アイスコーヒーが溢れる時。

「ねぇ。先生」


「ん?」


「わたしのこと、嫌いになった?」


 先生は口を開いて何かを言いかけた。


「あ!やっぱり言わないで。……いいの。嫌いでも。わたしが先生を好きだから……」 


 わたしがそういって先生の肩におでこをくっつけると、先生は悲しそうな顔をしながら頭を撫でてくれた。



 わたしは高校に入学したその日から先生の事を好きになった。


 白髪混じりの髪が実年齢よりも上に見せていて、それでも背筋がピンと伸びて姿勢のいい後ろ姿が印象的で、そこには潔癖さまでもが見えるほどだった。


 その時、わたしの中に今まで感じたことのない何かが込み上げてきて鼓動と共に波打っていた。

 

 黒板に文字を書くその手に見とれ、時折窓の外を見る横顔にも見とれた。


 わたしは自分の今しなければならないプリントさえも忘れて先生から目を離せずにいた。

 

 嘘みたいに先生へと落ちていたのだ。

 

 先生はわたしの視線に気付き、「プリントを見なさい」と口パクをして机を指差した。


 その時の先生の顔を今でも忘れられない。

 

 可笑しそうに微笑んでいて、それはとてもとても優しい表情だった。


 

「午後の授業になるとね、先生のその左手の指輪がたまに光るの。午後の日差しで。知ってた?」


「さぁ」


「意地悪な日差しだって思って、午後になると毎回カーテンを閉めてたんだよ。わたし」


 先生は黙っていた。



 高校を卒業した後、20歳の誕生日にわたしは先生に連絡をした。

 

 相談があると嘘をついて。


 喫茶店に来た先生は、すこし砕けた顔を見せてくれるのかなと思ったけれど……変わらず教師としての顔でわたしに「矢崎、久しぶりだな。元気だったか?」と訊いた。


「で、どうした。大学で何かあったのか?」


 先生の教師でいる表情が好きだった。

 教師としてしか、わたしを見ていないところも含めて好きだった。


 わたしは頼んだアイスコーヒーを飲むでもなく、やけに沢山入った氷をストローでカラコロと音を立てながら、ただかき混ぜ続けた。


 いつしか混ぜても混ぜても氷の音は聞こえなくなっていた。


「黙っていては分からないよ。先生に出来ることなら力になるから話してみなさい」


 わたしは30分以上も何も話さずに黙っていた。


 その内、先生は困り果てて窓の外に目をやった。


「あ、それ」


 ようやく口を開いたわたしに先生は驚いて、すぐに反応した。


「ん?何か話せそうか?」


「……先生。先生にどうしても見て欲しいものがあるんです。一緒に来てもらえませんか?」


「いいけれど、ここには持ってきていないのか?」


「ここだとダメなんです。お願いします」


 氷の溶けたアイスコーヒーは、一口も飲んでいないせいでコップから溢れそうになっていた。



 わたしはとても真面目な生徒として信用されていた。先生が顧問の部活に入り、先生の言うことは何でも聞いたし、それでいて恋愛感情なんてそぶりは一切見せなかった。

 

 だから、こんな無理なお願いも余程の何かがあるのだろうと思って着いて来てくれたのだと思う。じゃなければ、先生が一人暮らしの元女生徒の部屋に入るなんてことは絶対にしなかったはずだ。


 先生はわたしに騙されたのだ。


 そして、今わたしのベッドの隣で裸で横になっている。


 最初はわたしが服を脱ぐ度に必死で止めていた先生も、途中から裸で泣くわたしを慰めるように抱きしめてくれた。


 知っている。

 先生がわたしを生徒としてしか見ていないことも、教師という仕事に誇りを持っていることも、何より家族を大事にしていることも。


 知っていて、わたしは先生を奪ったのだ。


 1日だけ……ううん。

 この数時間だけでいい。

 全てじゃなくていい。

 先生のほんの欠片でいい。

 今だけでいいからわたしに欲しい。

 

 でも、どんなに身体を重ねたところで、好きな人に求められないキスをすること、繋がること、それは虚しいものでしかなかった。

 

 先生は泣きながらするわたしを不憫に思ったのだろう。もしくは、この状況を諦めたのかもしれない。


 途中から、ちゃんとわたしを抱いてくれた。

 その時、先生は初めて教師ではなくなった。


 先生がわたしに触れるその手も、唇の温度も、息遣いも、全てがわたしの知らない先生だった。


 そんな最中で何故かわたしはさっきの喫茶店でのアイスコーヒーが気になった。

 

 溢れ出してこぼれているアイスコーヒー。


 それは先生の温度を感じながら、今わたしの気持ちの様に溶けて溢れ出している状況と重なって思えた。



「先生、先生、ごめんね。でもね、好きなの。わたし先生をただ好きなだけなの。ごめんね」


 わたしは先生の首に手を回しながら、声を出す代わりにずっと「ごめんね」と謝り続けた。


 罪悪感が混ざったセックスでも終わったあとには親密な気持ちになれた。先生にベッタリとくっついて甘える様に腕を絡めた。


 先生も、もう全てを許してくれている様に(もしくは諦めたように)絡めた腕から手を繋いでくれた。


 そして、天井を見ながらポツリと言った。



「矢崎……。矢崎がもっと大人になった時、君は先生の事を最低だって思う日が必ず来ると思うよ」


 

 その時は先生の言っている意味が全然分からなかった。この時間だけと分かっていながらも、とても満たされた気持ちになっていたのだ。


 わたし達はその後もう一度セックスをした。


 そして、それ以来先生に会うことはなかった。

 

 




 今、わたしはまたアイスコーヒーをストローでぐるぐるとかき混ぜながら、氷のカラコロという音を聞いている。

 

 先生はもうそこにはいない。


 目の前にいるのは若い女の子と浮気をして、わたしに頭を下げて必死に謝っている夫だった。


 わたしの事を「愛してる」と言っていた夫。

 実際、愛されていると思っていた。


 


 今、先生の言っていた意味がやっとわかった気がした。


 先生、ごめんね。

 でも、先生は最低なんかじゃない。


 最低なのはわたし。

 自分の気持ちの為に大好きな人を酷いやり方で汚して傷つけたのだ。


 先生はわたしを憎んでいるだろうか。

 憎んでいないといいなと自分勝手にそんなことを思った。


 わたしは窓の外を眺めた。

 目の前のひとのことよりも、先生の事を思って。


 窓の外を見る先生の横顔が大好きだった。生徒としてしか扱ってくれなかった潔癖な先生が大好きだった。


 1度だけ見た、教師じゃない表情の先生も。

 わたしを悲しそうに抱いてくれた先生も。


 全部全部大好きだった。


 それなのに大好きな相手の大好きな部分をわたしが壊してしまったのだ。


 

 ふと目の前のアイスコーヒーを見ると、氷は既に溶けきっていた。


 でも、溢れてこぼれたりなんかはしていなかった。


 

 あぁ、溢れることはないんだ……。


 

 

 それを見て、わたしの中にも溢れ出すほどの何かはどこにもないんだと知ってしまった。


 

 先生、わたしはこの先どうしたらいいんだろう。


 

 先生に届くあてのない言葉をわたしはいつまでも語りかけ続けた。


 


 



 


 


 


 

 


 



 


 

 

 

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