運命の出逢い

「七海ちゃん。これからよろしくね」


 そう言って挨拶をしてきた女性……おそらくは新しい母親となるだろう人を小学六年になる七海はなんとも言えない気持ちで見やった。

 綺麗に整えられた濃い茶髪のショートヘアー。元からある程度の大きさがあるだろう目にはきっちりとアイラインが引かれ、その印象をより一層強く見せる。細身の黒のワンピースに上からジャケットを羽織り、首元にはパールのネックレスが二連で巻かれていた。もしかしたらそれは父が贈ったものかもしれない。そんなことを七海はぼんやりと思った。

 ともかく、気の強そうな人、というのが第一印象だった。ハツラツとした女性で、企業に勤めた経験は大学を卒業してからの数年しかなかったと後から知ったが、その時には今も一流企業でバリバリ働いているOLだと言われても十分納得しただろう。

 父親に「会わせたい人がいる」と言われ、それなりに格式のあるレストランのディナーに連れて行かれた時点でなんとなくの事情を七海は悟っていた。

 父親が七海の実の母親と別れたのは七海が小学校に入るよりも前だった。

 どういう理由かは結局今も聞かされていないし、今更聞こうとも思わない。ただ、「もうお母さんは一緒に暮らせないの」と母親に言われた時、もちろん悲しさもあったが、それ以上にほっとしたことだけを七海はぼんやりと霞がかかったような記憶の中で覚えていた。幼心に、母が常に哀しく、辛そうな顔をしていたことを感じていたからかもしれない。

 今となっては顔も満足に思い出せないが、プライドが高い理屈屋の父親と家庭を築くには弱い人だったのだろう。父親は一流の大学を出て外資系の企業に就職。その中でも出世コースに乗ったことで、元々高慢と言える面があった性格がさらにきつくなったに違いない。ただ恋愛をして遊ぶのと結婚をして家庭を作るのには言うまでもなく大きな差がある。きっと母親はその軋轢に耐えられなかったのだ。

 今度のこの人はそんな父と上手くやれるのだろうか?

 そんなことを思いながら女性の隣に立っていた少女を見た時、七海の胸が一つ大きく打った。

 肩より若干下に伸びた黒髪は明るい栗色の髪をした自分とは違って艶やかに見えた。目尻にかけて少し下がっている目は穏やかで、彼女の母親とはあまり似た雰囲気を持っておらず、どちらかと言えば春に吹く穏やかな風を感じさせるような少女だった。私立中学の制服を身にまとい、すらりと立った姿に七海は息をのんだ。


「奏です。音楽を奏でるっていう字で奏。少し難しいけど、わかる?」


 柔らかい口調だった。

 自分より一つ年上の子がいると事前に父親に言われていたが、とても自分よりも一つだけ上だというのが信じられないくらいに彼女は大人びて見えた。

 問われても七海は咄嗟に反応出来ずに口ごもってしまった。「柄にもなく緊張してるみたいだな」と父親が笑うように言った。しかし、七海にとってはそれが緊張なのかどうかさえわからなかった。そのくらいの衝撃が七海を襲っていた。どうにかして口を働かせて言葉を紡ぐ。


「えっと……演奏するとかの、ソウ、ですか?」

「うん、正解」


 そう微笑まれた瞬間、それまでに感じたことのない風が吹き抜けた。父親の……もっと言うなら大人の都合で勝手で決められていく状況にどこかうつうつとしていた七海の心のカーテンが取り払われ、まっさらに晴れた空が見えた。

 運命の出逢いだ。

 咄嗟に思った七海の心臓はその時すでに鷲掴みにされていた。



 そこから一緒に暮らし始めるまでに三ヶ月の時間があり、何度か奏とその母親に会ったが、会えば会うほど七海は奏の虜になっていくのが自覚出来た。

 奏はその落ち着いた見た目と同じでどちらかと言えば大人しい性格をしていて、あまり口数が多い方でもなかった。会う時は決まって格式のあるレストランで食事を共にしたが、互いの親がそれぞれ自分の子供を相手に馴染ませようと会話をするのを彼女は静かに聞いていることが多かった。

 奏の母親は何かにつけて七海に話しかけ、七海も子供なりに気を遣って言葉を返していたが、そんなことを全て含めて理解しているかのような立ち居振る舞いを彼女はしていた。


「新しく妹になるのが七海みたいな子で良かった」


 何回目の食事の時だっただろうか?

 食事を終えた後、何かの理由で双方の親が離れた時にそっと奏が七海に言ったことがある。


「どうして?」


 たったそれだけの言葉でドッドと早鳴ってしまう心臓の音が聞こえてしまうのではないかと思いながら七海はそう尋ねた。


「理由を聞かれてもなんとなく、としか言えないんだけどね」

「なんとなく……?」

「そう。もっと聞こえの良い言葉で言えば相性っていうものかもしれないけれど。……七海は私が音楽をやってるってもう聞いたよね?」

「ピアノとフルート……プロの先生にもみてもらってて、凄い上手だって聞いてる」

「新しい曲を聞く時に感じるの。あ、この曲とは仲良くなれそうとか、仲良くなるのはちょっと難しそうとか、なんとなくややこしい関係になりそうだな、とか」

「曲と?」

「うん。音楽と一緒にしちゃ悪いかもしれないけれど、七海とはなんとなく仲良くなれそうな気がする」


 そう言われた夜、七海はベッドの中で何度も何度もその言葉を繰り返した。

 奏は音楽には親しかったが、上品とお淑やかさを併せ持った少女で共にはしゃいだりする友人の類は少ないようだった。

 逆に七海はクラスの中で中心にいるタイプで、お世辞にもお淑やかとは言えなかった。やんちゃもして――父親が呼ばれるまでのようなことはしなかったものの――何度か教師たちを悩ませることもあった。

 これで勉強が出来なければ問題児という扱いをされたのかもしれない。けれど、七海は妙に座学も得意だった。授業で聞いたことは大抵一度で覚え、数回基礎を繰り返せば簡単に応用することも出来た。課題や宿題などの提出物を忘れることもなく、そちらの面のみで言えば優等生と言えただろう。

 そうなると多少のやんちゃは『年相応の子供らしさ』という言葉で片づけられ、教師は「困ったもんだ」と苦笑いを浮かべることはあっても疎まれることもなかった。それどころか、七海の周囲には自然とクラスメイトが集まるから教師から頼りにされることがあったくらいだった。

 七海は『明るい子』と言われることが多かった。活発でスポーツが得手でありながら、成績も優秀。クラスをまとめるリーダーシップがあり、七海が一つ意見を言えば多くの子たちが「七海ちゃんがそう言うなら」と、その意見に賛同した。

 正直七海は学校生活を送るのに苦労をしたという経験がない。

 新しいクラスになっても前後の子に声をかければ彼らはすぐに七海の話に乗って来たし、一週間もたてば七海は多くのクラスメイトから友達だと認識されるようになった。それでいて、七海は友達を変に区別したりすることはなかった。

 友人の中にはカーストを気にする子がいるのだと七海は小学校の早い段階から気がついていた。自分がその相手と話すのに格がどうなのか。格上にはこびへつらい、格下には強気に出るか、無視のようなことをしていた。

 そんな学友たちが七海は不思議だった。言い方を変えればそれが七海の生まれ持った天性の才能だったかもしれない。

 そんな中、奏は初めて七海の方から親しくなりたいと思った人物であった。

 彼女に気に入られたい。

 彼女と親しい仲になりたい。

 会っている最中はなんとか静粛な奏に不快に思われないようにと大人しくしていようと心掛けていたが、それだって所詮は子供のおままごとである。化けの皮はすぐにはがれてしまうし、奏には人を見る目があった。

 だが、それでもなお奏は「仲良くなれそう」と言ってくれた。

 そのことが堪らなく、それこそ自分の誕生日とクリスマスとお正月と夏休みがいっぺんに来たのではないかというくらいに嬉しくて、枕をぎゅっと抱きしめながら自分自身に沸き上がっている感情が何なのかわからずに深夜まで起きていたのをよく覚えている。

 何度かの食事をしてから七海の父と奏の母は再婚した。

 それは七海が小学校を卒業するより少しだけ早く、中学に上がる時に合わせればその方が自然だっただろうから、タイミング的にどう考えてそうしたのかはわからない。

 元よりそのつもりだったのか、両親の間で何かあったのか……思ったよりも七海が奏に懐いた様子を見て、こういったものは早い方が良いだろうとタイミングを早めた可能性もある。

 まぁ、結婚をしているかどうかというのはある種の社会でのステータスにつながる。もし七海と奏の相性が悪かったり、どちらかが極端に嫌がったとしても結婚しないという選択肢はなかっただろう。

 結婚式などはしなかったし、婚姻届けを出したのがいつなのか七海は知らなかった。それでも、ある朝起きていくと妙に父親がかしこまった表情を浮かべて、今まで何度か会った女性が新しい母親に、そして奏がお姉さんになると伝えてきた。

 それを言われた時は嬉しかった。新しい家族が出来ることが嬉しかったのではなく、これで一層奏と親しい関係になれるということが嬉しかったのだ。

 奏とその母親が越してくる形で今の家で一緒に暮らし始めると、七海と奏の距離感はさらにぐっと縮まった。正確に言えば七海が奏に対して積極的に距離を詰めたのだが、奏はそんな七海を優しく受け入れてくれた。七海の心内など知る由もない両親は「最初から姉妹だったみたい」と少し心得違いの様子で喜んだ。

 そして、一緒に暮らし始めて七海がわかったのはもう一つ。姉の生活には思ったよりも深く、それはほとんど常にと言って良いほど音楽の姿があることだった。

 母親によれば、幼少期に試しに音楽教室でピアノをやらせてみたら先生に才能があると言われ、小学生の途中までピアノを、高学年になる頃、本人の希望もあってフルートをやるようになり、そちらではピアノ以上の才能を見せたそうだ。そして今は通っている音楽教室から紹介されたプロ奏者の個人レッスンを受けるようになったらしい。

 音楽のことは七海はよくわからなかったが、新しく姉となった奏が高い評価を得ていることが自分にとっては何よりの自慢だったし、その音楽に自分を例えて「仲良くなれそう」と言われたことが七海にとっては無上の喜びだった。

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