今日の夕飯。
「今日の夕飯って何作るの?」
ベッドの中で私の首筋に口づけしながら、彼は訊いた。
「家に厚揚げがあるから、カブのみぞれ煮でも作って……それから」
自分の口から自然に出た日常と彼とのこの状況のギャップに私は急激に恐ろしくなった。
「そろそろ帰る」
私は早くこの場から去りたくなり、急いで散らばった下着や洋服を拾い集めた。
そんな私の腕をひっぱって、彼はベッドの中へと引き戻した。
「ちょっと、さっきからこの繰り返しで帰れないじゃない」
「……帰らなければいいじゃん」
夜6時以降はお互い電話はしない。
火曜と金曜の日中だけ会える。
それが私たちの決めたルールだった。
でも、今日は月曜日。
彼は最近ルールを破るようになっていた。
「ねぇ、最初に決めたルールって覚えてる?」
そう言うと、彼は私の言葉を止める様にキスをした。このままではまた始まってしまう。
でも私は抗うことが出来なかった。
彼がするキスにも言葉にも何もかもに。
「待って、本当にもう帰らなきゃ」
彼は私の止める言葉も聞かずに始めた。
そして、彼のしたい事は私のして欲しいに変わってしまう。
彼といると、私はいなくなってしまう気がして怖い。
私は彼が動く度に揺れながら、彼の部屋のカーテンから射し込むオレンジの光を見ていた。
子供の頃の夕暮れ時。
友達と別れ、少し足早に家に帰っている途中。
どこかの家の夕飯の匂いに気づくと、余計に早く家に帰りたくなって、そこからはいつも走って帰った。
そうして息をきらして「ただいま」と家のドアを開けると、母はいつも「おかえり」と言ってから、
「どうしていつもそんなに息を切らして帰ってくるのかしらね」
と笑っていた。
──早く帰らなくちゃ。
「どこに帰りたいの?」
「え?」
彼は私の胸の上に重なりながら言った。
どこに?
彼の言っている意味が分からなかった。
私は私にもどりたい……でも、私はどこに帰りたくて、こんな気持ちになっているのだろうか……。
「帰らないでよ」
彼は甘えた様に言う。
もう何も言わないで欲しかった。
私は彼を私の上から退かせて、身支度を始めた。
とにかく帰らなくちゃ、帰らなくちゃ私がいなくなってしまう。
「ずっとここに居ればいいじゃん」
……彼は何を言っているのだろう。
彼の顔を私は真顔で見た。
ひょっとしたら、怒っている表情になっていたかもしれない。
それでも私は急にそこから動けなくなってしまった。
あの頃の早く帰りたくて息を切らして走るような、そんな気持ちはこれから帰ろうとしている場所にはなかった。
かと言って、何故かここに留まりたいとも思わなかった。こんなに好きなはずの彼の元なのに。
私は何から逃げてここへ来て、何を守るために帰ろうとしているのだろう。
「最初は……最初はね。君の恋人に嫉妬したりもしてたの。最初から分かってて、私にそんな資格なんかないのにバカみたいでしょ?だから入り込まないように入り込まないようにって、ブレーキをかけながら会ってた。私の方が君を好きだから」
「そうかもね、でもさ」
「でも、違うの」
私はあの夕陽の中に無性に帰りたくなった。
「違うって何が?」
「何もかもが」
上着を羽織って、私は彼の部屋を出た。
グラグラした場所で何とかバランスを取って立っていて、そんな場所に疲れて私はここに来たのだった。
でも、グラグラしているのはどこも同じだった。
彼を好きになればなるほど、私はまたグラグラした場所に立っていた。
きっと私自身がちゃんと立つことが出来ていないのだ。
彼の部屋を出た後、私は自分の家にも帰らなかった。
夕陽の中で息を切らして家に帰っていたあの頃の様に私は走りたかった。
私の足で大地を蹴って、どこまでも走れる。
もうどこにいても、グラグラなんてしないように。
「今日の夕飯って何作るの?」
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