レストランでのやり取り
高認試験の勉強は思った以上にはかどった。
二月に高認試験について調べ、実際に奏が勉強を始めたのはついこの間。
頭にある知識は中学校を終えるか高校生になったばかりのもので止まっているようだったが、それでも買ってきた参考書に書いてあることのほとんどはすんなりと頭に入ってきてくれた。もしかしたら隔離されている間も何らかの勉強はしていたのかもしれない。
奏が最初に考えていたプランでは今年は勉強に専念し、来年に高認試験を受けるつもりだったが、この分なら今年に試験を受けても案外に可能性はあるかもしれない。
元々年齢から言ったら周回遅れになっている。盛年重ねて来らず、とは言ったものだし、チャレンジする価値はあるだろう。
「………………」
しかし、それであれば早くに父親に自分の考えを言っておかなければならない。
生憎、父親にはまだ医者から社会復帰を考えても良いということも、もちろん自分が高認試験を受けて、どういった形であれ社会復帰を考えているなんてことも言っていなかった。この間は七海に「そんな冷淡な性格じゃないのではないか」と言っておきながら、いざ対峙するとなるとどこか臆病風が吹いてしまう。
いや、と奏はかぶりを振った。
時計を見やる。正午を若干すぎた頃。会社でどういった仕事をしているのかはわからないが、一般的には昼休憩がある……のではないかと思う。
スマホを取り出して電話帳を呼び出す。スマホを買った夜、一応の報告として父親に伝えたらプライベート用の携帯電話の番号とメールアドレスを教えられたのだ。対応は相変わらず淡白なものだったが、それでも最初に感じたほどの威圧感はなかった。
「……よし」
覚悟を決めて液晶をタップ。耳元に当ててコール音を聞くが、出る気配はない。
少しして『ただ今電話に出ることが出来ません。ピーという発信音の後にお名前とご用件をお話しください』という留守録の音声が流れてくる。
小さく息を一つ。緊張が心に芽吹く。しかし、ここで切っていてはいつまで経っても話を切り出せないように感じられた。
ピー、という音声の後、「奏です。少しお話したいことがあります。そんなに時間は取らせませんので、電話をください」と録音を吹きこんだ。
父親から電話があったのはその日の夕方だった。
学習机で勉強をしていたら、傍らに置いていたスマホが震えた。七海はさっき学校から帰ってきたから自分の部屋にいるだろう。用事があれば、メッセージやもちろん電話なんかではなく直接部屋にやってくるはずだ。
瞬間的に緊張し、画面を見やると案の定『お父さん』と表示されていた。
唾を飲みこんでから画面をタップして「はい」と電話に出る。
『私だ』
機械を通して聞く音声はいつもより固いものに感じられた。仕事の合間か何かにかけてきているからかもしれない。
『今しがた留守番電話を聞いたが、話したいこととは?』
「その……私の進路についてです」
『進路?』
「この前、お医者さまからそろそろ社会復帰を考えても良い頃ではないか、と言われたんです」
『社会復帰か……』
電話の向こうで几帳面そうな父が眉根を寄せているイメージが思い浮かんだ。どういった意味を持っているのかわからない息を電話の向こうで父親が吐く。
やはり機嫌をそこねるような話題なのだろうか?
言葉が止まりそうになるが、ここまで言ってしまったら戻れるものじゃない。
「それで――」
言葉を続けようとすると、それを遮るように向こうからT駅の名前を告げられた。最寄駅から少し行った先にある、ビジネス街にある大きなターミナル駅だ。
『電話でそう簡単に終わることじゃないだろう? 明日の……そうだな、昼なら多少時間をとることが出来る。十二時に駅の東口で待ち合わせるのはどうだ?』
「お父さん……」
『七海には? このことはもう話したのか?』
「いえ、話してません。七海にはこういったことであまり心配をかけさせたくなかったので……」
『そうだな。あいつも今が大切な時期だ。そうしてもらえるとありがたい。お前もその方が変に気を遣わなくて済むだろう?』
翌日、待ち合わせの二十分前に奏は言われたターミナル駅の東口に着いた。巨大なターミナル駅の中では比較的小さい出口で、正面に片側二車線の大きな道路が通っており、左右の歩行者用道路は狭い。それも一部工事をしているようで白い簡易壁の囲いがされていた。
近くにビジネス街があるからか、右に左に行き交う人のほとんどは会社員のようで、男女を問わずきっちりとスーツを着込んでいた。
十二時の十分前。
父親はどちらから来るのだろうかと奏が左右に首を振っていたが、突然一台の車が歩行者道路に寄って止まった。なんだろうか、と思うのと後部座席のドアが開いて父親が降りてくるのはほとんど同じだった。そのまま運転手と二言三言会話をして父親はドアを閉めた。
車が道路の流れに戻って走り去っていき、父親はゆっくりと奏の方にやってくる。
考えてみれば奏は父親がどんな会社でどのような仕事をしているのかも知らなかった。だが、どうやら送り向かえをしてもらえるくらいに高い立場にいるらしい。
「待たせたか?」
ネクタイの結び目に手をやった父親に、「いえ……」と奏は首を横に振った。
「行こう。先にあるビルのレストランに予約をいれておいた。そこでならある程度落ち着いて話せるだろう」
父親が言ったレストランはこの地区で有名な高層ビルの高層階に入っているものだった。一瞬普段着で来てしまって失敗したかと奏は思ったが、ランチタイムはそこまで格式ばったものではないらしく、中には結構フランクな格好をした婦人のグループもあった。
受付で父親が名前を告げると窓際の席に案内された。高いビルだけあって眼下にはビジネス街のビル群がまるでジオラマのように見える。遠くには海が見え、商業施設が並んでいる観光スポットには目玉と言える大観覧車もあった。夜には見事な夜景が楽しめることだろう。
ご用聞きのウェイターにランチメニューのBコースとやらを二人前頼む。特に何も言われなかったが、後から見ればAコースはメインが肉料理でBコースは魚料理だった。自分が肉より魚の方が好きなことをこの人は知っていたのだろうか、と思ったが、わざわざ聞こうとは思わなかった。
前菜として温野菜のサラダが運ばれてきて、それから少しすると本日のパスタとしてクリームソースにふんだんにチーズが振りかけられたペンネが出された。口にすると、なるほど、一流と言って良いだろう味だった。
「それで、進路について、と言っていたな」
パスタがだいぶなくなったところでメインの白身魚とトマトを蒸した料理が運ばれてきて、それをあらかた片づけたところで父親がナイフとフォークを置いて口を開いた。奏の分はまだだいぶ残っていたが、父親に倣ってナイフとフォークを置く。
「進路と一口に言っても随分漠然としたものになるが、奏はどう考えているんだ?」
「今のところ、就職を基本に考えようと思っています」
用意してきた言葉を口にする。
「就職とは言っても、今のままじゃロクな就職先がないだろう?」
「ええ。ですので高認試験……えっと……」
「高校卒業程度認定試験か?」
「はい。それを受けて、合格してから就職先を考えようと思っています」
それに「ふむ」といった様子で父親が眼鏡に触れる。
別に何も面接試験を受けているわけでもないのに奏は緊張した。とは言っても、この父親とフランクに会話をしているシーンというのもなかなか考えづらかったが。
「高認試験を受けて、そこからの進学は考えてはいないのか?」
核心を突かれた気がした。
眼鏡のレンズの向こうから、七海とどこか似ているように思う目が奏の考えを見透かそうとしているかのように見やってくる。
進学はあまり考えていません。
事前に、もし進学なんてことを言われたらそう答えようと思っていたのに口は動かなかった。
気がつけば、「一応進学も候補の一つにはしています」と口にしていた。
「ただ、その場合は奨学金を借りるか、バイトをして自分で稼ぎます。金銭面で負担をかけるつもりはありません」
慌ててそう付け加えると、父親はどこか不敵とも思えるような、あまり人受けの良いとは言えないだろう笑みを浮かべた。
「大学か専門学校かは知れないが、たかが学校一つ行かれた程度で困るような稼ぎだと思われているのか?」
「い、いえ、決してそういうわけでは――」
「わかっている。冗談だ」
そこまで言って奏は初めて――僅かではあるものの――父親の素の笑顔というものを見た気がした。
「それで、もし進学するとしたらどういうところを考えている?」
「それは……」
思わず言葉に詰まる。
咄嗟に頭に浮かんだのは音楽関係のものだったが、音楽関係で進学したところで就職率なんて普通の学校よりずっと低い。就職を一番に考えている癖に進学となったら不利なところに行くというのはあべこべがすぎるだろう。
結局、俯きながら、七海の志望校ほどではないが多少は名の知られた大学の名前を挙げる。
すると、それに父親はわかりきったような……そして少しバカにするような息を吐いた。
「下手な嘘を吐くもんじゃない」
「嘘って……」
奏は言葉を続けようとしたが、父親は左手の時計を見やるとウェイターを呼んだ。そして、カードで素早くカードで支払いを済ませてしまう。
「下手に勉学をしたところで、ましてややりたいと思わない仕事を目指したところでやる気など起こらないだろう? ボーダーを超えてしまったら再び隔離されるんだ。どうせなら自分の好きなことをするべきじゃないのか?」
「お父さん……」
「就職しようが進学をしようが、そして、それにどういった学校を選ぼうが私は文句は言わん。怠惰や遊惰からくるような考えであれば叱責の一つでもするつもりだったが、お前の様子からするとそういう気持ちとは無縁のようだからな。……前に言っただろう? 保護者として最低限のことはしてやるつもりだ」
そこまで言って父親が立ち上がった。奏も慌てて立とうとしたが、それは手で制された。
「まだ料理も残っているし、デザートもある。私は時間の都合でもう行かなければならないが、お前は十分に味わっていけば良い。ここのデザートは悪いもんじゃない」
黒のビジネスバッグを持って、「また何かあれば電話をしろ」と言って去っていく姿を奏は少しの間狐につままれたような心境で見やっていた。七海よりかは父親のことを悪く思っていなかった奏だったが、そんな奏でも少しだけこれだけのことを許されるとは考えてもいなかった。
三種のデザートが乗せられたプレートは、なるほど、確かにおいしいものだった。
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