誰かの、蜜柑の感触。(もう一つの蜜柑の話)

 私の中の時計が少しずつ速度を変えてきている。


 ひょっとしたら、生まれた時に巻かれたぜんまいがそろそろ止まりかけているのかもしれない。誰がどのくらい巻いてくれたのかは分からないけれど、確実にぜんまいの力が弱まっている気がする。


 トクントクン。


 生ぬるい泥の中に首までずっぽりと浸かり、それが幸せなんだと思う日もあれば、その泥が凍てつく程冷たくて、絶望とはこのことなんだと思う日もある。


 トクントクン。


 それでも、私の中で音がする限りは、幸せも絶望もどちらも私のものなのだ。


 トクントクン。


 「愛してる」

 そんな言葉が必要じゃなくなってからも、何かに触れたいと手を伸ばし続けていた。


 一瞬のその時に私はずっと幻想を抱いていたのかもしれない。


 その事に気づいてからは「愛してる」を必要としない誰かと一瞬の夢を見ることにした。

 重なり合うと、さっきまでとは嘘みたいにその誰かの名前がちゃんと浮かび上がった。


 私の中で知っている人として認識されるように。



「どこを見てるの?」


 トクントクン。


「目の前の君を見ているよ?」


 トクントクン。


「ふうん」


 トクントクン。


「どうしてそんな事訊くの?」


 トクントクン。


「分からないならいいよ」


 トクントクン。


 私の中の時計はたまに弱くなったりしながらも、まだちゃんと聴こえている。


 トクントクン。


 蜜柑の皮を剥いて、ひとつ口に入れると甘酸っぱさが口いっぱいに広がった。それを彼も欲しがったので、ひとつ口に入れてあげた。


「これ、一つだけ買ってきたの?」


 トクントクン。


「ここに来る途中でね、突然知らないおばあさんに声をかけられて、どうしてか一つだけくれたの」


 トクントクン。


「え?そんな得体の知れないもの食べて大丈夫?」


 トクントクン。


「得体の知れないもの、」


 トクントクン。


 私は構わず蜜柑を食べ続けた。


 トクントクン。


 蜜柑のひと房がくちびるに当たる度に、誰かのくちびるの感触を思い出しそうになる。


 トクントクン。


 誰か。

 その誰かが思い出せそうで思い出せない。


 トクントクン。


 もっと食べたら思い出せるかもしれない。

 でも、私の手のひらの中にはもう蜜柑は残っていなかった。



 蜜柑の甘酸っぱさの中、誰かの感触が記憶の中で小さくなって遠く遠くに消えてしまう。


 そして、私の中の時計の音だけが残った。


 トクントクン。


 トクントクン。


 トクントクン。







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前回の蜜柑の話を書いた時に、若干のバージョン違いも書いていたのでこちらにも載せてみました。







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