すれ違い
七海が奏にはっきりと焦がれるようになったのはその頃からだったかもしれない。
それが憧れなのか、もっとはっきりとした恋愛感情と呼べるものなのかもわからない。と言うよりも、その時の七海が抱いていた感情を正確に言い表せるだろう言葉はなかったと言った方が正しいだろう。
ただ、七海にとって奏といる時間がたまらなく幸せだった。親はもちろん、どんな友人と一緒にいるよりも奏と一緒にいるのが楽しかった。例え会話もなく、ただ沈黙の中で互いに本を読んでいるだけでも他の友人と遊んでいるよりはるかに価値があった。
しかし、それと同時に七海に芽生え始めたのはある種の焦り……切羽詰まった感情だった。
自分が奏へと向ける気持ちは日を追うごとにまるで雪だるま式に大きくなっていくように感じられる。けれど、それでは奏が自分に向けてくれる気持ちがそれに比例するかと問われたら七海は唇をかんでかぶりを振らなければならなかった。少なくとも自分が抱いているような、どんどんと大きくなっていく荒波のような感情を姉は抱いていない。そのことは七海にもわかっていた。
自分のことは『妹』として扱ってくれたが、それはあくまでも間柄が親同士の再婚によって姉妹という関係に押し込められたからであるのがゆえのものに感じられた。確かに天咲奏は天咲七海という『妹』に多少の興味や関心を持ち……家族として好意を持って接してくれているのかもしれない。
でも、間違ってもそれ以上のものではなかった。
ましてや心の奥底から沸き上がり、かき乱されるような感情を持って接してくれているわけじゃない。
奏といると、幸福である半面、堪らなく辛くなる感情が顔を出すようになった。
「専門の音楽高校?」
そして、夏も盛りが過ぎ、本格的に秋の色が濃くなった時に七海はその話を聞いた。
奏の高校受験が本格的に近くなったこともあり、七海もそこまで姉の部屋を訪ねることが減っていたが、その時七海は奏の部屋にいた。どうしてそういう話題になったのか……奏の受験より一年先ではあるものの七海自身の進学のことを雑談的に話していたからかもしれない。それは突然の知らせだった。
「うん」
奏はいつものような涼しげな声で七海に答えた。
「寮がある学校でね。三年前に出来たばかりなんだけど一流の講師の先生が揃ってるの」
「寮って……お姉ちゃん、家を出る気なの?」
「そうなるかな。ここから通うにはちょっと遠すぎるし」
確かに自宅からその音楽専門の高校に通うとなったら少なくとも三時間近くはかかる。あまりにも非現実的な話だった。
「だけど、この前までは近くの音楽科のある高校にするって……」
「そのつもりだったんだけど、今私がフルートをみてもらってる先生いるでしょう? 急な話だけど、その先生がその学校に講師として赴任することになってね」
「それじゃあお姉ちゃんはその先生について行く、っていうこと?」
「そう言われるとなんだか特別な師弟関係みたいに思えるね。実際はそんな大層なものじゃないんだけど」
クスクスと奏は笑った。
「ただ、小学生の時から見てもらっているし、大学に入るまでは同じ先生に見てもらった方が良いかなって思ってるから」
良い先生だしね、と付け加えた奏の言葉はもはや七海の耳には届いていなかった。
もちろんまだ奏がそこに通うと決まったわけでも、受験に受かったというわけでもない。
だが、そんな慰めの言葉は何の意味もないことを七海はわかっていた。
少なくとも奏の内申点は悪くないし、勉強だって、一学年下とは言え同学年では頭一つ出ている七海に教えるくらいに出来る。ましてや音楽専門の学校だ。プロにだって認められているような才能を持つ奏がそこに受からないという未来はどうあっても想像出来なかった。
「私、嫌だよ……」
「七海?」
はっきりとした七海の口調に、おや、といった様子で奏は首を傾げた。
まさかそんな風に言われるとは思っていなかった。そういった意味が言葉の後ろに隠れているのが七海にもわかった。
「先生がいるからって、それだけでわざわざ家まで出る必要があるの? お姉ちゃんならどの高校に行ったって音大に受かるでしょう? それとも、その高校に行ったら優先的に好きな音大に入れてもらえるの?」
「音大は実力主義だし、特にそういった制度があるとは聞いてないけれど……」
「それじゃあなんで? 音楽科のある高校ならその高校とほとんど同じことが出来るんじゃない?」
「一体どうしたの、七海?」
盛んに反対の意見を言う七海に、奏は眉を僅かにハの字にして問うた。それは、それまで聞き分けの良かった七海が初めて姉に言った駄々だったかもしれない。
「私がその高校に入ると何か不都合があるの?」
奏の言葉に七海は俯いて視線をそらせた。言うか言うまいか、悩んだのはほんの数瞬で、七海は小さく口を開いた。
「私、お姉ちゃんと一緒にいたい。寮で独り暮らしするなんて言わないで。せっかく出来た家族なんだよ? この家で仲良く暮らしたい」
「七海……」
僅かに奏の表情が緩む。七海の気持ちが少し子供染みた寂しさの類に思えたのかもしれない。
そして、そんなものでは到底奏を思いとどまらせることなんて出来なかった。
「ごめんね。でも、私には音楽しかないから」
小さな微笑み。
その一言で七海は自分が本当の意味では姉の眼中にすらないことを悟った。
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