Side K

取り戻した日常

 トントンと靴先を床で叩いて整え、「それじゃあ行ってくるね」と目の前の少女は明るい笑顔で言った。

 自分の重たい黒髪とは違う、明るい栗色の髪は可愛らしくボブで整えられている。大きな目はつり上がり気味のネコ目で、うっすらとしたナチュラルメイクも相まって同性の奏から見ても愛嬌があった。

 愛想笑い一つ出来ない自分とは大違いだ、なんてことを思う。

 自分の容姿が特段悪いとは奏も思わなかったが、それでも人から好かれるのはきっと七海のような少女だろう。姉妹だというのに似ても似つかない、と小さく嘲たくなる。


「いつも言ってるけど、面倒くさかったら掃除とか洗濯とかしなくて良いんだからね?」

「ううん、七海が学校に行っている間、暇だから。それに夕飯はいつも七海が作ってくれるでしょう? そのくらいのことはさせて」

「でも退院してまだ一週間しか経ってないんだし」

「別に大病をしていたってわけじゃないもの。リハビリも終わってお医者さまだってすっかり健康だって言ってくれてるし……体力を取り戻すためにもそのくらいは動かないと」


 それでも七海は「くれぐれも無理はしちゃダメだよ?」と念を押してから学校へと出かけて行った。

 退院する日はまだ夏の気配が色濃く残っていたが、今日は少し秋の気配が感じ取れるくらいの気温になっているように思う。そう言えばリハビリを始めた奏の見舞いに来ていた七海は夏用のスクールベストを着ていたが、十月に入ってからはブレザーを着るようになっていた。奏自身はまだ自分自身の状況に戸惑っていたが、季節は着々と冬に向けての準備をしているようだ。

 一週間経ってようやくこの家にも少しは慣れてきた。

 人間とは不思議なもので、最初は全くの赤の他人の家のように感じられ、病院の方が落ち着けていたようにすら思っていたのに、今ではちゃんとこの家が落ち着ける場所になっている。

 これが適応というものなのか、それとも記憶がなくなっていても深層心理のような何かでこの家のことを覚えている、ということがあったりするのだろうか?

 洗濯機をしかけ、主だった部屋に掃除機をかけている間に洗濯物が出来あがる。自分と七海の分だけの洗濯物は量が少ないし、まだ未成年の女の二人暮らしだ。外に干すのははばかられて、七海が一人でここで暮らしている時にそうしていたらしいように乾燥機能のついている浴室に洗濯物を干す。

 七海の話によれば母は一年と少し前に脳卒中で早世し、父親はアメリカに長期出張中でほとんど日本には帰ってきていないどころか、連絡があることも稀だそうだ。

 七海は今回のことで何度か電話をしたようだけれど、電話口に奏が呼ばれたことは一度もなかったし、自宅に直接電話がかかってくることもなかった。

 娘が事故に遭ったのに直接の連絡一つよこしてこないのは冷たいんじゃないか……というのが世間的に考えられる反応のようにも思えたけれど、奏には不思議とそういった気持ちはなかった。

 なんとなくだけれどこの家族は家族というつながりがどこか希薄だったのではないか?

 七海は特別何も言わないが、そんな風に奏は考えていた。

 第一、母親が亡くなっているというのに家には仏壇がない。七海にそれとなく聞いてみると、都内のとある納骨堂に遺骨や位牌を収めているらしい。

 それに、今の奏にそんな意識がなくとも、元々は特定犯罪指数を上回った人間なのだ。いくら現在は下回っていると言っても、一度でも上回った時点で犯罪者の烙印を押された前科者と大差ない。出来れば関わりを持ちたくないという気持ちもわからないではなかった。

 でも、それじゃあどうして七海は自分にこんなにもよくしてくれるだろうか?

 リビングのソファに腰を下ろして奏は息を一つ吐いた。壁に添えつけられた大型テレビのスイッチを入れると、ちょうどお昼のワイドショーの時間で、各地で盛り上がりを見せつつあるハロウィンについての特集が組まれていた。小さな黒の帽子を頭に乗せたキャスターがハロウィン仕様のパンプキンをメインに使ったケーキにフォークを入れていた。

 七海は、リハビリテーション病棟に移る前も足しげく病院に通ってくれ、リハビリテーション病棟に移ってからもそれは変わらなかった。それどころか、夏休みに入ったら一日中奏に付きっきりだったことだって珍しくない。

 理学療法士さんの指導の元、体力を取り戻すリハビリを行うのに七海はどれだけの協力をしてくれただろう?

 勉強など自分だってきっと大変だろうに、それでも彼女はそういった自分のことよりも奏の方を優先しているように感じられた。

 目が覚めて最初の頃は車いすを使わないと満足に動けなかったのが、少しずつ歩けるようになり、病室からリハビリテーション室まで歩いていけるようになって、一日を他の患者さんと同じように過ごせるようになって……。

 そういった一つひとつのことに自分以上に喜んでくれたのは七海だった。


「………………」


 自分が姉だから?

 姉妹の絆……とでも言えば確かに聞こえは好いかもしれない。

 しかし、それでも特定犯罪指数を上回った姉などあまり好かれるようには思えなかった。

 『ボーダー超え』の姉がいるというだけでも世間の目だって厳しくなるだろうし、実際に特定犯罪指数を超えてしまった身内がいるために様々なもの……婚約や受験、就職など多くのことが上手くいかなかったケースは多いと聞く。特定犯罪指数はあくまで『予備軍』であり、家族に与える影響はありません、なんて言葉は所詮政府のきれいごとに過ぎない。邪険にされたっておかしくない、むしろそうされてしかるべきだと思うのに、七海は違う。

 ただ彼女が優しい性格で、邪険にすることが出来ないまま気を遣っているのではないかとも考えた。

 けれど、それならはじめから役所の言うままにしておけば良かったのだ。

 役所は最初、自分をこうして社会に出して自由にさせようとは考えていなかったらしい。

 つまるところ、何も邪魔が入らなければ奏はリハビリが終わった後、事故が起こる前まで過ごしていた施設に戻り、更生プログラムを受けていた時とさほど変わらない生活を送っていたということである。

 それを、七海は著名な弁護士にそれなりの金銭を支払ってまで役所と折衝し自分を引きとったようだ。

 この話だって弁護士から聞き及び、「良い妹さんを持ちましたね」と言われただけで、七海自身の口からは「大変だった」の一言だって聞かされなかった。もちろん、それを恩に着せるような様子もない。

 その上でさらに自分に明るく接してくれる七海の姿は眩しく思えると同時に、奏には不思議でならなかった。

 結局、テレビをつけてもじっくりと見る気にはなれず、スイッチを消して二階の自室へと戻った。

 部屋は奏が隔離された時からほとんどそのままにしてあるらしかった。

 家には多少慣れてきてはいたものの、それでもこの部屋のもの全てが自分の私物だと言われると不思議な感覚を覚えた。もちろん自分の部屋にあるのだから自分が以前に持っていたものなのだろう。けれど、それでもどこか他人の持ち物のようで安易に触れるのは躊躇われた。

 全く気にならないというわけじゃない。

 机の引き出しを軽く調べたりはしてみたが、日記の類のようなものはなかった。もしかしたらクローゼットの奥なんかには昔の生活を呼び起こさせるようなものの一つや二つはあるかもしれない。

 けれど、それは本格的な家探しのような感じがして嫌だったし、何より過去を知ることが怖かった。

 しかし、そんな中でも例外はあった。

 部屋の窓から離れた位置にあるキャビネットに置かれた黒のケース。

 ふたを開けると銀色に光るフルートが収められている。奏はそっとパーツを取り出すと、ジョイント部分をクロスで丁寧にぬぐってから部分部分を繋ぎ合わせた。

 そのままゆっくりとフルートを構え、歌口に向けて息を吐き出すと澄んだ音が部屋に響いた。軽くいくつかの音を繋げてから、指が覚えている通りに動かしていく。

 ドビュッシー作曲の『シランクス』。

 この楽曲は当初、ガブリエル・ムーレの未完の劇『プシシェ』の付随音楽として、舞台袖で演奏すべき小品として作曲された。ギリシャ神話のニンフにしてアルテミスの従者であり、川の妖精に祈って葦に姿を変えたと言い伝えられているのがシランクスだ。葦になった彼女の声に聴き惚れた牧神であるパンは「少なくとも、貴女の声と共にいることが出来た」と喜び、その葦を手折って葦笛シュリンクスパンフルートを作り、自らのトレードマークとしたという。

 多くの記憶を失った奏の中でも、どういうわけか音楽についての知識や記憶は明らかに普通の人より富んでいるのが自分でもわかった。こうして空でよどみなく、自在に吹けるのもあまり普通とは言えないだろう。

 自分が世間でどのくらいのレベルだったのかはわからないが、たぶん記憶を失う前……少なくとも隔離されるまではフルートをやっていたのは間違いない。

 三分弱の曲を吹き終わり、ふぅと長く息を吐き出してフルートを下げる。

 ラックに並んでいるたくさんのCDに、その下には楽譜の束と思しきものが綺麗に収められていた。ちょっと趣味程度にやっていた、といった量ではない。あまりに大量の紙の束を奏は最初自分が中学校に入ってからのプリントの類を全て取っていたものかなにかと思った。が、それがどうやら全て楽譜の類だと気がついた時にはある種の狂気じみた恐怖すら覚えたほどだ。

 私は、昔は音楽漬けの毎日を送っていたのだろうか?

 その疑問は妹である七海に聞けばわかるのかもしれない。

 自分がどういう人間で、どういう毎日を送っていたのか?

 どういう人間が『天咲奏』という人物だったのか?

 それが多少でもわかるかもしれない。

 だが、それは同時に自分がどういった『思考』をしていたか? ということに繋がることでもあった。


「………………」


 病院にいた時にはどうせまたどこかの施設に送られるのだろうと思い、ある程度の諦めの心があった。

 けれど、病院で、そしてこの家で屈託なく接してくれる七海との生活を送っている内に、奏の心には背後に迫りくる闇のようなものを覚え始めていた。

 もし過去の自分を知り、また再びボーダーを超えるようなことがあれば、自分はあっという間にその闇に呑み込まれ、孤独の世界に落ちるのではないか?

 その恐怖が深く自分の過去を探ろうとする奏の心を押しとどめていた。

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