特定犯罪指数
それから七海は奏と少し距離を置くようになった。
残された時間を有意義に使おうなんて考えはとても出来ず、大好きな奏が遠くに行ってしまうという事実に心が押しつぶされそうになっていた。
そんな七海の態度の変化も奏には「仕方のないこと」と思われているのか、奏の普段の生活には一切の変化がなかった。それがまた一段と七海の心に暗い陰を落とした。
だが、悪い意味で物事はその通りにはならなかった。
年が明け、受験を控えた直前の定期検診で奏の特定犯罪指数が突然ボーダーを大きく超えた。
特定犯罪指数。
三十年近く前に官民一体で研究がなされて発表されたこの指数は、当初は世間にとても受け入れられなかった。
あるテストを受けさせられ、数値がある一定のラインを超えたら『犯罪者予備軍』として社会から強制的に隔離される。
人権という言葉を少しでも知っているのならこれがどれほど理不尽で危険極まりないものかはわかるだろう。
存在していた人権団体のほとんどは一斉に非難の声明を発表し、明日自分が『犯罪者予備軍』とされるかもしれないと危機感を抱いた人たちは各地でデモを起こした。国際世論だって黙ってはいない。この横暴な数値をそれまで起こされてきた戦争犯罪と並ぶ暴挙だと非難した。どれだけ研究段階において実際に捕まっている犯罪者がこの数値を超え、一般人は数値を下回ると言ったって理解する人はほとんどいなかった。
しかし、それでも国は全ての反対意見を押し切り、この指数のテスト運用を強行した。そして、一年二年……五年が経つ頃には社会の情勢は徐々にではあるが変わっていった。テスト運用が開始されてから実際に犯罪の数は減少……特に殺人を主とするような凶悪犯罪は大幅な低下を見せた。
一つ二つ、少しずつではあるが特定犯罪指数が確かに有用であるとする論文が発表され、七年が経った時、特定犯罪指数を危険視する声の方が少数派に転じた。
それから社会にこの指数が受け入れられるようになるのには大した時間はかからなかった。
厳密に言うなら、どういった仕組みでそうなるのかは未だにわかってはいない。
だが、特定の質問をし、その答えをコンピューターに試算させ、一定の数値を超えた人間は遠からずの内に重大な犯罪に手を染める可能性非常に高くなる。それは紛れもない事実だった。
そして、いつしか『特定犯罪指数』は老若男女を問わずの絶対の法となった。
「ダメだ、誰も彼も聞く耳すら持たない。それはお気の毒に。そう言われるのがせいぜいだ」
もちろん奏の特定犯罪指数がボーダーを超えたことに両親が異議を唱えなかったわけじゃない。
奏は学校で問題を起こしたことはもちろん、非行をしたなんて一度もない。そんなうちの子がボーダーを超えるなんて何かの間違いだと最初は両親も声を上げた。
母は学校で嘆願書を集めるのに奔走し、父は自身の持つ立場とコネクションをフル活用しているようだった。一流企業の出世コースに乗っていれば多少は世の中の大物と知己になる。それをどうにかつたっていって、政財界や官僚の重鎮と呼ばれる人間にもコンタクトを取ったらしかったが、それでも特定犯罪指数の結果を覆すのは無理な相談だったのだろう。もし指数を隠蔽したり改ざんしたりした後に犯罪が起こったらどう責任を追及されるかわからない。誰も特定犯罪指数にはなるべく距離をおくようにしていた。それは母親の嘆願書の集まりの悪さから言っても明らかだった。
だが、そんな両親とは対照的に奏は落ち着いていた。
「健診でそういう結果が出たんだから、きっと私の中には何か重大な欠陥があるんだよ」
元々こうなる運命だったに違いない。奏はそんな風に悟っているような雰囲気だった。
天咲さんのところの上の娘さんがボーダーを超えたらしい。
その噂はすぐに近所に伝わった。人の口に戸は立てられぬ……それとも悪事千里を走る、と言った方が良いだろうか? 最初は姉を守るように動いていた両親も世間の圧力に屈するかのように態度が変わっていくのを七海は目の当たりにした。特定犯罪指数は遺伝によるものじゃないか、という説は全く根拠がないものの今も根強く残っている。そうなるとどうしても家族に対してもそういった目が向けられるようになった。
ほどなくして父親に長期の海外出張の話が入った。
それまで再婚同士で仲睦まじくやっていた両親は奏のボーダー越えによって僅かではあるが亀裂を生じさせており、海外出張をほとんど相談なく父親が決めたことによってそれは決定的なものになった。深夜、両親が激しい言い争いをしているのを七海はベッドの中で何度か聞いた。
結局、奏が施設に隔離されるより先に父親は逃げるように海外へと単身赴任した。それを機に母親は尋常じゃない量のお酒を飲むようになった。死ぬきっかけになった病気も多量の飲酒からだった。
奏の『ボーダー越え』はそうやっていとも容易く七海の家族を壊した。
いや、元々歪なピースを寄せ集めて作られたような家族だったのかもしれない。そのつなぎ目に「特定犯罪指数のボーダー」というくさびが打ち込まれ、瓦解させたに過ぎない。七海にとってはそれが正しい認識だったように思えた。
奏が隔離される日、母親は大して必要でもない遠出の用事を入れて見送ることをしなかった。七海だけが学校を休み、奏を連れていくためにやってきた職員たちの応対をして、彼女を見送ることになった。
しかし、その時にあっても七海はどうしたらいいかわからなかった。
こんなことで別れたくない。けれど、何も出来ることがない。出来ることなら自分も奏と一緒に連れていって欲しい。特定犯罪者予備群の烙印を押されても良いから奏と一緒にいたい。
そんな気持ちばかりがぐるぐると渦巻き、きっと沈んだ顔をしていたのだろう。
護送車に乗り込む前、奏は七海に言った。
「七海。もう私のことは忘れた方が良い」
「お姉ちゃん……」
「七海には姉なんて最初からいなかった。ね? 元々三年前にはいなかったんだもの。そのくらい簡単でしょう?」
「お姉ちゃんはそれで良いの?」
その問いかけに小さく奏がハミングする。それはよく奏がフルートで吹いていた曲だった。
ワンフレーズ歌い終わってから彼女は微笑んだ。
「じゃあね、七海」
その言葉を最後に奏は護送車へと乗り込んだ。
結局、彼女は音楽を愛し、音楽に愛された人間だった。
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