無味無臭の海老グラタン。
たまたまだった。
いつもは職場の中にある社食で、ランチを食べることの方が多い。何人かで昼休憩をとれるほどには人手がないテナントで働いている私のランチはいつだって一人だった。
他のテナントで働く全く知らない人達の中にいながらも、社食というのはやはり職場であって、寛げない場でもあった。特にミスなんてしてしまった日には職場とは少しでも離れていたい。
その日私は社食には行かず、制服のまま職場から少し歩いた場所にある喫茶店でランチを食べることにした。
この喫茶店は夜の仕事終わり、同僚と来る時にはお酒を飲むことも出来た。それでいてお昼に来ると昔ながらの純喫茶という感じがして、私にとっては職場から離れたい時に来る避難場所の様なところでもあった。
この時間に来ている人のほとんどが一人であり、二人席でも椅子の方ではなく、長く一本道の様に続くソファーの方に座って本を読んだり、仕事をしたりしていた。
私もいつもの様にソファー側に座り、海老グラタンのランチセットを頼んだ。
たまに職場が息苦しく感じることがある。
今回はミスをした訳ではなかったけれど、誰かがやらなければ終わらない雑務のあれこれをすることや、何かにつけて頭を下げて謝り続けることに疲れていたのだ。
ランチが来るまでの間、肩の力を抜いてぼんやりと窓の外を眺めていようと思った。スマホを見るわけでもなく、何を見るわけでもなく、ただぼんやりとしたかった。
……でも、その時間はものの数分で終わった。
隣の席に座っている男性が何かを書き続けている(書きなぐっているに近い)音がやけに気になったのだ。
私は海老グラタンより先にきたアイスカフェオレをストローで飲みながら横目で気づかれないように、その人が一心不乱に書き続けている手元をこっそりと見てみた。
すると、驚くほど早く綺麗な文字で何かを書いていた。綺麗な文字だということまでは分かっても、内容の全てまではさすがに読めなかった。
けれど、「申し訳ありませんでした」という一文だけはしっかりと見えた。
あぁこの人も何かを誰かに謝る為に、今こうして書いているんだ……と思った途端、急に親近感が湧き、私は背もたれに深く寄りかかった。
その一本道の様な長いソファーは地続きのように続いている為、隣の人とも距離が近い。
(一文を盗み見することが出来るくらいに)
だから、いつもならこの席に座る時は背もたれに深く寄りかかったりはしない。それは背もたれ越しの振動から何かしらかの温度が伝わってしまう気がして落ち着かないからだった。
けれど、その時はまるで隣のその人に振動と共に何かが伝わればいいのに……とさえ思い、むしろそっちの方を期待して、背もたれに深く寄りかかった。
そうしたことでさっきまでの張り詰めていた気持ちがほぐれて、私はほんの少しだけ息がしやすくなった。
その人の書く文字の音も心地よく感じた。
でも、私のランチセットがくるのと同時にその人は書いているものが終わったのか、慌てて席を立ちレジへと向かった。
私はその時、初めてその人の姿を目にした。
さっきまでは彼の書く字と手元をこっそり見ることしか出来なかった。字と同じくらい手元が綺麗だったことで私の心は余分に動いていた気がする。
でも、今会計を済ませているスーツ姿の彼を見ると字や手の綺麗さのイメージとは違い、しゃんとした感じは全く無く、焦っていたせいか財布から小銭が落ち、あちこちに散らばった。
しゃがんで店員さんと一緒に小銭を拾う彼は「すみません」と何度も言って、恥ずかしそうにしていた。
そんなドタバタの中、店を出ていった。
彼がお店からいなくなると、私の中にはポカンとした空虚の様な時間だけが残った。
それは寂しさに近い感情なのか、海老グラタンを食べながら考えてみた。
彼の書くキレイな字や手元。
その後のドタバタした感じ。
気がつけば海老グラタンは機械的に口に運ばれて飲み込んでいるだけで、脳内はさっきの一つ一つをひたすらリピート再生している。
ただ、食べ終える頃には私は職場での疲れをすっかり忘れていた。
私が誰かに頭を下げる様に、他の誰かにもそうして欲しいなんて思ったことは一度も無い。かと言って私だけが頭を下げ続けるのだとしたら、それはそれで納得はいかない。
私はそんな小さな人間だった。
それでも……いやだからと言うべきなのだろうか。
さっきの彼の書いた「申し訳ありませんでした」には、彼の手に私の手を重ねて「あなたは悪くない」と言いたい衝動にすら駆られたのだ。
出会った瞬間から私は彼の味方だった。
この事実に辿り着いた時、私はぞっとした。
それは何も知らない初めて会った人に思う感情ではない。私は私が何だか怖くなり、足早にその店を後にした。
「ねぇ、今日の社食のAランチって何だった?」
職場に戻ると、私と入れ替わりで昼休憩に出る同僚が楽しげに話しかけてきた。
「あぁ、ごめん。今日は社食で食べなかったの」
「そうなの?じゃあ何を食べてきたの?」
私はその質問に少し考えてから答えた。
「無味無臭の海老グラタン」。
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