意識不明
どのくらいそうしていただろう?
規則正しい呼吸のリズムに手のひらから伝わる温度。この二年間……いや、初めて七海が奏に出会った五年前からずっと欲しかったものがここにある。
このまま時が永遠に止まってしまえば良い。自分と姉の二人だけを残して他の世界なんてなくなってしまえば良い。
冗談交じりに……いや、それがこの瞬間の七海の本当の願いだったかもしれない。もう二度と会えないだろうと言われた時に覚えた絶望の色が反転し、今は永久を願う色に変化していた。
もっとも時間の流れは実際には止まってくれるわけもない。
ふいにコンコンコンと病室に響いたノックの音に七海は我に返ると、パッと奏から手を離した。「はい」という返事の後に扉が開いて一人の白衣の男性が入ってきた。黒ぶちの眼鏡に、きっちりと七三に分けられた髪はだいぶ白髪が交じっているように見えた。ただ、そこまで高齢という印象は受けない。目じりにかけて下がり気味の目と合わさって穏和な印象を抱かせた。
「えっと、天咲奏さんのご家族の、天咲ナナミさん……?」
「いえ、ナツミです。七つの海で、ナツミ」
「そうか、ナツミさんか。奏さんの妹さんで間違いないですか?」
「はい、そうです」
「奏さんの担当をしている医師の春日です。今日は一人ということだけれど、ご両親は?」
「母は一年前に他界しました。父には一応携帯の留守番電話に連絡を入れましたが、今海外で……仮に帰国したとしても来るかどうかは……」
言葉を濁した七海だったが、春日はそれ以上深く聞く気はないようで軽く頷いただけだった。
特定犯罪指数で隔離された人間は基本的に社会との繋がりが断たれる。それは家族も例外ではないし、逆に家族の側からして積極的に繋がりを断ってしまうケースだって珍しくない。
特定犯罪指数はあくまでも指数である。
もちろん、それが超えただけで実際に罪を犯した犯罪者というわけではない。わけでもないが、それに引っかかることはこの『健全』とされる社会においては凶悪犯ということと変わりなかった。いつか重大な犯罪を犯すが、その前に逮捕出来た。それが一般的な認識だった。
おそらく全部の家族がそうだというわけではなく、中には暖かく見守ってくれる家族もあるにはあると思う。けれど、世界のどれだけの家族が凶悪犯に成り得る可能性をもった家族と積極的に関わりをもちたいと思うだろうか? 一度長期に刑務所に入っていた凶悪犯の身元引受人が少ないのと同じである。
「それでは、とりあえず別室で状態を説明させていただきますね」
一度病室を出て、近くにあった面談室と書かれた部屋へと招かれた。こじんまりとした部屋は病室より狭かったが、壁にはレントゲンなどを映すだろう機械が設けられていた。勧められたソファへと七海が腰をかけると、春日もゆったりとした動作で対面のソファに腰を下ろした。
「さて、奏さんの現在の状態なのですが……」
「いわゆる意識不明というやつなんでしょうか?」
気が急いて七海が問うと、春日はその温厚そうな顔に苦笑を浮かべ「いえいえ」と手を振った。
「よく意識がないと言われると意識不明の重体だとか非常に重い症状を想像しがちですが、奏さんはそうではありません。所見では、多少の打撲はありますが、大規模な脳内出血や頭蓋骨の骨折などは見られません。脳という器官は未だにわからないことが多いので確約は出来ませんが、今すぐ命がどうこうなってしまうという可能性は非常に低いと私どもは考えています」
受付にいた看護師にも言われたことではあったが、実際に医師にそう言われると本当に安心をして良いのだという実感がわいた。
そこから七海は事故の起こった状況を詳しく聞いた。
高所からの転落とだけ聞いていたが、奏は『本来なら落ちるような場所ではない』ところから『落ちた』らしい。そのおおよその高さを聞くと、とても命を拾えるような高さには思えなかった。
「たまたま下を運搬用のトラックが通りかかって、その荷台のシートがクッションになったようです。それは奇跡的と言っても良かったかもしれません」
「それでは、姉は直に目を覚ますんでしょうか?」
「それは……」
そこにきて初めて春日は僅かに顔を曇らせて言葉を濁した。眼鏡のフレームを指で整え、一度軽く唇を絞めてからゆっくりと口を開く。
「……正直に申し上げると、それは保証出来ません。奏さんがここに運ばれて今日で三日が経ちますが、目を覚ます気配が一向にないのです。痛みなどの一定の刺激には反応しますし、脳波にもこれといった異常は見受けられません。が、意識は一度も戻っていないんです」
「それは、どうしてなんですか?」
「正直、こればかりはなんとも……先ほどと同じ言葉になってしまいますが、私たち医師にとっても脳という器官はまだ未知の部分が大きいんです。身体が傷からの回復にリソースを割いているとも考えられますし、それとはまったく別の要因ということも考えられます。いずれにせよ、いつ意識が戻るのか……もっと言ってしまえば意識が戻るのかどうかさえもわからない状態なんです」
そんなことがあるのだろうか?
思ったが、七海は医学のことなんて詳しくは何もわからない。脳となればなおさらだ。意識に関するものだから大脳皮質に何か異常があるのだろうか、などと悪戯に考えたところで素人の七海が思いつくことを医者が調べていないわけがない。
結局少しの沈黙が部屋に流れただけで、春日が言葉を続けることになった。
「今一通り説明したことが奏さんの現在の状態ということになりますが他に何か質問はありますか?」
それに七海の頭に先ほど春日から聞いた言葉がよみがえる。口を開き、その疑問を言葉にしようとしたが、それを聞くべき相手は医師である春日ではないのではないかと思い直して閉じた。しかし、何かをしゃべろうとしたことは春日にも伝わったらしい。「なんでも聞いてくれて構いませんよ」という言葉に再度七海は口を開くと、ゆっくりと言葉を紡いだ。
「その……こんなことを聞くのもあれなんですが、高所からの転落は……事故、だったんですか?」
その問いかけに春日が小さく目を細めた。その仕草が全てを物語っているようにも七海には思えた。
「……申し訳ありませんが、それにお答え出来るような正確な情報は私どもの方にも伝わってきてはいません」春日はそう答えた。それはおそらく嘘ではないだろう。
結局、「そうですか」と七海は息を吐いた。
面談室を出て春日と別れ七海は奏の病室へと戻った。先ほどと全く変わらない様子で奏はただ眠っているだけのように感じられる。
いつ目が覚めるともわからないと言われても実感がわかず、今こうしている間にもふっと瞼を開くのではないかと思えた。
繊細な手つきでフルートを奏でていた指に触れる。温かいその温度に七海の脳裏には昔の記憶がつい昨日のことのようにありありと蘇ってきた。
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