ぶっさん

 繁華街は夕方であっても変わらず人でごった返していた。

 いや、むしろこの前よりも多種多様な人が入り混じり、混沌としている印象が強くなっていたようにすら思う。

 たぶん本来の私はこういうところは好きじゃないだろうし、不安を覚えたかもしれない。

 そう奏は思ったが、今は隣で手を握ってくれている七海がいる。彼女がいればそういった不安は全くなかった。

 夕方から始まる映画はまだ結構な人が集まっていた。

 公開から一ヶ月近く経つらしいが、なかなか人足は衰えないようだ。後方ではあるが正面から見える良い位置に並んで席が取れ、奏と七海は映画館の売店で飲み物だけを買って中に入った。


「これ、実は私結構好きなんだよね」


 始まる前、七海がふとそんなことを言った。


「これって、七海、もう見たことがあるの?」

「ううん、前に原作の小説を読んだんだよ。繰り返し読んだから結構覚えてる」

「確かミステリ小説なんだよね?」

「そう。私、小説の類って一回読んだら売っちゃったり捨てちゃったりするのがほとんどなんだけど、これは気に入っててさ。今も本棚にあると思う」


 その言葉を奏は少し不思議に思った。

 ミステリ小説と言えば、なんらかの事件や犯罪が起こって、その解決へ向けての経過を楽しむもの、という意識が奏にはあった。もちろん淡々と解決に向けて一直線に進んでも面白味も何もない。大抵どこかで読者をひっかけるようなトリックや伏線が張ってあり、その落差を楽しむのが王道だろう。しかし、逆に言ってしまえばその仕掛けがわかってしまえば面白さは半減に違いない。

 七海は何を気に入ってそんなに繰り返し読んだのだろうか?

 気になったが、それを聞こうと思った時には館内の証明が暗く落とされ、スクリーンには予告編が流れ始めた。

 まぁ、いずれにしても映画を見れば多少でもわかるだろう。

 そう思って奏は意識をスクリーンへと向けた。



 映画の主人公は中年に差しかかろうかという一人の男性だった。

 彼はお世辞にも格好良いとは表現出来なかった。

 俳優にお約束の二枚目さはもちろん、クールさもダンディさもなければ、その欠片となる要素すら持っていなかった。不細工とは少し違っているが、丸顔で目は細く、鼻は潰れ気味で唇は薄い。残念ながら世間でイケメンと呼ばれる顔とは程遠いだろう顔である。

 それじゃあ他の要素が抜きん出ているかと言われたらそういうわけでもない。

 職業は弁護士や医者というエリートでなく、寂れた、いつ倒産してもおかしくない町工場の工員だった。町工場の仕事は重労働で恰幅は良かったが、それだって鍛え抜かれた見事な身体というわけではない。

 それでも彼にはどこか人を惹きつけるものがあるように感じられた。

 生憎奏はこの主演俳優のことは名前すら知らなかったが、見ていてどこか安心するような感じがあった。彼は工場で『ぶっさん』と呼ばれているのだが、どことなく大仏のようなものを感じさせるから、というのが理由だと途中の会話でそれとなく説明され、奏は大いに納得がいった。口数もあまり多くない彼の姿は確かにどっしりと構えた大仏さまに似ていた。

 物語りはそんな彼が住んでいるアパートの部屋の隣に一人の身寄りのない女性が越してくるところから動き始めた。

 女性も必ずしも美人というわけではなかった。年だってそう若くなく、四十近くに見える。もっと若い頃はそれなりの器量だっただろうとは思わせるのだが、今ではその面影がそれとなく感じ取れるだけだった。

 ただ、彼女にもぶっさんと同じでどこか人を惹きつけるものがあったように思う。彼女の場合は愛嬌と言えば良いかもしれない。笑うと、くたびれた中にもぽっと光が灯るような暖かさが見えた。

 犯罪……それも殺人という重罪を犯してしまうのは女性だった。そして、ぶっさんはそれを偶然にも知ってしまう役柄だった。

 女性が越してきてから秘かに彼女に想いを寄せていたぶっさんは、止むに止まれぬ事情で犯してしまった彼女の罪を隠ぺいするため、己の全てを賭けて事件の捜査にあたる刑事たちに戦いを挑むことを決意するところから映画は本格的に走り出した。

 奏はあっという間に映画に夢中になった。

 ぶっさんが考えに考え抜いた刑事たちを出し抜くためのトリック。

 犯人を追いつめるために奔走する二人の刑事に、ひょんなことから事件に関心を持った、町工場の近くで喫茶店を開いている年を食ったマスター。

 二時間半近くある映画だったが、時間は瞬く間に過ぎていった。

 結末はぶっさんにとってハッピーエンドではなかった。

 罪は裁かれなければいけないという掟がこの手の物語りでは決まっているのだろうか?

 ぶっさんの完璧に思えたトリックを崩してしまったのは、全てを見抜いた喫茶店のマスターの説く彼なりの人生哲学に、自身の良心を痛めた女性の証言からだった。

 最終幕。己の犯した罪を刑事に告白する女性にぶっさんはこの世界の全ての絶望を背負ったかのような顔をして崩れ落ちた。

 その表情は、エンドロールが終わり、館内の照明が全て灯っても奏の脳裏に深く焼きついていた。



 周囲に座っていた人が次々と席を立って三々五々にその場を後にしていく。

 映画の内容に圧倒された奏はすぐに立つ気にはなれず、もう何も映されていない乳白色のスクリーンをただただ眺めていた。


「この物語ね、ある人たちはミステリに見せかけたぶっさんと女性のラブストーリーだ、って言うんだよ」


 人がほとんどいなくなってから七海が唐突に言った。

 奏が見やると、七海は真っ直ぐに前を向いたままだった。


「ぶっさんと女性はさ、アリバイ工作になんやかんやと交流したでしょう? それに、喫茶店のマスターは女性の罪を責めるつもりはなかったし、積極的に警察に告げる気もなかった。女性があそこで証言なんてしなければ、きっとぶっさんと女性は結ばれたんじゃないか、って。……お姉ちゃんはどう思う?」


 そこでようやく七海が奏を見やる。

 どうだろう、と奏は考えた。

 確かに喫茶店のマスターがおらず、女性が証言しなければぶっさんのトリックは見破られなかっただろう。

 けれど、その先にぶっさんと女性のラブストーリーが広がっているようには思えなかった。

 少なくとも……少なくともぶっさんが女性に抱いていたものは恋愛感情であったように思うが、彼がその恋を成就させようという気はなかったんじゃないかと思えた。


「ラブストリーとは……少し違うと思う」


 奏の答えに七海は小さく微笑んだ。


「私もそう思う。ぶっさんは女性を自分の恋人にしようとか、自分のものにしようとかこれっぽっちも考えてなかった。ただひたすらに女性を助けようとした。自分はどうなろうとも、愛する女性を守ろうとした。……これは、一人の人間が真実の愛にただひたすらに殉じる物語りなんじゃないかな?」

「そう……だと私も思う」

「だから、ぶっさんはぶっさんなんだよ」


 七海はゆっくりと座席から立ち上がった。


「普通の人はそこまで出来っこない。愛を欲さず、ただ愛に殉じることなんて到底出来るわけがない。人は愛したいと願うと同時に、愛されたいとも願ってしまう。それが人間が人間たるゆえんだから。でも、ぶっさんは違う。ただひたすらに愛に殉じようとした。見返りのないだろう愛に全てを捧げることが出来た。だから、ぶっさんは大仏さまだったんだろうね」

「七海はどうしてこの原作が好きなの?」


 問うと、どういうわけか、七海はどこか自嘲めいた笑みを浮かべて言った。


「ぶっさんを見てると、私は本当にただの俗物的な人間なんだって気づかせてくれるから、かな?」

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