行き先

「局所的な記憶障害……平俗な言葉で言うなら記憶喪失というやつになります」


 ペンの頭で額と髪の間を抑えながら春日はそう言った。これは彼もあまり想定していなかったらしい。普段から穏やかな表情を浮かべていることが多い彼の眉間には珍しくしわが寄っている。七海はそれを面会室で変わらず一人で聞いていた。

 奏が目を覚ましてからの一週間は検査だなんだと忙しかった。ほぼ毎日七海は見舞いに訪れていたが、検査の関係で会えなかった日もある。

 そして、会えた日も今まで通りとはいかなかった。七海は最初に自分が奏の妹であることを伝え、なるべくそれまでと変わらないよう心がけて会話をしたが、当の奏はそういうわけにはいかなかった。

 色々と世話を焼いてくれる七海に負い目を感じているようだったし、様々話しかけてくることの返答にも困っているのが七海にもよくわかった。他でもない、今の奏にとって七海は妹という続柄だけが宙ぶらりんに浮いた、ただの他人でしかないのだ。


「それまでの人間関係はもちろん、ご自身が誰なのかさえまったく思い出せない様子です」

「ですけど、いわゆる常識は備わっているように感じます」


 いつになく真剣な面持ちで言った七海に春日は頷いた。


「様々な検査をしましたが、奏さんは一般的な社会通念……いわゆる常識は当たり前に持っています。年相応と考えてもらって良いでしょう。また、学力という意味でも中学校修了か高等学校初期とほぼ同等の知識を有しています」


 奏は普通にいっていたら今年で高校三年になるはずだ。それが中学校卒業時と同等の学力と言うといささか劣っているが、こればかりは何とも言えない。隔離されてからどういった教育がされたのか七海は知らなかったし、それは春日も同じようだった。隔離されて以降に学習したことを忘れてしまった可能性もあるが、隔離されてからまともに勉学をさせてもらえていなかった可能性もある。一概には何とも言えなかった。

 ただ、それだけの知識があれば日常生活を送るのにほとんど不自由がないことはこの一週間でわかったことだった。

 目が覚めた翌々日、お見舞いの品にと七海が持ってきた流行りの文庫小説を奏は二日の間に読んでしまった。余程難しい漢字にはルビが振ってあったが、それ以外の場所で読み方がわからずに苦労した様子はなかった。


「それで、特定犯罪指数についてですが……」


 きた、と七海は思わず身体が強張った。出てきた生唾を飲み込む。表情がよほど固くなったのが春日にもわかったのだろう。彼は少しだけ表情を緩めた。


「今はボーダーを大きく下回っています」


 その言葉に、七海は胸につかえていた大きな塊がすとんと落ち、舌の上に落とされた砂糖菓子のようにあっという間に消え去っていくかのような感覚を覚えた。

 自然と息がもれる。良かった、と一言で表していいものかどうかさえわからない。


「ただ、これは今現在においてはという注釈をつけなければいけません」


 余計な期待を持たせるのは不味いと思ったのか、春日が口早に言葉を続けた。


「目が覚めて一週間。元々ボーダーを超えていたことを考えると、今後上昇に転じる可能性は大いにあり得ます。長い目で注視していかなければいけないでしょう」

「あの、それはどのくらいの期間でしょうか?」

「それは私にも一概に決められるものではないかもしれません。症例としてイレギュラーなケースですし、行政次第としか……」

「それじゃあ、姉はこのまま……?」

「今後の経過観察も含めれば、あと半月ほどは一般病棟に入院して様子を見るべきだと考えています。ただ、記憶障害を除いて言えば奏さんはいたって健康です。それ以上一般病棟に入院していただくというのは難しいかもしれません」

「と言うと、退院、ですか?」

「いえ。天咲さんの場合は寝たきりの状態が長かったので一般病棟からリハビリテーション病棟に移って、体力を取り戻してもらうためのリハビリをしてもらうことになると思います」

「それは一体どのくらいの期間になるんでしょう?」

「そうですね……あまり一概には言えませんが……」


 春日は少し考えるような仕草をしてから


「おおよそ二ヶ月から三ヶ月くらいになると思います」


 となると、その間の時間は稼げるわけだ。

 瞬間に七海は考えた。

 意識が戻ったことはその日の翌日に電話で父親に伝えたが、父親はそんなことは取るに足らないことだと言うかのように「そうか」と息を吐き、「何か親の了承が必要な場合はしてやる」とだけ言って詳しいことを聞こうとすらしなかった。

 今回のことを受けて役人は奏の処遇についてまず父親とコンタクトを取ろうとするだろう。そんな時にあんな淡白な反応しかしなければ役人は都合が良いように処理してしまうに違いない。それは再び七海は奏と別れ離れになってしまう可能性が高い。

 それだけは嫌だ。

 ぐっと七海は下唇を噛む。そう考えればリハビリテーション病棟で二、三ヶ月の時間の猶予が出来たのは非常に大きな収穫だ。

 が、聞きたいことはまだ他にもあった。


「あの、一つ、質問なんですが……」

「はい、なんでしょう?」

「姉に、自分が特定犯罪指数が上回って隔離されていたということをどうして伝えたんですか? 少なくとも今は下回っていますし、目が覚めたばかりです。そんな混乱させるようなことは伝える必要はなかったように思うんですが」


 その質問に春日は目を細めた。一度大きく息を吸ってからゆっくりと吐き出す。その仕草に、医者としては本来ならそうしたくなかった。そう言っているような気配を感じた。それに七海は言葉を続けた。


「それは須田さん……いえ、役所の意向だったんですか?」

「七海さんの言うようにせっかくボーダーを下回っているんです。余計なことを言って悪戯に指数を高める可能性があることをする必要はないんじゃないかと医者としては意見はしたのですが……」

「役所としては、一度ボーダーを超えた人間を社会にそう簡単に放したくはない……」


 七海の言葉に申し訳なさそうに春日が目をやる。つい漏れてしまった言葉だ。七海は小さくかぶりを振って「すみません、独り言です」と言った。

 どちらにしろ、次に話をしなければいけないのは役人だ。

 春日は協力的な姿を見せてくれているが役人は必ずともそうとは限らない。いや、むしろ現在指数が下がっているのが『特殊』な事例であり、上昇に転じることを前提条件として考え、最初から隔離を考えている可能性だって十分ある。

 春日と別れ、面会室を出て姉の病室に戻る。

 ノックを三つ。「はい」と返ってきた声に、七海は自分の表情が強張っていないことに特段気をつけて扉を開けた。


「ただいま、お姉ちゃん」

「七海さん」

「もぅ、だから、さん、は必要ないって。私たち姉妹なんだから。おまけにお姉ちゃんの方が年上」

「ごめんなさい。でも、やっぱり慣れなくて……」

「まぁ、いきなり妹だ、って言われても困るよね」


 七海が小さく笑うと奏も少し申し訳なさそうに笑う。それだけでもこの一週間の大きな進歩だった。

 目が覚めたばかりの頃は全くの他人行儀で、話しかけられることすら戸惑っているようだった。それでも七海はなんとか話題を見つけ、話しかけてちょっとでも奏が話しやすいような話題を振った。

 奏自身元々口数の多い方ではない。それこそ最初は七海が一方的に話し、奏は困ったように眉をハの字にしたまま曖昧に相槌を打つだけということも多かった。

 それが、今ではちょっとの会話で表情を変えてくれるようになっている。七海にとってはそれだけのことでも嬉しかった。


「今はしょうがないと思うけれど、徐々に慣れていってくれたら嬉しいな」

「ええ、努力します」

「努力って言うか、自然とそうなっていければ一番なんだけどさ」


 そう言ってベッドサイドの丸椅子に腰を落ちつける。時間は午後七時を回っていた。面会時間の終わりまであまり残っていない。

 ゆったりとした沈黙のベールが部屋に落ちてくる。日が長くなってきた季節とは言っても外はオレンジから段々と群青に染まりつつある。こういうのを黄昏と呼ぶのだっただろうか、なんてことを漠然と思う。


「……それで、お医者さまはなんて?」


 珍しく先に沈黙を破ったのは奏だった。


「うん。健康状態に目立った問題はないって」


 それに七海は笑って答える。


「記憶がないからすぐにどうのこうのっていう話にはならないみたいだけど、それでも半月くらいしたらここからリハビリテーション病棟に移ってもらう予定みたい」

「それは私は聞きました。随分身体のあちこちが弱ってるから、って」

「そうだね。二ヶ月も寝たきりだったから、今もちょっとしんどいでしょう?」

「そうですね」


 奏が微かに笑う。その表情に七海の胸は少し跳ねた。


「それで、リハビリが終わったら退院、と?」


 が、その表情はすぐに消え、奏は目を伏せてしまった。

 そこに退院出来る喜びなどほとんど見られず、あるのは不安と恐怖がマーブル模様に交ざったかのような色だった。躊躇うように一瞬口をつぐむが、今更考えても仕方のないことだとでも言うかのように奏は言葉を続ける。


「そうしたら、私はまた施設に隔離されるんでしょうか?」

「ううん」


 しかし、そんな姉の言葉を、語調を強くして七海は否定した。


「今のお姉ちゃんの特定犯罪指数はボーダーを大きく下回ってるんだって。指数が下回っているのに施設に行くなんておかしいでしょう?」

「でも、ちょっと前まで私はボーダーを超えていたんですよね?」

「前は前だよ。今は下回ってる。今後も下回ったままでいるなら社会から隔離される必要なんてどこにもない」

「それじゃあ……」

「今はまだこんなこと言われても困るかもしれないけれど、リハビリが終わったら一緒に家で暮らそう? 前みたいに……って言っても覚えてないだろうけど、前みたいにさ。家族なんだもん。それが当たり前じゃん」


 そう言うと奏は少し安堵の表情を見せた。

 例え記憶がなかったとしても犯罪者予備群として隔離されるよりかは他の人と同じように家族で暮らす方が何倍も良いに決まっている。

 それを実現するためにも退院するまでの……遅くとも三ヶ月の間に役所と話をつけなければいけない。

 そう考えた七海の頭にあったのは、前に父親が使っているパソコンを借りた時に見た住所録だった。奏が特定犯罪指数を超えた後のことから考えると七海はあまり父親に良い感情を持っていなかったが、その立場や社会的な繋がりが利用出来るとなったら感情に引っ張られている場合ではない。父には付き合いのある優秀な弁護士が何人かいたはずだし、その中には人権問題に強い弁護士がいたはずだ。

 利用出来るなら利用する。

 奏と離れ離れにならないためなら七海はどんなことであろうとするつもりだった。

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