ホットミルクとコーラ。
前の彼はわたしが夜眠れないと言うと、小鍋で牛乳を温めてホットミルクを作ってくれる様な人だった。
寒い日には毛布を1枚多く掛けてくれたり、暑い日にはアイスノンをタオルで包んだものをわたしの頭を優しく持ち上げて敷いてくれた。
とにかく優しい優しい彼だった。
わたしは彼に何を返せばいいのだろう。
いつからか、その優しさに応える方法ばかりを探す様になっていた。彼の優しさが息苦しくて、優しさというものがわたしにはわからなくなった。
まさか優しさの重量に埋もれて身動き出来なくなるなんて。
わたしが求めていたのは泣きたい時に思いっきり泣ける場所。その時のわたしにとって一番欲しいものはそういうものだった。
どうしてか、わたしは彼の前では泣けなかったのだ。泣いたら抱きしめて優しさの限りを尽くしてくれたかもしれない。
それなのに、泣けなかった。
優しいって、
優しさって、
何なのだろう。
わたしにはどんどん分からなくなった。
「おかえり」
今の彼はわたしが働いて帰ってくると、こちらを見ることも無くゲームをしている。彼はたまにしか働かない。
生活費は入れなくてもお金をせびることはしない。彼の中のわたしへのギリギリの礼儀がそれなのかもしれない。
わたしが眠れないと言ったところで「大変だね」と他人事として言うだけだし、家に居ても家事をするわけでも無かった。
けれど、わたしはゲームに夢中の彼の背中に顔を埋めて泣くことが出来た。
でも、彼は優しく抱きしめてなんてくれない。
ただただ、彼はそこに変わらずいるだけだった。
わたしがいようがいまいが、彼はただいるだけなのだ。
「意味もなく悲しくなるの」
「……」
「自分でも分からなくて、それが苦しくて」
「……いつも?」
ゲームの画面を見ながら彼は訊いた。
「ううん。いつもじゃない。でも、どんなに楽しくしていても、そんな日は必ずまた来るの」
「ふうん」
彼のシャツの背中がわたしの涙で濡れていく。
「そういう時ってどうするの?」
「……過ぎるのを待つだけ」
「ふうん」
「ふうん」だけしか言わない彼にわたしの涙がどんどん染みていった。
「過ぎてった?」
泣き出して、一時間が過ぎた頃にわたしの涙は枯れてしまった様に突然止まった。
彼は変わらずゲームをしていた。
「……うん。行っちゃった」
わたしの返事を訊くと、彼は急に立ち上がって冷蔵庫から500mlのコーラを取り出し、「はい」と言って目の前に置いた。
「……ありがと」
それは彼が少しのバイトで買ったコーラだった。
わたしがそのコーラのキャップを開けて、ひと口飲むと喉が焼けるくらいの炭酸で涙の味が一瞬でかき消された。
彼はわたしがコーラを飲むところをチラっと見ると、すぐにゲームに戻った。
彼の良いところを見つけるのが、時々とても困難になる。どうして付き合っているのか分からなくなる時も多々あった。
それでも、彼はわたしの泣ける場所だった。
泣けずに喉に詰まって苦しくなる様な思いは無くなった。泣きたい時に泣ける。
その場所があると思うだけで、心が軽く穏やかになった。
優しさって、やっぱり難しい。
わたしの欲しいものを山ほど目の前に差し出してもらっても、たった1本のコーラに救われるのだ。
過ぎるまで待つ。
ただその場で。
彼は見ようによっては何もしていないのかもしれない。
でも、一緒に「待つ」ことと、涙の味を吹き飛ばしてくれる強い炭酸をくれた。
優しさだ、と思った。
他の何かが足りなくても、
他の何かが合わなくても、
その時、その一瞬の「何か」を見逃さない。
それがわたしにとっての一番欲しい「優しさ」だったのかもしれない。
そして、それをくれたのは彼なのだと、彼の背中の大きな涙のシミを見ながら思った。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。