悪名の衣(四)
同年六月末のこと。
世相はますます混沌としてきた。
五月二十日に朔平門外で姉小路公知が暗殺されたことは、京師にある武家、公卿、帝を震撼させた。薩摩藩の評判は地の底まで下落する。
かたや長州藩は世論に乗じてますます京を掌握しつつあった。攘夷実行に強いこだわりを示し、馬関海峡において外国船に砲撃を開始。過激志士らと京市中で頻繁に接触している。
上洛中の将軍の身に何かあれば一大事であるから、自然に壬生浪士組は市中警備の役目が忙しくなってもいる。
そんな折、芹沢、新見、近藤にとって聞き捨てならない話が降ってきた。
突然、水口藩の公用方が会津藩の公用方を訪ねてきて、一方的に苦情を申し入れてきたのである。
「――さて近ごろ、異なことを申すようでござるが、壬生浪士組の隊士が乱暴の挙動これあり、当藩の邸でもときおり迷惑をいたす。何とか致されたいものでござるが」
「はて。では浪士組に照会のうえ、後日ご返答をいたそう」
さっそく会津藩公用方から確認を受けた局長たちは、「何たる言いがかりを」と憤慨せずにはいられなかった。
話がまったく違ったのだ。
水口藩は不逞の輩をふくむ京坂の過激志士たちと水面下で気脈を通じている節があった。しばしば座敷や宿の立て札に水口藩の名が出ているのであるが、開けてみれば実態は過激志士らの密談である。
水口藩邸に把握しているのかと問い合わせたところ、知らぬ存ぜぬとしらばっくれた。ならばということで水口藩という立て札があれば、念のため御用検めをしていたまでのこと。
「もってのほかの言い分。放置しては同志の恥辱ッ」
ことは壬生浪士組の評判ばかりではない。京都守護職である会津藩の面目にもかかわる話だ。
局長の三人は会津藩公用方に事情を説明して同意をとりつけたのち、新八、原田、井上、武田の四人を呼び出して、水口藩の公用方を召捕ってくるよう命じた。新八らは藩邸に急行し、公用方に屯所への同行を迫る。
ところが公用方は、顔を真っ青にさせて額に汗を浮かべ、ひらあやまりに謝りだした。屯所へ行けば、苦情をきっかけに数々の尋問を受けるのは火を見るよりあきらかだからだ。
新八は「こ奴め、やはり後ろめたいことがあるようだ」と察する。
「某が貴殿の弁解を聞いたところで致し方ない。武士に二言なし。是非のあるところは語存分に隊長方へ直接申し開かれたがよい」
殺気を乗せた新八のするどい語気に当てられた公用方は、同席の者に救いを求めようとしているのであるが、手をブルブルと震わせて「あ……あ……」と言葉が出なくなっていた。
隣に座していた祐筆役の立派な身なりの侍が、「仕方がない」と前に膝を寄せる。
「ご不満は御尤もで御座る。ここは某が引き受け申した。必ずや壬生浪士組の面目を立てるで御座ろう」
おそらく藩のなかでも発言力がある者と見えた。その面目を潰してしまえば、また別な問題に発展してしまう。武家の慣わしとは厄介なものだ。
しかし子供の使いではないから、今の約束を担保する何らかの証を持ち帰らなければならない。人が駄目というのであれば、書面を預かるしかないと新八は考える。
「承り申した。それでは一筆を頂けるであろうか」
やりとりを見守っていた水口藩の若い侍たちが「なにをッ」「無礼な」と腰を浮かせる気配がした瞬間、原田、井上、武田の三人が左右と後ろにそれぞれ正対した。
斬り合いがはじまってもおかしくない不穏な空気が場に漂ったが、新八も引く積もりはない。目を据わらせて微動だにしなかった。
その腹底を悟った祐筆役は慌てて「少々お待ちを、すぐに書いて参ろう」と奥へ走って行った。
屯所に帰り、詫状に目を通した芹沢は、感心しきりで頷く。
「イヤイヤ、さすがは永倉氏。武家というものをよく分かっておいでだ。もしもそこで引き下がっていたら、こんどはさらに上役をつかって苦情を申し入れてきたに違いない。壬生浪士組が我らを脅してきた、とな。これでよろしい、ご苦労でござった」
「これをこのままにして置くはずがありません。追ってまた来るでしょう」
「うむ、その通りだ」
近藤は、一藩を向こうに回して渡り合ってきた新八がとても存外だった様子で、細い目を丸くして驚いていたもの。
すると翌日のこと。
予想どおり、さっそく使いの者がやってきた。
卑怯にも水口藩の者ではない。京都二条通りにある直影流の道場をもつ戸田栄之助といういかめしい面がまえの剣客だった。
「永倉新八殿にご面会を願いたい」
もしも力づくで来るというのであれば、それもやぶさかではない。
近ごろ芹沢から神道無念流居合術の手ほどきをいくつか受けているので、試してみたいと常々考えていた。
戸田は新八が居合術の間合いを置いたと悟るやいなや、敵わぬとみて態度を一段低くさせる。
「突然押しかけてしまい申し訳ございませぬ」
「いや、してご用向きは」
「ほかでもない、水口藩公用方から差し入れた詫状を返しては頂けませぬか。じつはこの件が藩公の耳に入りでもすれば一大事。公用方は切腹しなければならなくなります。友人である私は彼を助命いたしたく、こうして参った次第」
「卒爾ながら貴殿とは、はじめてお会いしたかと存ずるが――」
「あいや、御尤も。御尤もでござる」
戸田は畳みに両手を置いて、これでもかというぐらいに平伏した。
「何卒ッ。永倉殿は相当の使い手とお見受けいたした。どうか同じ剣士の誼。私に免じて返してもらえまいかッ」
新八は「いやはや、それは困りましたな。詫状は局の一同に示して、もはや某の一存ではとりはからいがたい儀もござれば――」とわざと勿体をつけて呟いてみる。
じつはこうなることを事前に芹沢と見越していた。もはや芹沢にとって、本丸は水口藩の侘びなどではない。
「では、わかり申した」
戸田はすがるような顔で新八を見上げる。
「そもそも某とて、水口藩の方がご切腹でもするようになれば後味が悪いですからな。さりとて局の者らのなかには、詫状では足りぬ、今すぐにでもご当人を連れて参れといまだに納得せぬ者が多数おります。何とかあれを説得せねばなりませぬなァ……」
「おお、然様であられるか。私に協力できることがあれば、屹度致しまするぞ」
新八は心中で「言ったな」とほくそ笑む。
「――では本件について局全体で相談を致すのが早いであろう。しかしながら困ったことに、屯所の座敷では狭くて致しかたなし。お気の毒ながら、我ら一同が集まれるだけの座敷を周旋してくださるまいか」
と言えば、戸田はこの好機を逃すまいとして必死に食らいつく。
「おまかせくだされッ。然様なれば島原の廓内にある角屋徳右衛門方へお集まりを願いたい。角屋の松の間なれば、十分でござろう」
結句、万事が芹沢の目論見どおりに運んだ。
翌日になると戸田の手配により、角屋で壬生浪士組の総集会がもたれた。芹沢、新見、近藤、土方をはじめ、幹部から顔の知らぬ隊員まで百有余名がことごとく角屋にくりこみ、大広間いっぱいに集まった。
戸田が同席のもと、新八はことの経緯と集会の議題を芹沢に代わって説明したのち、
「仲裁人である直影流戸田殿がここまで真心を尽くしてくださったのであるから、剣士同士、ここは全て水に流して応じるのが士道に適うと存ずる。諸君、いかがで御座ろうッ」
京へ来て以来、新八は芹沢の背を見ているうち、こうした語りかけのコツを心得つつある。土方から「最近、お前の語り口調が芹沢先生に似てきたぞ」と笑われたほど。
「承知ッ」
まずもって芹沢の大音声が、格式ある装飾をほどこした天井を振るわせた。
さらに新見と近藤が続く。
やがて満場から「承知ッ」「承知でござる」と百人分の声がした。
かくして滞りなく詫状を受け取った戸田は、局長三人と新八に深々と頭を下げたのち、安堵した様子で帰って行った。
ところが――
壬生浪士組にとっての本題は、これからだった。
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