定期健診

 父親は別にそうだと知っていっていて言ったわけではなかっただろうが、翌日は定期的に検査を受けている病院の日だった。

 いつもより少し早めにセットした目覚ましで奏が起きていくと七海はすでに朝食のパンを食みながらおざなりに新聞に目を通していた。

 寝間着から着替えているものの、あくまで普段着で学校に行くような雰囲気はこれっぽっちもない。おそらく今日も奏の病院に付き合う気なのだろう。


「お父さんは?」

「知らない」


 あまりにも素っ気ない返答に奏は思わず笑ってしまった。


「私が起きた時にはもう出かけてた。仕事人間なんだよ。昨日は父親としてのことはする、みたいなこと言ってたけど、本当は家族のことなんて全然興味がないんじゃない?」


 それには何も答えず、奏はトースターに食パンを一枚セットした。



 最寄駅からターミナル駅で電車を一度乗り換え、目的の駅で降りてそこからさらにバスで行ったところに奏のかかっている病院はあった。

 予約は午前で、大抵は検査をまず受けるのだが、病院として気になることがある時には先に春日と面談することもあった。

 ただ、今日はそういったことはなかったようで、奏は流れ作業のように検査を受けていき、最後に特定犯罪指数測定のためのテストを受けた。問いかけられる質問は多岐に渡っていて、傾向もなければ単なる雑談のようなものまである。


『現在あなたはものすごくのどが渇いています。目の前にはA:普通の水とB:炭酸水があります。あなたはAとBのどちらを飲みますか?』


 もちろんダミーとして意味のない質問も組み込まれているのかもしれないが、それにしては全体の三割ほどがこのような意図のつかめないものだった。

 これで本当に犯罪を犯す人間がわかるのだろうか?

 奏も不思議に思うのだが、実際世の中ではそれが大きく役立っているという。

 全ての検査とテストを終えて脳神経科の待合室に戻ると、七海はポケットサイズの英語の参考書を開いていた。

 七海が秀才という言葉では収まらないほど勉強が出来ることを奏はすでになんとなくではあるが気づいていた。

 別に彼女が自分の成績を自慢したり誇ったりしたわけではない。

 それでも彼女の明るさの後ろからたまにひょっこりと顔を出てくるような知的な物言いは彼女の聡明さを感じさせたし、前に一度、偶然七海の部屋で奏は彼女の模試結果を見たことがあった。何の価値もない紙切れのように机に無造作に置かれたそれには県内六位という驚きの順位が書かれていた。


「お姉ちゃん」


 奏が出てきたことに気がついて七海がパッと表情を明るくする。


「もう検査終わり?」

「うん、後は結果が出るの待って、先生と話して終わりかな? いつも通りだね」


 結果が出るまでいつも一時間ちょっとの時間がある。

 七海は参考書を鞄の中に放り込んで立ち上がった。

 この待ち時間はいつも病院に作られた食堂で時間を潰すのが常だった。検査が終わるのは大抵昼過ぎで、ランチを食べながら結果が出るのを待つのだが、最初の頃はこの時間が恐ろしかったのを奏はよく覚えている。

 もし特定犯罪指数がボーダーを超えていたらどうしようか?

 今日すぐにでも隔離されるようなことになるのではないか?

 記憶と引き換えにするように手に入れたこの生活を失うのではないか?

 その不安を七海に話したこともあったが、七海はいつも「大丈夫だよ。入院中に指数が超えたこともなかったんだから」と励ましてくれた。

 そして、実際その心配は全て杞憂になり、検査後の春日との面談でも「数値は変わらず安定しています」と底意のない笑顔で言われるばかりだった。

 むしろ春日は奏の記憶が戻らないことを気にし、それを奏自身も辛く感じているのではないかと思っていたようだったが、奏にとっては今の生活は幸せなものだった。

 少なくとも――それがどんな生活であったか記憶にないにせよ――『ボーダー超え』として社会から隔離された生活を送るより、優しい七海と過ごす毎日の方が良いものに違いないと感じていた。


「ねぇ、今日の帰り、映画見て帰らない?」


 ランチを食べ終わり、スマホをいじっていた七海が不意に言った。


「映画?」

「そう。この間遊びに行った近くに映画館あるでしょ? 始まる時間調べたらちょうどいい時間に始まるのがあってさ」

「もしかしてこの前七海の友達が見たっていう?」

「そうそう。今そこらかしこで話題になってるでしょう? 実際面白いらしいし、たまにはそういう息抜きも良いかな、って」

「そうだね、病院が終わる時間にもよるけど、時間が合えば見ても良いかも」

「やった。それじゃあこの後はお姉ちゃんと映画館デートね」


 冗談めいてそう言った七海に奏は「もぅ」と僅かに頬が熱くなった。

 七海から恋人同士だったと聞かされた日から七海との関係は少し変わっていた。

 簡単に言うのであれば、ただの姉妹から恋人らしい仕草が増えた。

 とは言ってもキスをしたり身身体の関係を持ったりしたわけではない。けれど、スキンシップは明らかに増えていた。

 七海はじゃれ合うのが好きなようで、ことあるごとに奏に触れた。

 手を繋ぎ、指を絡め、頬を撫で、まるでマーキングするように奏の身体に自分を押しつける。

 それはまだ大人になりきっていない仔ネコがじゃれるかのようだった。そして、奏もそんなスキンシップが嫌いではなかった。

 食堂から脳神経科の待合室に戻る。

 決して立地的に便利と言える場所にない病院だったが、閑散としているところは見たことがない。ここが指定入院医療機関というものになっているのと関係があるのかもしれない。

 この中には特定犯罪指数のボーダーの境にいたりするがために病院にかかっている人がいるのだろうか?

 ふとそんなことを奏は考えたが、どの人を見てもとても凶悪な犯罪を犯すような人には見えなかった。もっとも、見てわからないそれを客観的に選別出来るから特定犯罪指数が重用されているわけではあるが。

 待合室に戻ってから二十分かそこらで奏は診察室へと呼ばれた。奏は「一緒に来る?」と七海に聞いたが、彼女は「ううん、待ってる」と言った。このやりとりもいつものことで、七海は奏の検査結果を一緒に聞こうとはしなかった。面倒くさがっているというわけではもちろんないだろう。たぶん彼女なりの一種の気遣いなのだ。

 中に入ると、春日が変わらない温和な表情を浮かべて座っていた。挨拶を交わして丸椅子に座る。


「どうですか、具合の方は?」


 この聞き方もいつもと変わらない。


「悪くありません。体力もちょっとはついてきたみたいで、以前のように疲れやすいということもなくなって……」

「それは良かった。身体が弱るとどうしても心の方にも影響が出てしまいがちですからね。と言うことは、日常生活は特に問題なく送れている、ということで良いですか?」

「そう言って良いと思います。色々なことにも慣れてきて、これが当たり前の日常なのかな、って思えることも増えました。料理なんかも、妹に教えてもらってちょっとずつ作ってみたり……」

「良い傾向ですね」


 言いながら何かをカルテへと書きこむ。

 そして、机に置かれたパソコンを操作して、「肝心の指数は……少し上昇してるけど、まぁ問題ないでしょう」言った。


「少し上昇してる?」


 奏はピクリと反応した。

 入院中、そして退院してからも何度も検査をしてきたが「上昇してる」というのは今までに言われたことがなかった。


「それは、家で過ごすことで悪影響が出ている、ということでしょうか?」


 やや早口に問うと、春日は柔らかい表情のまま「いやいや」とかぶりを振った。


「一応報告する義務が医者にはあるから言いましたけれど、実際これは珍しくもなんともないんですよ」

「と、言うと?」

「人間は誰しも普通に生活しているだけで特定犯罪指数は上昇すると言われているんです。余計な不安をふりまきたくないからか、あまり一般的には知られていないことですけどね。それを人は各々の形で発散させていると考えられているんです。この原理はまだ解明はされておりません。なので、天咲さんの現在の数値を特別注視しなければいけないかと言ったらそんなことはないんです。個人的な印象になってしまいますが、今の生活が悪いとは私は思いません。コンピューターの予測でも次回は下降すると出ていますし」


 それに奏は安堵の息をもらした。

 まだほとんど具体的なものはないとは言え、七海と恋人になってから指数が上昇したとなるとどうしても気になってしまう。

 七海は勘の鋭いところがある。そういった余所余所しさにはすぐに気がつくだろうし、それは彼女に余計な気を遣わせてしまうことになる。


「それで、記憶の方に変化はありますか? 些細なことでも何かを思い出したりとか」

「それについてはさっぱりです。前の自分がどうだったのか、ということは妹から少しずつ教えてもらってますけど、それじゃあそれが記憶として戻っているかと言われると……」

「実感がない?」


 はい、と奏が返事をし、春日はカルテに再び何かを書きこむ。


「それ以外に何か変化は?」

「特に――」


 ありません、と続けようとしたところで、「あっ」と奏は一つのことを思い出した。春日がカルテを見やっていた目を奏へ向けた。


「……昨日、父が帰ってきました」

「お父さんと言うと……海外に出張している、と前に言っていましたか?」

「はい。そうなんですけど、なんでも、会社の関係で急に呼び戻されたとか……」

「なるほど。今の天咲さんにとっては初めて会う感覚だったと思うんですが、どんな感じでしたか?」


 その質問の答えに少し悩む。

 が、今更取り繕っても仕方がないだろう。奏は思ったことを口にすることにした。


「正直、あまり好意的……という風ではありませんでした」

「ふむ……」

「あの、私は亡くなった母の連れ子なんです。それも関係しているのかもしれません」

「連れ子?」


 春日は「おや?」と言った様子でそれまでのカルテを少しさかのぼるようにめくった。しかし、そんな情報はどこにも書かれてないだろう。奏だって知ったのはついこの間だし、春日に話したことはなかった。


「父と母は再婚同士らしくて、私は父とは血が繋がっていないらしいんです。逆に妹は父の連れ子なので、私とは血が繋がっていません。……すいません、今更になってこんなこと。私もつい最近知ったばかりで」

「いえいえ。と言うより、そんなこととなるとむしろ天咲さんの方が混乱したんじゃありませんか?」

「それは……はい。混乱しなかったと言ったら嘘になります」

「それじゃあ、それが今回の指数の上昇に繋がった可能性もありますね」


 腑に落ちたという様子で春日が再度カルテにペンを走らせる。


「それで、お父さんはあまり好意的ではなかった?」

「あくまで私がそう感じただけです。ボーダーを超えた人に対してはあれが普通の対応なのかもしれません」

「まぁ、その辺は一概には言えませんね。接し方は人それぞれ……と言うとひどく曖昧な表現になってしまいますが。それより、やはりそういう対応をされて辛かったですか?」


 その問いかけに奏は「いえ」とすぐにかぶりを振った。


「正直、辛くはありませんでした。むしろ……その時妹も一緒にいたんですが、妹が父に対して怒ってくれて……そっちの方が嬉しかったと言うか……」


 そこまで言って何を惚気たようなことを言っているんだ、と思って奏は顔を伏せた。もしかしたら顔が少し赤くなっているかもしれない。


「なるほど。妹さんが」


 しかし、春日はそんな奏の様子には気づかなかったようで、何度か小さく頷くだけだった。再びカルテに何かを書いて、


「とにかく、今回も大きな変化はなく、ということで良いでしょう。記憶に関しては何とも言えませんが、ボーダーを超えるような気配がないのは良いことです」


 と話をまとめた。

 そして、最後におまけのように、「しかし、天咲さんの妹さんは本当に良い妹さんですね」と朗色を浮かべ、奏はそれに「ええ。私にはもったいない妹です」と僅かにはにかんだ。

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