Side K
復帰に向けて
暖房をつけているとは言ってもまだ二月を少し過ぎたばかり。夜中は寒さの最中にあるはずだが、二人して布団にくるまっていれば――それが肌着さえつけていなかったとしても――深い眠りに誘うには十分な温かさがあった。
隣ですぅすぅと眠る七海を見やって微笑み、頬に小さく唇を落とす。それから布団をかけ直してあげた。七海は少しくすぐったそうにしたが、すぐにまた深い眠りに落ちていった。
最初は戸惑っていた生活……それこそ、普通にやれるのかどうかすらわからなかった生活もしごく当たり前のもののように思えるようになってきた。
正直に言えば、奏自身こんな生活がここまで長く続くとは思っていなかった。
特定犯罪指数がボーダーを下回ったと言ってもどうせすぐにまたオーバーして隔離される。そんなつもりでいた。だが、この最近の検査でも指数は下回ったままで、順調に安定しているとさえ言われている。
「そろそろ社会復帰について考え始めても良いかもしれません、か……」
今日病院でいつも通りの検査を受けた後で春日に言われたことを思い出す。
面食らった一言だった。
一度特定犯罪指数がボーダーを超えた人間が社会復帰出来るなんて想像もしていなかった。しかし、彼が言うには、支援団体もあり、実際に社会復帰した人もいるらしい。
今から高校に入学するといったことは無理かもしれないが、それでも年齢的に考えればかなり多くの選択肢をまだ取れる場所にいるという。
記憶を失ってからというもの、過去だとか未来だとか意識したことは一度もなかった。と言うよりもその全てが自分には存在しておらず、現実感がなかったと言った方が良いだろう。
しかし、実際には時間は止まってはくれない。
戸惑っているだけの自分を置いてずんずんと未来へと進んでいく。もちろん、その流れの中に七海はいる。
このままでは、自分は七海の重荷になるんじゃないだろうか?
病院から戻ってくる間、いつものように楽しそうに話す七海を見ながらそんなことばかりが頭の中である種の悲鳴のように木霊していた。きっと彼女にそんなことを言えば「重荷になんてなるわけない」と言ってくれるだろう。妹として……そして、恋人として。
でも、果たして自分にそこまでの価値があるのだろうか?
父の言葉が頭に蘇る。
『七海、いくら奏のことが大切だからと言って自分の将来を台無しにするような真似だけはするなよ』
このままで良いのだろうか?
今までの自分は七海に甘えたまま、彼女におんぶにだっこの状態だった。最近になってようやくわかったけれど、七海は結構スマホをいじって友人たちとやりとりをしている割にはそんな友人たちと遊びに行っているような様子がほとんどない。クリスマスのような日はもちろんのこと、ただの休日だって奏に付き合ってくれることが圧倒的に多かった。
恋人だから……と言われたらそれまでなのかもしれない。しかし、だからと言って友人をないがしろにしていい理由にはならない。明るい彼女のことだ、きっと多くの友人がいるだろう。
だとしたら、自分はちゃんと自分で生きられるような道を探さなければいけないのではないか?
それが今の奏の中に自然と芽生えてきた気持ちだった。
「………………」
七海を起こさないようにそっと布団から抜け出すと、脱ぎ散らかしていた服を着て自分の部屋に戻った。
暖房のスイッチを入れ、ノートパソコンを立ちあげる。何を思ったのか、年が明けて間もない時に上海の出張から帰ってきた父が「こんなものでもあった方が色々と便利だろう」と渡してくれたのだ。隔離される前もこういったものは得手ではなかったようで最初は結構四苦八苦したものだが、それでも今はインターネットなどはどうにか使える、というレベルにまではなっている。
慣れないキーボードを叩きながら春日との話で出てきた単語を検索していく。もし本当に社会復帰を目指すとなるならやらなければいけないことは山のようにあった。
まず第一に、特定犯罪指数から社会復帰するにあたっての審査がある。一般生活を送っても問題ないかの審査だ。とは言ってもこれは春日が「意識が戻ってからボーダーを下回って安定しています。このままの状態ならまず問題はないでしょう」と言っていたことを考えると大きな難関じゃないだろう。
しかし社会復帰をしようにも奏は高校に行っていない。一応中学は卒業扱いにしてもらったようだけれど、だからと言って中卒で職を探したところで見つかる可能性はほとんどないに違いない。少なくとも高校卒業か、それと同レベルの経歴は必須になってくる。
そうなると、目についたのは高等学校卒業程度認定試験というものだ。
高等学校卒業程度認定試験。そして、それについて調べていると、専門学校や大学の文字が見えた。
「専門学校に、大学……」
社会復帰と言われ、奏は何か仕事をすることしか考えていなかった。だが、高認試験をクリアすれば専門学校や大学への進学も見えてくる。むしろ色々なホームページを見ているとそちらのことを考えて高認試験を受ける人が多いようだ。
「でも……」
専門学校や大学に行きたいと言って父が首を縦に振るだろうか?
考えるが、あまり良い顔はされないだろうと思ってしまう。
そもそも専門学校や大学にいくならまとまったお金が必要だ。この家は金銭に困っているような家じゃないだろう。けれど、それを出してもらえるかどうかはまた別の問題である。
しかし、もし仮に学校に……音楽に関われるような学校に進学出来たらどれだけ楽しいだろうかと思ってしまう。
記憶を失う前、音楽でつまづいてきっと様々なことを悩んだのだろう。七海は奏を気遣ってかあまり音楽について言うことはないし、あまりそちらの方を思い出させるようなこともしなかった。
それでも七海が学校に行っている時など、ふと手が伸びるのがフルートで、それを吹いている間は不思議な幸福に包まれるのが奏自身わかるのだ。
何も考えずに演奏が出来るおかげかもしれない。
昔は様々なしがらみがあったことは想像出来る。それがない今は、音楽は奏にとって七海と同じと言っても良いかもしれないほどに大きな割合を占めていた。
例えば音楽大学……というのはあまりにも高望みだとしても、別の関わり方もあるんじゃないかと思う。
そこまで考えたところで奏は慌てて首を横に振った。
それはあまりにも欲を出し過ぎだ。とりあえず今は高認審査をクリアすることを考えよう。
目を覚ましてからの自分は何も考えず七海に頼りきっていた。
もっと色々と自分で出来ることがあるはずだ。そういった意味で自分は本当に優しい妹、そして恋人を持ったと思うと同時に、これからは少しでも負担を軽くしてあげられるようにしたいと願うことが出来た。
相談すればもちろん彼女はそれこそ自分のことを省みないで力になってくれるかもしれないが、それで七海自身の大学受験を失敗してしまったら取り返しがつかない。それこそ父親の言った通りになってしまう。
これから自分が……天咲奏という人物として生きていく第一歩として、社会復帰については七海に相談せず自分の力だけで色々と探してみよう。
そう奏は決意した。
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