やはり土方君は、優しい男だ」


 おぼろげに、背を向けて座る大きな影の輪郭が見えてきた。

 土方は滑る手足を掻いて正面にまわりこむ。

 息を飲んだ。


「せ、芹沢隊長、それは……」


 暗がりに慣れてきた目は、壮絶な画を映し出した。

 いったい何度、芹沢は己の腹を裂き、胸を裂き、喉を突いたのか。

 体の前面を傷だらけにして、血を滾滾と滝のように流した痕が着物に刻まれている。

 そしてお梅の首を膝元に置き、大きな手でやさしく撫でている。

 芹沢は自嘲ぎみに乾いた嗤いを漏らした。


「情けないことにて……。一人腹を切ったまではよかったが、親からもらった我が体にどれほど濃い血がかよっていたのか知れぬが、さっぱり死に申さぬ」

「手当てを、手当てをいたしましょう」


 門口で待っているであろう三人を呼ぼうとして腰を浮かせた。


「待て。待ってくれ土方君。侍とはな、ひとたび心を決したからには、なにごとも遂げなければならぬのだ。そうでなければ恥辱となる。土方君。貴公は某に二度目の恥をかかすつもりか」


 一度目の恥とは、水戸で死罪を言い渡され、赦免により生き延びたときのことを指す。


「い、いえッ……決してそのような。しかし、芹沢隊長は新撰組の要。まだまだやるべきことが山ほどあります」

「そう言ってもらえるのはありがたく存ずるが、新撰組の一同に迷惑を掛けるわけにはまいらぬ。ならぬものは、ならぬのだ。ゆえにせめて、己で始末をつけたい。それが士道だ」


 土方はうずくまって頭をかかえ、忌々しげに言った。


「あぁ、何ということだ。いつもいつも二つに一つ。これだから侍は嫌いだッ」

「フフ、フフフ……土方君らしいな。ところで、永倉君はあるか」

「いえ、まだ角屋から戻っておりません」

「そうか……それは残念だ。いたなら介錯を頼んだものを。永倉君には、こう伝えてくれ。新撰組における神道無念流の魂は、君に託したと。皇国安寧のため、我が意をついでほしい」

「必ずやお伝えします」

「あとは、誰か、神道無念流の者を呼んでくれまいか。神道無念流のことは、神道無念流のなかで始末をつけたい。なにとぞ我が願いを叶えてくだされ……」

「はい、すぐにッ」


 土方は転がるようにして玄関から飛びだし、合図を待っていた三人――沖田総司、藤堂平助、御倉伊勢武のところへ走った。

 全身血まみれになった土方を見て、三人はギョッと目を丸くさす。


「トシさん、どうしましたか。斬られたのですか」

「大変だ。芹沢隊長が、芹沢隊長がッ――」


 沖田と平助が、土方の体に傷はないかとあらためている傍ら。

 突としてスラリと抜刀し、土方の制止も聞かずに屋敷へ突入して行ったのは、御倉である。


「おのれ、芹沢めッ」

「おいッ、待て御倉――」


 土方らも追いかけて屋敷にはいったが、ときすでに遅し。

 御倉が、芹沢の背に深く切りつけたあとだった。

 それにしても剣士というのは、不思議な生き物である。

 果たして体の中のどこに、そのような余力が残されていたか知れない。

 芹沢は腹に刺していた脇差を抜き取って、弧に一閃させた。とはいえ、血が抜け切ったその体では満足に立ち上がることもままならない。力のない太刀筋が暗闇を漂う。

 それでも芹沢は、なおも立ち上がろうとする。

 目は光を失っているから、すでに意識が飛んでいるのだろう。芹沢の魂は体から抜けだし、剣気だけが留まり、神道無念流の荒稽古できたえられた強靭な骨肉を動かしているのかも知れない。

 芹沢の姿をした肉塊は、うしろへよろめき、八木家の家族たちが眠る部屋へ転がるように倒れた。

 その凄まじい光景に、土方と沖田と平助は足がすくみ、ただ呆然と眺めることしかできなかった。

 芹沢がふたたび立ち上がってくることはなかった。

 にもかかわらず、恐怖にとらわれた御倉は、大の字で動かなくなった亡骸に馬乗りとなる。あとは「死ね奸賊め、天誅である――」などと意味不明なことを狂ったようにわめきながら、何度も刀を突きたてた。

 そのたび、芹沢の亡骸が崩れてゆく。

 もはや抜き差しされた刀傷から、血は流れ出てこない。

 ついにすべての血を一滴残らず流しきって、芹沢はみごと果てたのだ。


「おい、やめろ。それはあまりにも無礼だ」


 沖田と平助が二人がかりで暴れる御倉を取り押さえる。

 土方は膝から崩れ落ち、その様を虚ろに見ていた。

 芹沢の亡骸は、そっと寄り添うように、あるいは守るかのごとく、お梅の首を左腕に抱えていた。

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