「なんとなく」の欠片たち

切り株ねむこ

桃の缶詰の甘いシロップ

「なに食べてるの」


「なにって缶詰めの桃だよ」


 私は椅子の上に体操座りをしながら、Tシャツに短パンというだらしの無い部屋着でトロトロのシロップに浸かった桃を食べていた。


「そんなの家にあったんだ」


「この前、実家に行った時にもらってきたの。直生くんも食べる?」


 仕事から帰ってきたばかりの直生くんは私の手を取って、フォークに刺さっている私の食べかけの桃を食べた。


「うん、美味しい。久々に食べた」


 そして、彼は私にキスをした。


「桃の味がする」


「今2人で食べたからね」


 私たちはそのままキスを続けた。

 その後に何があるか知っている、そんなキスだった。


 でも、その最中で私は下川くんのことを思い出していた。


 

 後にも先にも進まなかったあの時のキスを。


 



 中学を卒業する1週間前。

 わたしは下川くんに好きだと告白をされた。


 でも、その時のわたしは下川くんの親友の多田くんのことが好きで好きで好きで好きで仕方がなくて………本当は全然好きなんかじゃなかった。


 多田くんはわたしの好きな男の子像のまんまの人だった。無口でクールで秀才で、そして少し意地悪だった。わたしの事なんてきっと見えていない。


 多田くんの斜め後ろの席で、わたしは彼のことを勝手に作り上げていった。こういうものが好きで休日はこんな感じに過ごしていて、それからそれから…。


 そんなわたしの隣の席が下川くんだった。


 下川くんと席が隣り同士になるのは2度目で、わたしは下川くんのことが好きだった。おかしな話だけど、多分本当の恋はこっちだってことにも気づいていて、気づかないふりをしていた。


 下川くんはわたしの話にいつも笑ってくれて、何かを聞くときちんと答えてくれた。例えその時に思いつかなかったことでも、忘れずにいてくれた。


「昨日桜井が話してたことなんだけど、帰ってから少し調べてみたらさ…」


 なんてことがよくあった。


 その度にわたしの心はふわっと浮いた。


 それなのに、わたしは多田くんを好きだと意固地に思い続けた。


 いつの間にか多田くんは多田くんではなくなっていって、わたしの中にだけ存在する別の人になっていた。


 わたしは自分の作り上げた多田くんに恋をしていたのだ。


 現実的な恋より、偽物の多田くんを好きでいる方が合っていた。

 

 それだけわたしは幼かったのだ。



 結局、下川くんには


「好きな人がいるの。ごめんなさい」


 と言って断った。


 

 下川くんは中学卒業と共に他県に引っ越すことが決まっていたので、その後すぐに遠くへ行ってしまった。


 

 わたしの心の中には、ありきたりな言い方をすれば……ぽっかりと穴が空いてしまった。



 その穴を埋めるかのように、わたしはまだ懲りずに多田くんのことが好きだった。偽物の多田くんを想いながら、本物の下川くんを忘れられずにいた。


 多田くんは偏差値の高い私立の男子校に通っていたので、会うことは全く無かった。


 わたしの高校生活は、夏になれば男女で花火大会に行ったり、夜遅くまで遊んで親に怒られたり。

 

 何事もなく楽しかった。


 でも、当たり前だけれど、どこを探しても下川くんはいなかった。



 そんな風にどこかで下川くんの影を探しながら、わたしの高校生活は過ぎて行き、多田くんへの気持ちは時と共に嘘みたく忘れていった。





 ──私は20歳になった。


 

 そして今、白い布の中で下川くんと見つめ合っている。



 


今日は成人式だった。


 久しぶりに会った中学時代のクラスメイトと、成人式の後に着替え直してから集まった。


 そこには多田くんもいて、下川くんもいた。成人式はこちらの友達と過ごす為に戻ってきていたのだ。


 中学3年生の頃のクラスメイト7人ほどで、思い出話をしながらご飯を食べてお酒を飲むと、誰かが中学校に行ってみようと言い出して盛り上がった。


 私は下川くんとはまだ一言も話せないまま、夜の校舎に忍び込んだ。


 一緒に来ている女子たちとくっついて、暗くて気味が悪く見える廊下を怖々と歩く。


 そこで、1人のお調子者が「わーっ」と急に大声を出したものだから、驚きのあまりくっついていた女子たちもあちこちに逃げてしまった。


 私はどこに逃げていいのか分からなくて、ただただ立ち尽くしていると、急に誰かが私の手を取って走り出した。


 その相手は下川くんだった。


「えっ、あっ、ちょっ。どこに行くの?」


 私の問いかけに彼は答えず、とりあえず1番近くの教室に入った。


「下川くん、みんながっ」


 私が話し始めると下川くんは「静かに」というジェスチャーをして、教室の隅の方に私を連れて机の影に隠れる様に座った。


「見回りの先生がいる」


 よく見るとそこは美術室だった。

 そして、確かに誰かが近づいてくる足音が聞こえる。


 見つかったら、さすがに成人式のテンションだったとはいえ怒られるに違いない。


 私達はとりあえずキャンバスにかける大きな白い布の中に隠れた。


 その時、美術室のドアが勢いよく開いた。


 これはもう見つかる。

 目をぎゅっと瞑って覚悟を決めていた。


 でも、幸運なことに美術室のドアは閉まり、足音は遠のいていった。


 その安心感にぎゅっと瞑っていた目をゆっくり開けると、私たちは白い布の中で見つめ合う形になった。


 当たり前だけれど、下川くんは中学の時より大人になっていて、私の知らない5年間の時間の中で男の人になっていた。


 その時、言葉もなく下川くんの顔が近づいてきて唇が重なった。


 私は一瞬にして中学生の頃のわたしに戻った。


 下川くんに毎日、あれこれ質問しては少し困らせていたあの頃に。

 

 下川くんはいつも優しく笑って


「そんなこと考えるのって桜井だけだよ」


 と言った。


 唇が重なりながら、その頃の下川くんを思い出して、わたしは中学生に戻っていたのだ。


 けれど、唇の重なりは少しづつゆるいものになり、優しく開いていった。驚きながらもわたしは彼の舌を受け入れていた。


 下川くんはわたしの舌を溶かすみたいに絡めた。


 今のわたしは、私たちは、中学生ではなく紛れもなく20歳だった。


 とろとろと蕩けるように繰り返されるこのキスに、あまりに甘くて私の全てが溶けてしまいそうだった。


 

 でも、このキスの先の想像は全く浮かばなかった。


 

 唇が離れた時、私達はもう見つめ合うことは出来なくなっていた。


 お互いに壁に寄りかかって、隣り同士で顔を見なくて済むように座り直した。




「下川くん……」


「ん?」


「桃の缶詰だと、黄桃と白桃どっちが好き?」


「……」


 下川くんは驚いた様に横を向いて、わたしの顔を覗き込んだ。


「なに?」


「いや、相変わらず桜井だなぁと思って」


「なにそれ」


 それから、下川くんは上を見上げて少し考えた。下川くんがわたしの質問を考える時はいつもそうしていた。


「……白桃、かな」


「え、それはどうして?」


 また下川くんはわたしの顔を見た。

 そして、笑った。


「黄桃より滑らかなで好きだってだけ」


 わたしは自分でも分かるくらいにっこりとした。


「わたしも。わたしも白桃の方が好き」



「でも、何で急に桃の缶詰の話なの?」



「それは……」



 それは、今の下川くんとの長い長いキスが桃の缶詰の甘いシロップみたいだったから。

 

 甘くて甘くて優しいキスだったから。


 でも、さすがにそれは言えなかった。



「……うちってね、風邪とかひいて食欲が落ちるとお母さんが冷えた缶詰の桃を出してくれてたんだ〜。ほらお盆とかになるとカルピスの詰め合わせとか桃の缶詰の詰め合わせとか、家に無かった?」


「あったあった」


「ね!あったよねー」


 わたしはそれでその話を終わりにしようとした。


「で?」


「え?!で?って?!」


「だから、なんでその話?」


「うーんと、なんとなく?」



 下川くんは少し訝しんだ目をこちらに向けながら「ふうん」と言って、立ち上がった。


「そろそろ行こうか、他のみんな探さないと。心配してるかもしれないし」



 もう下川くんは中学生ではなかったし、20歳のさっきまでのキスが嘘みたいな下川くんに戻っていた。


 わたしはまださっきのキスの余韻が身体中を包んでいて、下川くんの後ろをゆっくりと歩いた。


 下川くんの後ろ姿がとても遠くに、そしてわたしとは違う……さっきとはまるで違う人の様に見えた。

 

 手を伸ばしても触れられない。

 

 そんな訳はないんだけれど、さっき唇が離れた瞬間に届かない人になってしまったみたいで、黙ったまま歩くしかなかった。



 その後、校門でみんなと合流して私達は別れた。


 それ以来、下川くんとは会っていない。



 

 でも、桃の缶詰を食べる度にあのキスを思い出す。


 甘くてとろけるシロップみたいなあのキスを。

 

 幼かったわたしを。



 


 

 


 


 

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