砂糖の海。

 「このコロッケ甘くない?」


 彼が言った。


 

 夕暮れ時の商店街は美味しそうな匂いと秋の匂いが入り混じっていて、ふんわりと持ち上がる気持ちとぎゅうっと心を掴まれる様な切なさがあった。

 

 この季節の私は、いつもどこか遠くに流されてしまいそうで不安になる。でも、本当はそれを心のどこかで望んでいる自分に気づいてしまうことに、不安になるのだ。

 

 それでも私は今日がやけに愛おしかった。

 

 さっき商店街のお肉屋さんで夕飯にコロッケを買ったことも。鼻歌交じりにキャベツを千切りにすることも。

 

 なんでだろう。その全てがいつもよりも愛おしい。


 そんな理由の分からない気持ちを抱えつつ、胡瓜と茄子にシソを少し入れた浅漬けを作って、お味噌汁はきのこをたっぷり入れたものにした。それでも彼は何か物足りないと言いそうだったので、マカロニサラダも作っておいた。


「これで良し、と」


 ひと段落つき、窓を開けて、夜になりかけているひんやりとした空気を胸いっぱいに吸い込んだ。

 この時間になると少し肌寒いくらいだったけれど、今日一日の疲れが少し冷やされていくみたいで心地よかった。


 行きの電車でたまたま聴いた音楽がすごく良かったことや、お昼に後輩の女の子から聞いた噂話、会社の窓から見えた午後の空に風に流されていた赤い風船の行方。

 

 そんなたわいの無いシーンが一日のハイライトの様に思い浮かんだ。




「このコロッケ甘くない?」


 私は彼の顔ではなく、コロッケを見ていたので何も気づかずに良い意味として捉えていた。


「そうそう!お肉屋さんの甘いコロッケって、たまに食べたくなるよね。今日の帰り道は、なーんか気分が良くって、」


「ご飯に合わなくない?」


「え?」


 思いもよらぬ言葉に一瞬で私の空気が止まった。


「おやつっぽいっていうかさ、おかずにはならないでしょ」


「そう、かな」


 私はこの甘めのコロッケが好きなのだ。


「何か他にない?」


「冷凍のギョーザとかなら」


「あぁ、それがいいな」


「……焼くからちょっと待ってて」


 

 フライパンで焼かれていく冷凍のギョーザを見つめていると、商店街で感じた秋の匂いや、さっきまでの冷たい空気で冷やされていく心地よい今日の感覚が全て消えていく気がした。


 その時、ふとキッチンにある砂糖が目に入る。

 

 その砂糖の中に私はどんどん埋もれていった。甘くてベタベタして息苦しくて、砂糖の中でもがいて溺れている。そんな間も彼は何か話していたけれど、途中で全く聞こえなくなり、視界も真っ暗になった。



 ピーピーピーピー。

 ガスコンロの焦げ防止の警告音が聞こえる。


「なんか鳴ってるけど大丈夫?」


 砂糖の海は一瞬に消え、ギョーザが焼かれている現実に引き戻されいた。慌てて火を止めると、ギョーザは少し焦げただけで済み、無事に皿にうつして食卓に出せた。

 

 すると、彼は小皿に醤油を入れ、満足そうにギョーザを食べた。その一連の様子を見守って、私はやっと安心してコロッケを食べられるのだ。


 けれど、コロッケはどこにも無かった。

 キャベツだけがざわざわとお皿の上でまるで言い訳でもしたげにそこにいる。


「あれ?コロッケは?」


「あー、お腹空いてたから食べちゃった」


「四つも!?だって、甘いとか文句言ってたでしょ」


「文句って大袈裟な。ちょっと甘いねって言っただけだよ。コロッケくらいでそんな怖い顔しないで。ほら一緒にギョーザ食べようよ」


 

 さっきの一日のハイライトがまた私の脳裏に浮かんだ。あの風船はどこに飛んでいったのだろう。


 

 気がつくと私は彼を見ながら砂糖の中にどんどん沈んでもがいて溺れていく姿を思っていた。



「大丈夫。愛おしい気持ちをそのままに出来るから。それにここよりもずっとあったかいの」


 

 そう言って、私はキッチンへと向かった。

 

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