我無性者(三)
新八は知らずしらず足早になっていた。
「ああ、よかった。まだやっていた」
暗い路地を折れて折れた先に、その店はあった。
古ぼけた店の構えと提灯、のれんもそのままだ。
格子窓から中の灯りと酔っ払いの語りあう声が漏れている。
戸を開けたとたん、懐かしい匂いが鼻腔をなでた。
客はまばらで職人姿の町人が何組かある。
「まだよいか」
「いらっしゃいまし、どうぞ」
愛想のよい三十すぎぐらいの女が案内してくれた。
下駄を脱いでこあがりに上る。
奥の調理場をちらりとのぞけば、女とおなじ年ぐらいの男がせっせと動き回っていた。
腰を下ろした途端、昔よく見た視界がひらける。店内は狭いが黒板の天井は存外に高い。昔よりもすっきりとした空間の印象を受ける。畳は張り替えたのだろう。新しいものにかわっていた。
間に髪をいれず、女が注文をたずねてきた。
「お燗がよろしいでしょうか」
「あァ、今日はたらふく飲んできた後でな、できればぶっかけ飯を食べたいのだが、よいだろうか」
「もちろんですよ。ぶっかけ一丁ッ」
「――あ、あとな、二杯たのむ。全部食べるから」
「あ、はい……」
女はすこし不思議そうな顔をして奥にはいって行ったが、香りのよい茶をはこんできてくれた。
「おかしな注文をしてすまぬな」
「とんでもございません。ここのぶっかけ飯は昔から名物ですから、それを楽しみにして来られるお客様は多いのですよ」
「じつはな、昔よく朋輩たちとここへ通っていたのだ」
「それはそれは、そうでしたか。ご贔屓にして頂いてありがとうございます」
「あのころにいた店主と女将はまだ健在か」
「それはわっちの父つぁんと母つぁんのことですね。父つぁんは四年前に、母つぁんは二年前に亡くなりました」
「そうか、それは気の毒であった」
「いいえ、この店と家とお客さんを残してくれましたから、娘のわっちは何の苦労もございません」
「調理場にはいっているのはお前の旦那か」
「はい、父つぁんの弟子でしたが、そのままわっちと……」
女は手早く二つの膳と箸をならべながら頬を赤く染めた。
「それはよかった。ならばこの店も安泰というわけだ」
「はいッ、ありがとうございます」
ほどなくしてぶっかけ飯が二つ出てきた。
他愛のない会話のなかから何かを悟ってくれたのか、女が気を利かせて新八の対面に膳をもうひとつ置いてくれたから、ちょうど誰かと食べる格好になっている。
新八は一人で小さくつぶやいた。
「どうだ、小常。これがぶっかけ飯だ。よい香りがするであろう。江戸周辺でとれるあさりと葱の匂いだ」
胡坐をかいていた足をたたんで威儀を正す。
「いただきます」
女が遠くから新八の姿を見ていたが、小首をかしげてクスリと笑った。
碗を口に運び、するすると掻きこむ。
「あァ……うまい」
さすがはあの店主から仕込まれただけのことはある。
ひさびさに食べたぶっかけ飯の味は、昔とまったく変わっていなかった。
「――これ、この味だ。たまらぬであろう、小常」
新八は無人の席に向かって語りかけた。
小常が目尻をさげて嬉しそうに微笑み、頷く姿を想像した。
「江戸は変わらぬ。十年前も、今日も、明日も明後日も。こうして代々の味を受け継ぐ者があるように、誰かが家を、商店を、町をつないでゆく。江戸はずっと、そうしてきたのだ。田舎者の薩長に壊されてなるものか。江戸の町を、人を、暮らしを。そして愛おしい記憶を」
新八は早くも手元の一杯を食べ終えた。もう一つの膳に置かれてあった茶碗を手にとり、ふたたび無心でぶっかけ飯をすすった。
なにが西洋の文化、文明であろうか。
たしかに西洋の鉄砲は扱いやすいし、戦のやり方が理に適っていることも認めるが、これに勝る味があろうものか。
『日本を日本たらしめているものを守らねばならぬ。それこそが武家が武家たるゆえん、忘れてはならぬ今生の使い道である――』
耳朶の奥底で、不意に芹沢の声が響いた。
「芹沢隊長、これも日本を日本たらしめているものですよ。なァ、そう思うだろう野口君も」
こんどは対面の席に肩をならべて酒をさしあう芹沢と野口の姿が見えた。盃を飲み干してから、二人は深く頷いて同意をしてくれた。
今ごろ、あの世でそうしているだろうか。
新八だけまだ同席できないことが、すこし寂しくもある。
「あァ、これはいけない。盃が空だ」
芹沢と野口の盃が空いていたので、あわてて酌をしてやろうと腕を伸ばしてみたが、あったはずの銚子がふつりと消えて、指先が空振りをした。
「…………」
銚子をつかみそこねた新八は、しばらくそのまま静止していた。
酔った男たちの賑やかな声だけが聞こえる。
「――フッ、フフフ。いったい俺は何をやっているのだ。戦場をわたり歩くうち、とうとう頭がおかしくなってしまったか」
自嘲して独りごちる。
ため息まじりに目線をゆっくりと持ち上げた。
すると、そこにあった顔に驚く。
「ち、父上……。どうして父上が」
いつもそうであったように、父は穏やかに優しく微笑んでくれた。
黙って二度三度とゆっくり頷くたび、父の顔が薄く消えてゆく。
「これは幻。いや、よもや父上は――」
とうとう消えてしまった。
よく父はああした顔をして、幼い新八を背に乗せながら、
「よいか栄治。何であれ、お前の好きなようにやるがよいが中途半端は駄目だ。遊びも、剣術も学問も、とことんやり遂げよ。それが士道だ。今生をめいっぱい使いきれ。なればこそ、長倉の男は横死をしてはならぬ。せっかく天から頂戴した宝のような命である。ゆめゆめ横死だけはするな」
と言い聞かせてくれたもの。
鼻腔の奥からなにかが強烈な圧力をもって外に出てこようとしたが、ぐっとこらえる。
どうも江戸に戻ってきてからというもの、調子がおかしい。涙もろくなっただろうか。
あるいは京の緊張から解き放たれて、ずっと堰きとめてきた五年分の涙が流れでようとしているのか。
いや、まだだ。
感傷に浸るのはまだ早い。
涙を飲み込んで威儀をただし、ふたたび無人の席へ丁寧な一礼をした。
おもむろに懐から取りだした一両を膳のうえに置いて立ち上がる。
「馳走になった。銭はここに置いておく」
「ありがとうございます。――えッ、お待ちください」
暖簾をくぐって出ようとする新八を女が追いかけてきた。
「これはいくらなんでも多すぎます。いただけません」
「いや、もらってくれ。銭がなかった若いころ、こちらの店主と女将にはツケで腹いっぱい食わせてもらった恩義がある。思えばまだそれを返していなかった」
「でも……」
「よいのだ。今日は出世払いにきたと思ってくれればよい。侍の俺に恥をかかすつもりか」
「い、いえ。そのようなつもりはありません」
「こうした世情であるから大変であろうが、くれぐれも親の味を絶やさぬよう長く続けてくれ。また来る」
「――はい、わかりました。百年さきも店がつづくよう頑張ります」
「そうだ、その意気だ」
「ありがとうございました。明日さっそく、父つぁまと母つぁまにお侍様がいらっしゃったことを伝えてきます」
「うむ、ではよろしく伝えてくれ」
指先まで体が火照っているように感じるのは、腹に温かい飯をつめこんだゆえだろう。
気がつけばすっかり酔いもさめている。
南の天にまたたく明瞭な三ツ星を眺めながら、新八は袴をながして歩いた。
それから、
前方から人影が二つ、横に並んでやってきた。暗がりで何者かよく見えなかったが、いずれも浪人姿の侍。はからずも双方が突き当たってしまう。
京市中ならば「新撰組の永倉だ」と怒鳴りつけてやったところだが、ここは江戸だ。くどくどと小言する土方の顔が思い浮かんだので新八は、
「これは失礼」
と挨拶をして、橋の上で道をゆずった。
ところが侍たちは、
「失礼ですむものか」
とすれ違いざまに振り向いて腰を割った。
酒に酔って気が大きくなった浪士にはよくあることではあるが、ずいぶんと喧嘩っ早い。不自然だ。はじめから因縁をふっかけるつもりでいたのかも知れない。
新八は目を細め、二人を睥睨する。
どうやら斬り合いに慣れている者たちのようだ。それぞれに刀が振れるだけの間隔を置いている。
「ほう……面白い、いいだろう。ちょうど腹が満たされて体を動かしたかったところだ」
新八は下駄を脱ぎ捨て、腿立ちをとって橋の中央にじりじりと回りこむ。大通りから漏れてくる灯りを背にして立った。
周りに人影はない。侍たちは刀の柄に手をかけて抜刀する機をうかがっている。
間違いなくやるつもりでいる。
「貴様ら、手足をなくしてから後悔するなよ」
新八もゆっくりと腰を割った。
鯉口を引き寄せる。
その時だった。
「新兄さん、うしろッ――」
どこからともなく誰かの声がした。
背にヒヤリとした殺気を感じた新八は、素ばやく体を半身に開いて、頭ひとつぶんだけ沈めた。
暗闇のなかから突然あらわれた鋭い太刀筋が、新八の眼下をキラリと一閃して行き過ぎた。
危うかった。
後ろからの伏兵が待っていた。
前に二人、後ろに一人。
橋の下は川。逃げ場もない。
気がつけば新八は、暗く狭い橋のうえで三人にとり囲まれていた。
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