Side N
作り上げた日常
ウレタン樹脂でコーティングされた廊下をペタペタと音をさせながら歩く。
放課後の校内というのはいつもどこか独特の解放感があった。
廊下でおしゃべりをしている学友に、遠くからは十二月の寒さに負けじと頑張っている運動部の掛け声が聞こえてくる。掃除当番の人たちはどこか面倒くさそうに床を掃いているか、単に掃除道具を持っているだけで雑談に花を咲かせていた。
そう言えば、イタリアの経済学者ヴィルフレド・パレートが発見した冪乗則の法則、パレートの法則の亜種に働きアリの法則というものがある。
2-6-2の法則、などとも呼ばれることがあるが、要約すれば『働きアリのうち、本当に働いているのは全体の8割で、残りの2割のアリはサボっている』というヤツである。なぜ2-6-2の法則とも呼ばれるかと言うと『よく働いているアリと、普通に働いてはいるものの時々サボっているアリと、ずっとサボっているアリの割合は、2:6:2になる』からだそうだ。
きっと放課後の掃除もそんな割合になっているのだろう。
「あれ、ナツミちゃん、放課後だってのにどこ行くの?」
「職員室。竹田になんか放課後来いって呼ばれててさ」
すれ違った男子が声をかけてきて、七海はそれにおざなりに言って手を振る。七海自身学校での交友関係はかなり広く、こうやって声をかけてくれる友人は男女を問わず多い。
そんな友人たちによると最近の七海からは『幸福のオーラ』というものがにじみ出ているらしい。七海はそれを「何よそれ」と素知らぬふりで笑っていたが、なるほど友人たちの目は鋭いものがある。……いや、それほどまでに七海が惚けている、ということかもしれない。
実際、この数週間ほど自分が果報者だと思えた時間が未だかつて七海の人生であっただろうか?
もちろんそんな時間はないと断言する自信が七海にはあった。
「お姉ちゃん……」
ポツリと誰にも聞かれないくらいの声でそう呟く。それだけで思わず頬が緩みそうになるのだから重症だ。
もちろん罪悪感が全くなかったわけじゃない。
心が痛むことだってあったし、卑怯者という誹りだって甘んじて受けなければいけないだろう。
いや、きっとそんなものじゃとても生ぬるい。
実際に七海がやったことを他人に言おうものなら、彼らは間違いなく絶句し、正気の沙汰じゃない、狂人のやることだと猛烈に非難し、断罪しようとするはずだ。
七海は奏の記憶がないという弱みに付け込み、自分に都合の良いように嘘をまき散らした。
かつて姉のアイデンティティですらあっただろう音楽からそれとなく彼女を遠ざけたばかりか、自分たちは恋人同士だったのだとうそぶき、身体の関係まで作ったのだ。
もうとっくの昔に奏に処女を捧げたような素振りをしながら、彼女の指を初めて膣内に導いた時にはこのまま失神してしまうのではないかというほどの喜びがあった。
「………………」
もしも自分が『ぶっさん』であったのなら、正直に全てのことを奏に話しただろう。音楽を愛し、音楽に愛された人物が天咲奏だったと教えたに違いない。
だが、生憎七海は自分に『ぶっさん』のように愛にただ殉じる高潔さがないことをわかっていた。
もし隔離されるまでの姉は音楽の虜だったと教えてしまったら今の姉もそう遠からず音楽にその身を捧げ、自分のことなど見向きもしなくなってしまうのではないか? あっという間に手の届かない場所へと行ってしまうのではないか?
それは紛れもない恐怖だった。漠然とした恐怖じゃない。事細かに、恐怖という名の存在の毛の一本一本すら想像出来てしまう恐怖だった。それを考えただけで七海は胃がせり上がるような感覚に襲われた。
だからこそ、どれだけ卑劣で外道だと言われようと、自分の気持ちを止めようとは思わなかった。
今度はただ黙って姉がいなくなるのを見るなんてしない。
きっと、これは神さまがくれたチャンスなんだ。
二年間。
たったと言えるかもしれない二年間だったが、片時も奏のことを想わなかったことはなかった。
高校に進学し、新しい友人もたくさん出来た。告白も、本気のものから冗談めいた軽いノリのものまで含めたら何度もされたことかある。
七海自身は実感がなかったが、友人たちによると七海はいわゆる「卵に目鼻」らしい。けれど「好きな人がいるから」とその全てを頑なに断った。
ある時、あまりにも七海が男を袖にするから「レズなんじゃないの?」と冗談にからかってきた友人がいたが、七海は男が好きだとか女が好きだとかすら意識したこともなかった。だが、好きな人と言われて想える相手は奏しかいなかった。もはや自分の感情に嘘を吐く気は微塵もなかった。
そして、今、その想いが実際に確かなものだったのだと実感している。
初めて肌を重ねたあの夜からすでに何回も七海は奏と愛し合った。セックスについての知識なんて頭でっかちなものばかりで、実地があるわけじゃもちろんない。身体の相性がどうのこうのなんてこともよくわからない。ただ、奏と肌を重ねているその瞬間は自分は世界で一番幸福であるという自信があった。
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