Side N
新たなる目覚め
今年の冬は暖冬傾向になると朝の天気予報では言っていたが、それでも吹く風は身を切るような鋭さをその身に秘めているように思う。街の木々も随分と色づき、早いところでは黄色の絨毯のようになっている場所もある。あとひと月もすればすっかり葉も落ちて、すぐそこに次の年の足音が聞こえてくるようなるだろう。
前の時は二ヶ月で目を覚ましたが、今回はもうその倍の時間が過ぎている。どうして再び意識を失うことになったのか……担当の春日も説明が出来ないようだったが、七海は深く気にはならなかった。
再び眠りに落ちた奏の手を七海がゆっくりとさする。
病室には前と同じようにクラシックのBGMが流れていた。一年と少しだけ目を覚まし、再びこの病院へとこういった形で入院することになった奏のことを春日や顔見知りの看護師たちはどこか悲痛な面持ちで見守っていてくれた。加えて、前ほど足しげくではないものの見舞いに来る七海に彼らはどう言葉をかければ良いのかわからないようだった。
「まぁ、たぶんそのどれかの大学には受かってると思うから、来年浪人生になってるってことはないかな」
年末を前にいくつかの私立大学の推薦入試は終わっている。
この四ヶ月……もちろん最初の内は勉強など手につかず、七海はただひたすらに自分を責めることしか出来なかったが、次に奏が目を覚ました時に情けない姿を見せるわけにはいかないと、歯を食いしばって机に食らいついた。そのおかげか、七海の成績は前よりもさらに上がり、学内どころか地方や全国模試でもトップを争うまでになった。
「もちろん本命の国立の入試は来年だから、まだまだ気を抜いたらいけないんだけどね。それでも、出来るだけお姉ちゃんには会いに来るようにするから」
もっとも、それをお姉ちゃんが望んでいるかどうかはわからないのだけれど、と七海は内心で嘲る。
春日には奏が意識を失う前に喧嘩をしたことを伝えていたし、「それが原因となったとは考えにくい」とは言われたものの、それを素直に信じられるほど七海は能天気ではなかった。
自分は一度のみならず二度も奏の『音楽』という名の翼をもぐことになった。
今度もし奏が目を覚ましたら、何よりも最初に謝ろう。例えまた再び記憶を失っていても、全てを正直に話そう。そんなことをしたら、許してもらえないかもしれないし、自分を軽蔑するようになるかもしれない。二度と口を聞いてくれなくなるかもしれない。もう二度と顔を見せるなと言われるかもしれない。でも、それも仕方のないことだ。それだけのことをしたのだ。
「それじゃあ、また来るね、お姉ちゃん」
そっと手を放し、ラジカセの電源を止める。面会時間の終わりまではまだ大分時間があるけれど、今日七海は父親と夕食を共にする約束をしていた。再び奏が意識を失ってから七海は父親とも少し落ち着いて話をするようになった。
本音で……というのとはまた少し違うかもしれないが、それでも昔七海が感じたようなものを今の父親からは感じなかった。感情の表現の仕方が下手くそで言葉足らずのところがあるかもしれない。それでも、少なくとも父親は父親なりに奏のことを考えているのだと気づかされた。昔の自分はそんなことすらわからないくらい幼かったということだろう。
病院を出て、帰りのバスを待っている時に、「あっ……」と病室に読み止しの本を忘れたのを思い出した。病院に来るまでに読んでいて、スクールバッグに入れるのを面倒くさがっていてそのままチェストに置いたのを忘れていたのだ。それは、奏と一緒に……初めて身体を重ねた日に見た映画の原作だった。
繰り返し繰り返し読み返し、自分がぶっさんのようになれなかったことを悔いた。最初から本当のことが伝えられていたら奏は意識を再び失うようなことはなかったかもしれない。そう考えると、自分のエゴがどれだけ奏を傷つけることになったのかを思い知らされ、それが自分を罰する罪のほんの一部にでもなってくれるのではないかと思えたのだ。
結局、少し悩んでから七海は病室に戻ることにした。父親との約束の時間にはまだ余裕がある。駅へと向かうバスもそれなりの本数があるから、一本二本逃したところで大したロスにはならない。
制服の上から羽織っているストールを整えて歩き始める。それはちょうど一年前のクリスマスに奏から贈られたものだ。
病院に戻り、一般病棟の面会受付に行くと看護師の加瀬がいた。「帰ったんじゃなかったっけ?」と首を傾げた彼女に「忘れ物をしてしまって」と言うと、「そのくらいなら面会カードの記入は良いから」と取り計らってもらえた。
今度の奏の病室は三〇二号室だった。手癖で扉をノックするが、看護師が偶然いたりしない限りは返事はない。流れ作業のように横開きの扉を開け、それと同時に「はい」と聞き慣れた声が聞こえ、七海は下げていた視線を上げた。
ベッドの上で奏が上半身を起こしていた。
「おねえ、ちゃん……」
言葉が瞬く間に失われた。
奏の手には開かれた文庫本が持たれていた。
「これ、前に七海が好きだって言っていたサスペンス小説だよね?」
「うん……そう、だけど……」
目の前の光景が幻でないと考え至るのに少しの時間がいった。その間に奏が言葉を続ける。
「だいぶ眠っていたんだね、私。今、何月?」
「十二月……」
ぼんやりと七海は言って、慌てて西暦も付け加える。と、奏はクスクスと笑った。
「七海が制服姿だし、そこまで長く眠っていたわけじゃないってのはわかるよ」
雰囲気がどこか違う。今回意識を失うまでの奏と、そしてそれ以前……特定犯罪指数のボーダーを超えて隔離されるまでの奏とも違う。
「それ、使ってくれてるのね」
「え……?」
「ストール」
「う、うん。お姉ちゃんがくれた、大切なプレゼントだから……」
「そう言ってくれると嬉しいわね。実はね、結構苦労したのよ、それ編むの。本を見ながらやったんだけど、初心者なのに見栄を張って難しいの選んだから」
そう奏がくすくすと笑う。
「ほら、いつまでもそんな所で立ってないでこっちに来たら?」
言われるまま七海はベッドのそばにより、バッグを置いて丸椅子に座る。静かな病室の外で色づいたイチョウが一枚ゆっくりと落ちていくのが見えた。
「覚えてる、の?」
恐る恐る七海が問う。
「うん。全部覚えてる」
「全部って……」
「去年の九月に一度目が覚めてからのことも覚えてるし、特定犯罪指数がボーダーを超えて隔離されて、施設で生活していた時のことも。もちろんその前の、家で七海とただの姉妹として過ごしていたことも覚えてる」
「それって……」
「そうだね、今まで経験してきたことの全部、思い出したみたい」
ぐっと七海は言葉に詰まった。
「不思議……七海とは姉妹だってちゃんとわかってるのに、恋人だとも思えちゃう」
「恋人だって……思ってくれるの?」
七海が問うと奏は小さく微笑んで頷いた。
ボロボロと七海の両の目から涙がこぼれていく。ぬぐってもぬぐっても、まるで枯れることの知らない泉のように次から次に涙は溢れてきた。
「そんなに泣かないで」
「でも……でも……」
「………………」
「私、嘘吐いて……お姉ちゃんと私が、恋人だって嘘言って……」
「そうね。最初はそうだったかもしれない」
パタン、と奏は広げていた文庫本を閉じてチェストの上に置き、おもむろに手を伸ばして七海の頭に触れた。
「でも、それからの私はちゃんと貴女を愛したわ」
「お姉ちゃん……」
「嘘から始まった関係でも、その後に積み上げてきた関係まで嘘というわけではないでしょう?」
その言葉に七海は奏の身体にしがみつき、声を上げて泣いた。奏はそんな七海を包み込むように抱いた。途絶えることのない涙が奏の寝間着へ染み入っていく。それは、二人が今にたどり着くまでに刻んだ跡のようだった。
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