ドーナツの輪っか。

 子供の頃、わたしの母はおやつにドーナツをよく作ってくれた。料理下手な母の作るそれはいつも歪んだ輪っかのドーナツだった。


 その歪んだ輪っか越しに見る世界がわたしは好きだった。


「こうやって見た方がお母さんがよぉーく見えるよ」


 そう言って母を覗いては、ドーナツにまぶしてある砂糖をこぼした。「もーう!」と言いつつ、母も一緒になって砂糖をこぼしながら、ドーナツの輪っか越しにわたしを見て笑っていた。








「お、ドーナツ?朝からご機嫌だね」


 寝ぼけ眼の彼が目を擦りながら、匂いを嗅ぎつけた様にベッドから起きてきた。


「ご機嫌?」


 彼は後ろから抱きしめる様にわたしの首元に鼻をつける。それがくすぐったくて彼を押し退けた。わたしがそうするのを分かっていて彼はそれをやってくるのだ。にこにこしながら。



「だってドーナツ作る時ってなんかいつも楽しそうだからさ」



 へぇ、ドーナツを作る時ってわたしは楽しそうなんだ……。


 ドーナツに砂糖をまぶしながら考えた。


 

 確かに今日は起きた時から気分が良かった。


 それはわたしの背中にぴったりとくっついて眠る彼が愛おしかったことや、外から聞こえる鳥の鳴き声が朝の穏やかさを知らせてくれたこと。


 まだまだ起きないであろう彼にそっと口付けると、彼が嬉しそうに微笑んだこと。


 キッチンで音楽を流すと、わたしの好きな曲が最初にかかったこと。


 その瞬間にドーナツを作ろうと思ったのだった。


 彼が言う通り、わたしは気分がいい時にドーナツを作ってきたのかもしれない。



「寝起きにドーナツって重い?ご飯もあるよ?」


「いや、部屋中こんなにいい匂いになってるのにドーナツじゃないなんて、逆にありえない」


「そう?なら良かった」


 寝癖頭の彼がわたしの横でコーヒーを淹れ始めた。


 まずは砂糖ありミルクなし。

 わたしの為のコーヒーだ。


 一緒に暮らしているのだから、好みを知っていることは当たり前なのだけれど、こういう瞬間がとても愛しく思える。


 砂糖なしミルクなし。

 次は彼のコーヒー。


 でも、もしかしたらこういう好みも変わる日が来るのかもしれなくて、それをお互い知り続けたい。そう思い続けられたならいいなと考えながら、コーヒーを淹れる彼の手元を見ていた。


 

 「随分作ったね」


 わたし達は山盛りのドーナツを挟んで、向かい合って座った。


「これが無くなるまで次の食事はありません」


「えー、それは拷問かも」


「ドーナツの刑です。何か思いたる罪は?」


 ふざけてわたしはドーナツの輪っか越しに彼を覗いた。

 

 すると、彼も真似てドーナツの輪っか越しにわたしを覗く。


 わたしと母のやり取りと全く同じで笑った。

 

 彼も笑っていたけれど、それはわたしとは違う理由で、この状況を笑っているのだ。


 違う理由でわたし達が笑っていることをわたしだけが気づいている。それがまた可笑しくて、彼がドーナツを食べ始めても、わたしはドーナツの輪っか越しに彼を見つめていた。


「いつまでやってんの?」


 ドーナツの輪っか越しに彼を見ながら、わたしはいつしか願っていた。


 この時間が少しでも長く続きますように。

 これから変わっていくかもしれない彼のこともずっと見ていられますように。



 そう願ってからやっとドーナツを1口食べた。


 ドーナツの輪はいとも簡単に輪っかでは無くなった。



 変わるのはこんなにも容易い。

 変わらないものなんてきっと無い。


 だから、わたしは永遠を願わなかった。


 変わっていくことを受け入れながら1日を過ごすのだ。


 毎日、毎日。


 でも、やっぱり変わらないで欲しいと願ってしまうこともある。


 ドーナツの輪っかの先に見えるもの。


 


 それはそれとして。

 言い訳の様にわたしは小さく笑った。

  



「ねぇ、砂糖なしのコーヒーも1口ちょうだい?」





 



 

 


 



 


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