これから

 スマホのカレンダーを見て、立春を過ぎてもう二週間が経ったのだと気づかされた。暖房の効いた室内は別だけれど、外を吹く風は身を切るようだし、空気は凛とした冬の寒さが十二分に残っている。春の気配はまだまだ遠くにあるように感じられた。

 もっとも、休日の街を行き交う人はそんな寒さに負けている様子はない。カフェの二階席の窓の外では、みんな服を着こんだ中で楽しそうにしているのがほとんどだ。

 と、ブルリと手に持ったスマホが震える。

 画面に目を戻すと、メッセージアプリに『出来てるかな?』という文字に続けて首を傾げているクマのスタンプが映っている。奏はそれを確認すると、『大丈夫。私はココアをお願い』と真新しいスマホの液晶をポチポチと慣れないなりに打って返信を送った。すぐさま『OK』の文字が画像に入っている可愛らしい動くスタンプが返ってきて、奏は小さく笑った。きっと普段もこうやって友人たちとやり取りしているのだろう。

 本当は今日こうやってスマホを買いに行くのだって一人でやろうと考えていた。奏も『初めてのお使い』という年齢じゃない。いつまでも七海に付き添っていてもらわないといけないという状態は良くないと思っていたし、この程度なら一人で十分に出来ると大したことじゃないように思っていた。

 もっとも、結局は奏が出かけるのを見つけた七海がどこに行くのか聞いて、「それなら私もついてくよ」と二人して出かけることになったのだが、今回はそれが功を奏したというべきだろう。

 こういったところから徐々に七海への依存度を下げていかなければいけないと思っていた奏としては予想外だったが、実際七海がついてきてくれていなかったらこんなにスムーズにスマホを買って、ましてやメッセージアプリであれこれと出来るようにはなってなかったに違いない。

 奏は、どんな機種を選べば良いのかはもちろんのこと、プランやオプションについてもほとんど知らなかった。七海がいなかったらきっと今この時間もまだ携帯ショップで店員さん――おそらく応対してくれた女性はあまりにもそういったことに慣れていない奏に心底辟易としただろう――と顔を突き合わせて云々と頭を悩ませていたはずだ。

 ややあって、七海が二つのマグカップを乗せたトレーを持って階段を上がってきた。

 コートの上からはクリーム色のストールを綺麗に巻いている。クリスマスに奏が贈ったものだが、気に入ってもらえたようで彼女は学校にも着て行ってくれる。こうまで愛用してもらえるなら店売りの物と比べてもそれほど遜色ないものが作れて一安心だった。少しばかり難儀したのも今は良い思い出だ。


「やっぱり覚えが良いね。もう使いこなせてる」


 トレーを机に置きながら言った七海に笑う。


「メッセージアプリでちょっとしたやり取りが出来ただけじゃない」

「でも、もうスマホで使うような動作は一通り出来てると思うけどな。タップ、ダブルタップ、ロングタップ、フリック、スワイプ……あと、ピンチにマルチタップ」

「そうかもしれないけど、それを日常生活で使いこなせなきゃ意味がないでしょう?」

「それは慣れだし、勘なところもあるからね。だけどパソコンだって問題なく使えてるし、自称『機械オンチ』は返上しても良いんじゃない?」

「そうなのかなぁ……?」


 マグカップのココアを受け取ってふぅーと冷ますように息をかけてから口をつける。温かいそれが喉を通って胃に落ちると体の中から暖めてもらえるような安心感があった。一方、七海は「あちち」と舌を出していた。彼女はぐりぐりのネコ目に似たのかネコ舌だったりする。


「ねぇ、昔の私はどうだったの?」


 ふと思ってそう聞くと七海は目をぱちくりとさせた。


「どうだったって何が?」

「スマホとか……中学生だったし持っててもおかしくないでしょう?」

「お姉ちゃんはずっとガラケーだったよ。私は中学生になってからスマホ。お姉ちゃんもスマホにしないのって聞いたことはあった気がするけど、今ので困ってないからって言ってたと思う」


 と言うことはやはり今の七海のように友人たちとスマホで頻繁に連絡を取ったりはしていなかったのだろう。たぶん友人の数だって決して多いとは言えなかったに違いない。

 記憶を失う前の自分……もっと言ってしまえば、特定犯罪指数がボーダーを超えるまでの自分がどうだったのか?

 前は知ることが怖かった。

 知ることによってボーダーを再び超え、一人になることが恐ろしいという思いが強かったが、春日に「安定している」と言われたからだろうか……いや、七海の重荷になりたくないと思ったからこそ、知りたいと思うようになった。もしかしたらそれを知ることによって独り立ちに近づけるんじゃないかと感じているからかもしれない。


「でも、どうして今まで欲しがらなかったのに急に持とうと思ったの?」


 ココアから立ち上る湯気にぼぅと視線を向けていたら、逆に七海にそう問われた。


「スマホのこと?」

「うん。今までの生活でも特に困ってなかったでしょう?」

「それはそうだけど……」


 確かに今までの生活を続けるならスマホを持っていなくても良かっただろう。個人で連絡を取るようなことはなく、ほとんどの時間を家で過ごして、連絡を取る場合も家の固定電話で不自由がなかった。けれど、独り立ちするなら個人での連絡先はどうしても必要になる。家の電話でいつも何かやっていたらすぐに七海に気取られてしまうに違いない。


「やっぱり持っていると何かと便利でしょう?」


 そんな風に言葉を濁し、果たして七海が納得してくれるかどうかと思ったが、「確かにそうだね」と彼女はどこか嬉しそうに笑った。


「お姉ちゃんとメッセージ出来ると通話より気軽だし、授業中でもやり取り出来る」

「ダメでしょう、授業中はちゃんと授業聞かないと」

「だって、授業でやることなんてほとんどやっちゃった後なんだもん。結構暇なんだよ」


 そうしゃあしゃあと七海は言ってのける。それに奏も言葉を続ける。


「ねぇ前から思ってたけど、七海ってすごい勉強出来るよね? 七海の学校、かなり難しいところなんでしょう? それなのに試験となれば上位五番以内に入るのは当たり前で、統一模試なんかでも一桁の順位に入ることもあって……」

「まぁ、それが私の唯一の取り柄だから」

「唯一って、七海はたくさん良いところがあるじゃない」

「そう?」

「明るくて、誰とでもすぐ打ち解ける。誰に対しても親切だし、社交的。だけど、冷静なところもあって、ちゃんと相手のことを思いやれる」

「あと、恋人がものすごく可愛い」


 そんなことを言う七海に「もう」と笑いをこぼす。

 こういうところも間違いなく彼女の長所だろう。彼女の軽口は人を貶めたり嘲たりするようなことはなく、話していて心地が良い。


「でもほら、咄嗟に思いつくだけでもそれだけ多くの長所があるじゃない?」

「そうでもないよ。今お姉ちゃんが言ってくれたのって全部上っ面だけでどうにか出来るものばっかりだもん。そういう意味で言うなら私は取り繕うのが上手いってだけ」

「取り繕う?」

「そ。本当の私はそんな善人じゃないよ。偽善で上辺をコーティングしてるだけ。本質的には独善的で嘘吐き。自分さえ良ければ他はどうでも良いって思ってるんだから」

「そうかなぁ?」


 言いながらココアに口をつける。

 七海はどこか悪戯な仔ネコのような目で奏を見やっていた。そういう仕草一つひとつにもどこか愛嬌がある……というのはさすがに恋人びいきというものか。


「まぁ、私もお父さんの子供だからね」

「お父さんの子供って、どういう意味?」

「そのまんまだよ。お姉ちゃんも記憶が戻ってから最初にお父さんと会った時のこと覚えてるでしょう? それに、私はお姉ちゃんがボーダーを超えてからお父さんがどういう態度を取ったのか知ってる。私の本質もきっとお父さんのそんな冷淡な性格を強く継いでると思うんだ」

「でも、お父さんも……確かに応対は堅苦しくてどこか冷たい印象があるけど、私のことはある程度考えてくれてると思うよ?」

「えぇー?」


 奏の言葉に七海は「全然同意出来ない」とでも言いたげな声を上げた。


「お姉ちゃん、それはちょっとお人好しが過ぎるよ」

「でもちょっと前には特にねだってもないのに私にパソコンを買ってくれたし」

「それはたぶん気まぐれ。パソコンでもやって時間を潰してくれてれば余計なことはしないだろう、っていう考えかな? 私が実際の塾じゃなくてタブレットを使ったネット塾で勉強してるっていうのもあるかも」

「それじゃあ今回スマホを買う保護者の同意書に簡単にサインしてくれたのは?」

「それは……確かに少し驚いたけれど」

「私は、なんとなくだけどそこまで冷たい人じゃないと思うな。お父さんも……もちろん七海だって」


 そこまで言うがやはりどうにも納得出来ないようで「そうかなぁ……?」と七海は自分のマグカップをすすった。

 でも、実際自分の感情や気持ちを伝えるのが下手くそな人というのは一定数いるだろう。他でもない、奏だってどちらかと言えばそういったタイプの人間のように自分のことを感じているのだ。

 そういう人が普段のやり取りで誤解を受けてしまうのはある程度仕方のないことかもしれない。けれど、だからと言って全てを第一印象で決めてしまうのは間違っているように思う。


「それより、七海は私はこうやって付き合ってて良いの?」

「うん?」


 先ほど七海が「ネット塾」と言ったことでふと思い至った。


「この間センター試験の対策模試あったんでしょう? それにもうすぐ学年末テスト。私なんかに付き合ってて大丈夫?」


 奏が言うと、なんだそんなこと、とでも言うように七海は息を吐いた。「別にお姉ちゃんが心配することなんて一つもないよ」と言ってコーヒーを飲む。


「勉強だけが取り柄ってさっきも言ったでしょう?」

「例えそうだったとしても、それでもこうも私に付き合わせたんじゃ心配にもなるわ。成績、落ちたりしてきてない?」

「全然。むしろお姉ちゃんが帰ってきてくれてからの方が調子良いよ。自慢じゃないけどこの間のセンターの早期対策模試は学年一位だったし、学期末テストなんて今更焦んないといけないレベルじゃないから」

「それなら良いけど……この春から三年生になって大学入試を本格的に考えなくちゃいけなくなってくるでしょう?」

「……お姉ちゃん、お父さんに何か言われた?」


 マグカップを両手に持ったまま七海が僅かに眉をひそめる。


「どうして?」

「だって、今まで特に勉強のことなんて心配してなかった……わけじゃないけど、こんなに細かく聞いてこなかったでしょう? 何か、七海の邪魔をするなとかそういうこと言われたんじゃないの?」

「う、ううん、そんなことは全然」


 慌てて奏はかぶりを振った。

 最近自分が高認試験について調べ、大学についても少し調べているから事情がわかるようになったからこそ気になっただけだった。「私だって妹の進学くらい当たり前に心配するよ。大切なことだもの」と付け加える。このまま話題を切っても変に思われそうだったし、そのまま話題を繋いでいく。


「それで、もう受ける大学は決めてあるの?」

「そうだなー、まだ最終志望ってわけじゃないけどある程度は決まってるよ」

「例えばどんなところ?」


 そう奏が問うて、七海の口から出てきた大学は国立も私立も世間で一流と呼ばれるところばかりだった。

 もっともあの成績だ。何か特殊なことが学びたいということでなければ候補となってくるのはそういった学校ばかりになるのは当然だろう。


「まぁ、最終的にどこを第一にするかとかは夏ごろに決めると思うけどね」

「でも、七海には広い未来が広がってるのね」

「そう?」

「ええ。大学に行ったら今までよりもっと多くの人と知り合って、多くのことを学ぶでしょう? そうしたら、世界はきっと今までとは比べ物にならないくらい広がるに違いないわ」


 そう言葉を締めくくった奏を、七海は少し不思議そうな目で見ていた。

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