Side K

 咄嗟につかまれた手に、七海の姿。

 それにも驚いたが、逆上して走り去った七海の姿に奏は一体何が起こったのかわからなかった。

 何か気に障ることをしたのだろうか? ……いや、したに違いない。でなければ七海がここまで逆上するわけがない。

 手に持ったフルートのケースを見やる。

 やはり、社会復帰についてや音楽教室に通っていることを内緒にしたのがいけなかったのだろうか?

 実際奏が社会復帰に向けて動き始めてから七海には何度か聞かれていた。その時、社会復帰を考えていることを話してしまおうと考えなかったわけではない。けれど、話をしたら七海は自分の時間を削ってでも自分の世話を焼くんじゃないかと思うと素直に口には出来なかった。自分のために彼女の時間を犠牲にして欲しくはなかった。それに……。


「………………」


 去年、楽器店の前を通った時の事を思い出す。

 自分と音楽。そこにも何か関係があるのだろうか?

 奏は時計を取り出すと時刻を確認した。もうそろそろレッスンの時間だ。ちらりと建物を見やる。

 確かに今の奏にとって音楽は大切なものかもしれない。でも、それは七海を傷つけてまでやらなきゃいけないことじゃない。

 奏はスマホを取り出すと、音楽教室への通話ボタンをタップした。




 真っ直ぐ家に帰って、奏は七海の部屋をノックした。電車の中でメッセージやメールの類はしていない。そういう表面上の文字だけで済ませていいものでは間違いなくなかった。

 返答はないが、もう一度ノックをして「七海、いる?」と声をかける。と、中から「……お姉ちゃん?」と声が返ってきた。

 入って良いかと奏が問うと、小さいながらも「うん」と声が聞こえてきた。

 扉を開くと、ベッドの上に座ってクッションを抱いてる七海の姿があった。


「……レッスン、どうしたの?」


 七海が視線を合わせずに奏に問うてくる。


「今日はお休みさせてもらった」

「………………」

「ここ、いい?」


 七海が頷き、奏はベッドの端に腰掛けた。


「学校、早く終わったの?」

「……うん。午後が全休になるの忘れてて」

「そっか」


 どこからともなく沈黙が降ってくる。チッチッと置時計の秒針の音だけが静かに周囲に沁み入っていく。不思議な感覚だった。今まで目が覚めてから七海と二人きりでいることがほとんどだったのにこういった沈黙はなかったように思う。

 常に七海は明るく奏を照らしているようだった。太陽と月のような対称の存在。そんな陳腐な言葉が思い浮かび、奏は心の中で苦く笑った。いや、でも実際それだけ奏が七海に依存していたということだろう。


「ごめんね、七海」


 少し沈黙に布ずれの音。


「……どうしてお姉ちゃんが謝るの?」

「七海に社会復帰についてお医者さまに言われたことや、音楽教室のことを黙ってたから、かな? ちゃんと相談すれば良かったね」

「相談して、私がそれに答えてたらお姉ちゃんの答えは変わってた?」


 その問いかけに奏は七海を見やった。大きなネコのような目が不安で揺れているように見える。


「もし私がもっと前からお姉ちゃんは社会復帰なんてしなくて良い。音楽なんてやらないで。そう言ってたらお姉ちゃんはどうしてた?」


 改めてそう問われると答えが見えないように思えた。七海から視線を外す。


「……正直、あんまり変わらなかったかもしれない。七海にはわからないかもしれないけれど、今の私にとって音楽は大きな存在なの。どういった形であれ、音楽に関わりたいっていう気持ちは出てきたと思う。それに、私が目を覚ましてから七海はずっと私のことにかかりきりだったでしょう? 少しでも自分で出来なきゃいけないと思ったのは確かだし、このまま七海を私に縛りつけたくなかったから」

「私、結局お姉ちゃんの邪魔をすることしか出来なかったんだね」


 七海がポツリとそんなことを呟いた。


「そうじゃないよ、七海。音楽は確かに私にとって大きな存在だけど、七海より大切っていうわけじゃない。同じには比べられないし、比べていいものでもない」

「ううん、違うの」


 奏の言葉に七海はかぶりを振った。その表情は僅かに微笑んでいるのに、今にもその大きな目から涙をこぼしてしまいそうに思えた。


「お姉ちゃんには音楽さえあれば良いんだよ。本当は私なんて必要ない」

「どうしてそんなこと言うの?」


 断言とも言える語調に奏は眉根を寄せた。


「だって、嘘だから」

「嘘? 嘘って何が?」

「私たちが付き合ってたなんて、真っ赤な嘘」

「え……?」


 唐突な言葉。奏は文字通り言葉を失った。


「本当は私がお姉ちゃんに片想いしていただけ。お姉ちゃんは音楽に愛されていて、お姉ちゃんも音楽を愛してた。音楽の進路で悩んでいたこともない。お姉ちゃんは音楽と一緒に歩く道をちゃんと作っていて、私のことなんて本当は眼中になかった。それを、記憶がなくなったことを良いことに私がつけ込んだの。音楽に行き詰っていたって。私と付き合ってたんだって……両想いだったんだ、って」

「七海……」


 突然の告白だったが、嘘を言っているようには見えなかった。

 それでもすんなりと信じられるものじゃない。

 頬が軽く引きつるのがわかる。嫌な汗が背筋を伝っているような気がした。


「色々秘密にして気を悪くさせてしまったのはわかるけど……そんなこと、冗談でも言うべきじゃないわ」

「冗談なんかじゃない。お姉ちゃんは音楽と両想いだった。私はただの妹で……それ以上じゃなかった。わかるでしょう? お姉ちゃんにとって音楽はただの趣味なんかじゃなかった。生きている意味だったって言っても良かったかもしれない」

「………………」

「私はただ音楽に嫉妬してただけ。嫉妬して、醜い感情でお姉ちゃんから音楽を取り上げようとした。でも、結局は意味のないことだった。お姉ちゃんはまた、自分の力でちゃんと音楽に出会ったんだよ」


 そう七海が笑い、その頬に一筋の涙が伝った。

 その時だった。


「――っ!」


 ズキン、と強烈な痛みが奏の頭を襲った。思わず手をやるが尋常な痛みじゃない。まるで頭蓋骨の内部から金属バットで滅多打ちにされるような痛みが焼けるように襲ってくる。


「……お姉ちゃん?」


 七海の声がする。しかし、それは幾重にも隔てた壁の向こうからぼんやりと木霊してくるようにしか聞こえなかった。とても体勢を保っていられない。


「お姉ちゃん!」


 そのまま奏は倒れ込み、意識を失った。

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