第25話 北陸道と大津襲撃未遂

第八章・東奔西走 2<北陸道と大津襲撃未遂>


 大坂での将軍謁見えっけん以降、サトウと幕府との関係は急接近しつつあった。


 大坂城では将軍慶喜がパークスたちイギリス代表団を丁重ていちょう歓待かんたいした。

 その慶喜の方針が江戸の幕閣たちにも反映され、彼らは頻繁ひんぱんに高輪のイギリス公使館(接遇所せつぐうじょ)を訪問するようになった。以前では考えられなかったことである。


 かつては西郷がイギリスを幕府から切り離そうと様々な計略けいりゃく駆使くししたものだが、今度は一転して慶喜がイギリスを薩長から切り離そうと狙った訳である。


 そしてサトウは外国総奉行そうぶぎょう(外国奉行を統括とうかつするために新しく作られた役職)の平山敬忠よしただの自宅に招待された。もちろんこんなことも以前はまったくなかったことだった。

 平山はその昔、アメリカのペリーやハリスが来日した頃から外国との折衝せっしょうを担当してきた古株ふるかぶの幕臣で、この時五十三歳だった。

 サトウやパークスは平山のことをフォックス古狐ふるぎつねと呼んでいた。

「平山は、素性すじょうはやや低いが最近昇格した人で、鋭い狡猾こうかつそうな顔つきをした小柄な老人だった。私たちは彼にフォックスというあだ名を付けたが、これは彼にはピッタリのあだ名だった」

 とサトウは後年語っている。


 とはいえサトウは普通に、このフォックスこと平山の自宅を訪問して夕食をごちそうになり、お互いに贈り物を交換し合って彼と親睦を深めた。

 サトウ自身は薩長側への思い入れが強く、しかも『英国策論』という反幕府的な書物を流布るふさせた張本人ではあるけれども、彼の上司であるパークスは幕府を支持する傾向が強く(将軍との謁見以降は特に)、さらに言えばイギリスの基本姿勢は「内政不干渉」なのだから幕府からの接待せったいを断る理由はないのである。

 

 ところで、この頃サトウは「高屋敷たかやしき」という家に引っ越していた。

 ただし引っ越したと言ってもミットフォードと一緒に住んでいたもん良院りょういんのすぐ隣りである。


 江戸湾を見渡せる丘の上にあったのでサトウはこの家を高屋敷たかやしきと呼んでいた(現在、NHK交響楽団のビルがある辺りにあった)。

 サトウがミットフォードとの同居をやめて一人で暮らすようになった理由はよく分からないが、おそらく女に目がないミットフォードが日本人女性と同棲するなり何なりしたからではなかろうか、と思う(別に何かその確証があるわけでもないが)。


 とにかくサトウはこの高屋敷で一国一城のあるじとなり、従者の野口や数人の使用人たちと一緒に暮らすようになった。

 この建物は二階建てで、ヨーロッパ人の客のための応接室や控室ひかえしつ、さらにサトウ専用の書斎しょさいなども完備したかなり上等な建物だったが、その一切の管理は野口にゆだねられていた。


 この高屋敷の護衛には相変わらず幕府の別手組べつてぐみがあたっていた。

 本来別手組は幕府の手配によってそのつど持ち回りで警護先が決められ、外国人(特に公使館員)が江戸の市街へ出歩く際には大勢でそれを取り囲むように警護する、というのが常だった。

 しかし自由に活動したいサトウにとって、そういった別手組の警護、というよりも「監視」はわずらわしくて邪魔だった。

 そこでサトウは幕府にかけあって「自分専用の別手組」を六名だけ選んで配属してもらうことになった。

 その六名の中には東海道の旅の途中で「野口さんのようにサトウさんの下で働きたい」と言っていた斎藤亀次郎も含まれていた。


 高屋敷に引っ越した後もサトウの食事は相変わらず近くのまんせいから出前で運ばせた。

 この店を薩摩藩士たちがよく利用していることは以前述べたが、サトウは薩摩藩士との接触も以前同様に続けていた。

 高輪でサトウと頻繁ひんぱんに会っていた薩摩藩士は柴山良助りょうすけや南部弥八郎やはちろうという人物だった。

 余談だが柴山良助の弟の愛次郎は寺田屋事件で上意討じょういうちにあって斬られた人物である。そしてこの良助もこの年の暮れ、幕府による薩摩藩邸焼き討ちで自決することになる。


 イギリスが幕府に接近しつつあるという情報は薩摩藩全体で共有されており、当然柴山や南部もある程度承知していた。

 そこで二人はサトウと面会してそのことを確認してみた。

「残念ながらその通りです。最近幕閣は頻繁にイギリス公使館を訪問しています。パークス公使も幕府を信用する気持ちが日に日に強くなっています。しかし私にはどうすることもできません」

 サトウは二人にそう答えざるを得なかった。

 二人はイギリス公使館の情報をすぐに西国の西郷たちへ報告した。



 六月二十二日、サトウは再び視察の旅へと出かけることになった。

 目的は日本海側の港の調査である。

 このことについてはパークスがすこし前に敦賀つるがを視察したが、今回は船で新潟と佐渡さどへ行き、そのあと能登のとと加賀を回ることになった。

 人員はサトウの他に、パークスが行くのは無論だが、ミットフォードも同行することになった。そしてウィリスは今回も留守番である。


 横浜を出発したサトウたちの船はまず箱館(函館)に入って数日滞在し、そのあと新潟に到着したのは七月三日のことだった。

 ちょうど七夕たなばた祭りの頃だったので町には色とりどりの提灯ちょうちんが飾られていた。

 ちなみにこの七月三日は西暦だと8月2日にあたり、元来がんらい七夕たなばたというのは現在の(西暦の)こよみで言えば8月上旬頃の祭りである。現在のこよみの7月7日では、ともすると梅雨の時期とかさなる可能性もあり星空は見づらく、やや本来の七夕の趣旨から外れてしまっているような気もする。


 新潟の町は予想していたよりも栄えていた。

 パークスは新潟の町を「小型の大坂である」と評するぐらい高い点数をつけた。ただし新潟の港は水深が浅く、さらに風浪ふうろうに対しても弱いという欠点があった。そのため新潟の避難港として佐渡が選ばれていたのだった。


 七月六日、パークスやサトウたちは佐渡のえびす両津りょうつ)に入港した。

 この時、幕府の佐渡奉行から外国人通訳が一人、夷に派遣されていた。


 その男は司馬しば凌海りょうかいという医者だった。

 この司馬凌海(島倉伊之助いのすけ)という人物は司馬遼太郎大先生の小説『胡蝶こちょうの夢』で主人公として取り上げられている。

 この小説は幕末の西洋医学(特に蘭学)を取り扱った作品で、この作品の参考資料として使われている石黒忠悳ただのりの『懐旧かいきゅう九十年』では司馬凌海について次のように書いている。

「この司馬氏は、治療の方はそれほどでないが、語学にかけては古今ここん独歩どっぽの天才で、蘭語・英語は勿論もちろん、独語・仏語・露語にも通じ、それに漢文はお手のもの、和文も出来る、実に驚嘆きょうたんに値する人です。(中略)氏は佐渡の人で、十三、四歳の頃江戸に出て、旧幕府の典医てんい麹町こうじまちの三軒家におられた松本良甫りょうほ翁のもとに書生に入りました。松本順先生は良甫翁の養子で、その頃は良順と称し、いわゆる若先生であって、司馬氏はそのお相手格でした」


 実際『胡蝶の夢』の小説の中でも司馬凌海は「語学の天才」として描かれている。

 一方、サトウも「語学の天才」である。


 この日偶然、東洋と西洋の「語学の天才」が佐渡で面会したということになる訳だが、あまり深く会話をする機会がなかったのであろう、サトウの日記には

「彼はオランダ語を少し知っている」

 としか書かれていない。

 ちなみに司馬凌海はのち、戊辰戦争の時に本州へ渡って、従軍医療に従事するウィリスの通訳をつとめることになる。


 この日サトウたちは佐渡を視察して回った。そして翌日には次の目的地である能登のと七尾ななお)へ向かうのだが、実はこの日、長崎でイギリス人水兵が殺害されていた。その事件についてはのちに詳しく述べることになる。


 パークスやサトウたちが能登の七尾ななお港に入ったのは七月八日のことである。

 この当時開港していた横浜、箱館、長崎、さらに開港予定地の兵庫、新潟も含めてこれらはすべて天領てんりょう(幕府の直轄地ちょっかつち)の港だが、この七尾港は加賀藩前田家の領地ということになる。


 加賀藩といえば「百万石」である。

 外様大名とはいえ石高こくだか第一位の大名であり、それだけに家格も高く、御三家や親藩しんぱんに準ずる待遇たいぐうを受けていた。

 にもかかわらず、幕末の加賀藩はあまりにも影が薄かったと言わざるを得ない。

「あの百万石の加賀藩が幕末に何をしていたか、あなたは知ってますか?」

 と聞かれて、何か具体的なことを答えられる人はおそらく皆無かいむであろう。仮に聞かれたのが幕末ファンであったとしても、この質問は難問に違いない。


 余談ながら実を言うと筆者は金沢市出身なのだが、その筆者でさえも、やはり以前は何も知らなかった。

 いや。実際詳しく調べてみても大した事蹟じせきは出てこないのだけれども(禁門の変、天狗党の乱、あとは戊辰戦争の前後に少し名前が出て来る程度である)。


 大仏次郎氏は『天皇の世紀』の中で次のように書いている

「裏日本に在って金沢はこれまで外国人に関係なく居た、眠ったように平和で静かな藩であった」

 またサトウも手記で次のように書いている。

「彼らは日本でもとりわけ無知と非文明の本場だと思われてきた北部海岸地域に孤立していたのである。彼らはただ自分たちの事にしか関心を持っていなかった。加賀の大名が有する領地はどの大名よりも大きいと評価されており、そのため加賀藩は世間に対して貫禄があり、何一つ不満はなかった。日本の政治変革など彼らには何の利益もなく、したがって現状維持で満足だったのである」


 まったく酷い言われようであるが元石川県民としても「完全にその通りで、少しも異議はない」と言うしかない。

「江戸徳川体制がスタートして以降、加賀前田家は文化国家を標榜ひょうぼうしてパックス徳川の二番手狙いのポジショニングをとった。これは戦後の日本と非常に似ている」

 と、どこかのテレビ番組で述べていた人がいたが、上手いことを言ったものだと思う。


 さて、余談から話を戻すと、パークスは七尾港の様子を調べた後、加賀藩士たちと七尾港の開港について話し合った。

 七尾港は港の機能に問題はないもののあまり栄えている様子がなく、しかも加賀藩もあまり開港に乗り気ではなかった。

 このためパークスは一連の調査を打ち切って、日本海側の開港地は新潟とする方針をかためた。

 加賀藩が七尾港の開港を好まなかったのは「もしかすると幕府に七尾港を取り上げられる(天領にされる)かも知れない」と恐れたからだった。


 しつこくて恐縮だがさらに余談を付け加えると、この時パークスとの対応にあたった加賀藩士の中に佐野かなえという人物がいた。

 彼は駿河するがから招かれた蘭学者で、まんえん元年の遣米使節で世界一周を経験し、さらに文久の竹内使節でヨーロッパへ行っていた。そして明治に入ってからは共立きょうりゅう学校がっこう(現在の開成中学・高校)を創立することになる人物である。



 一連の港の調査を終えたパークスはこのあと船で長崎へ向かい、サトウとミットフォードは陸路で加賀、越前、近江おうみを通って大坂へ向かうことになった。


 パークスから解放され、しかも大好きな旅行(一応視察の名目ではあるが)に行けることになったサトウが驚喜きょうきしたのは言うまでもない。

 サトウとミットフォード、それに従者の野口は駕籠に乗って一路金沢を目指した。

 サトウたちの護衛役は、従来であれば別手組が担当するところだが幕府領ではないので加賀藩士が担当することになった。


 サトウが七尾を出発した七月十一日は現在のこよみで言えば8月10日にあたり、まさに盛夏せいかの時期である。

 北国と言ってもこの辺りの夏がまったく涼しくないことは筆者もよく知っている。

 サトウたちはスイカなどの果物を食べながら炎天下の道を進んでいった。道中はどこでも物見ものみ高い民衆で一杯だったが無礼な態度をとる者は一人もなく、皆「生まれて初めて見る外人」を見ようとして興味津々しんしんな様子だった。


 サトウたちは翌日の午後に金沢城下へ入った。そして数多くの見物人に囲まれることになった。

 なにしろサトウもミットフォードも女には目がないので、駕籠の中から若い娘たちを物色ぶっしょくした。

「見物人の中には大変きれいな娘が大勢いた」

 とサトウは日記に書いている。


 その後サトウとミットフォードは「二人の王様にでも接するがごとく」加賀藩に厚遇こうぐうされた。

 ただし藩主は病気療養中とのことで面会することを避けた。そこでサトウの上司であるミットフォードは「パークスからのメッセージ」なるものをでっちあげて

「藩主の健康がすみやかに回復することをいのる。加賀藩に対する我々の変わらぬ友情をちかう」

 といったようなメッセージを送り届けた。


 このあと二人は饗応きょうおうの席へ移り、加賀藩士たちとの宴会を楽しんだ。出された料理は非常に豪奢ごうしゃで品数も多かった。

 ある加賀藩士はサトウに対して次のように述べた。

「あなたの『英国策論』は読みました。我々もあなたの意見に賛成です。けれども幕府の廃止を狙っている薩摩や長州は過激すぎる。確かに変革は必要ですが幕府は残すべきであり、その権力を制限する程度にとどめるべきです」


 サトウは自分の『英国策論』がこんな「無知と非文明の本場」でも読まれていたことに多少驚いたが、やはり加賀藩は保守的で時勢から遅れていると感じた。けれども彼らに現実の時勢をいたところで理解できないだろうと思い、自分の意見を述べることは避け、彼らの意見を聞くことにつとめた。


 翌日サトウたちは金沢の港を視察するために金石かないわへ向かった。

 金石は金沢の中心部から7、8kmほど西にある港である。しかしここも新潟と同じく風浪ふうろうに弱い河口の港で、開港地にふさわしいとは思えなかった。


 サトウとミットフォードは港の調査を終了して次の目的地である越前へ向かった。

 加賀藩領を出て越前藩領に入ると、とたんに二人は厚遇こうぐうされなくなった。

 越前藩はこの二人のイギリス人を必要以上に警戒したのである。護衛の越前藩士は礼節を欠いており、福井市街に入ってからもサトウを訪ねてくる越前藩士はほとんどいなかった。


 ただし極端に冷遇れいぐうされたという訳ではなかった。きれいな客室や豪華な食事は加賀藩の時と変わりがなく、むしろビールやシャンペンが出された点などを見ると加賀藩よりも先進性を感じたぐらいであった。

 町の見物人たちの様子も金沢と同様で

「これほど多くの美しい娘たちがいる土地を私はこれまで見たことがない」

 とサトウは日記に書いている。


 松平春嶽はこのとき京都へ行っていたので福井にいなかった。

 春嶽がいれば、まだ二人の待遇は変わったかも知れないが、この越前訪問ではサトウたちと親交を結ぼうとする越前藩士はほとんどおらず、二人はあっさりと越前藩領を抜けて近江へと向かうことになった。


 近江に入ると最初は彦根藩士が護衛についていたが、長浜で大坂からやって来た幕府の別手組べつてぐみ十数名と交代した(江戸でサトウの専属となった六名の別手組とは別人である)。

 この琵琶湖東岸ルートは少し前にパークス一行が敦賀視察の際に通っており外国人の通行はそれほど注目を集めず、割とスムーズに進むことができた。

 そして草津では、サトウたちがフォックス(古狐ふるぎつね)と呼んでいる平山から派遣された外国奉行の役人も合流した。


 その役人の中に米田こめだ桂次郎けいじろうという英語が得意な若者がいた。

 幕末の歴史に詳しい人は知っているかも知れないが、彼はまんえん元年の遣米使節の際にアメリカで人気をはくし『トミー・ポルカ』なる曲まで作られた立石たていしおの次郎じろう為八ためはち)である。

 同行した日本人がこの少年のことを「ため為八ためはち」と呼んだためアメリカ人が「トミー」と名付け、それ以降このニックネームが定着した。


 米田こめだはサトウとミットフォードにルート変更を提案した。

「大津を通るよりも南の宇治を通って大坂へ行くことをお勧めします。今回は特別にいし山寺やまでらはいかんが許されたので是非そちらへご案内したいのです。どのみち移動距離は大して変わりませんから」

 さらに米田はサトウに対して「あなたが『英国策論』で述べている考えは間違ってます」と抗議したのでしばらくサトウと米田は政治談議をしたが、もちろん結論は出なかった。


 その後サトウは野口に質問した。

「トミー(米田)は大津を通っても宇治を通っても移動距離は変わらないと言っていたが本当か?」

「いいえ。宇治を通ると山越えになるので大津を通るよりも相当時間がかかります」

(やはりな。要するに彼らは我々が大津を通るのを阻止したいのだ。この前パークス公使が大津を通った時に京都で問題が起きたから、その二の舞を避けようとしてフォックス(平山)はトミーを派遣してきたのだ)


 サトウはミットフォードと相談して

「ここは断然、大津を通って行こう」

 と提案した。ミットフォードもサトウの提案に賛成して大津へ行くことを了承した。


 そしてサトウはこの考えを米田に伝えた。当然のことながら米田は狼狽ろうばいした。

「そんなことを言われては困る。無茶を言わないでもらいたい」

「いや。我々は寺や宇治の見学はどうでもよい。大津を通ったほうが近道だからそうするのだ。移動距離は大して変わらないなんて嘘をついたトミー、君が悪い」


 実際のところ米田こめだは平山から、二人を大津、さらには伏見にも立ち寄らせないように命令されていたのである。

 その理由は、サトウが予想した通り「パークスの敦賀行き」の時に幕府が朝廷から責め立てられたので、その二の舞を避けるためだった。


 こまてた米田は野口に相談して、サトウたちの説得を頼んだ。

 確かに野口から見ても今回のサトウのやり方は強引に思えた。「そこまで無理をして幕府を困らせる必要があるのか?」と。そこで野口はサトウに助言をした。

「米田たちに悪意はありませんよ。ここは一つ、彼らの顔を立ててやったらどうです?」

 しかしサトウは野口の助言を拒絶した。

「私は君を大変信用しているが、今回のことは我々イギリス人の問題だ。口を挟まないでもらいたい」


 このサトウの返事を野口から聞かされて、米田は進退しんたいきわまってしまった。

 仕方なくサトウたちに頭を下げて幕府の窮状きゅうじょうを説明した。そして改めてルートの変更をサトウに懇願こんがんした。

「どうすればルートの変更を認めてくれるのでしょうか?条件を言ってください」

「トミー、君が最初から素直に事情を説明してくれていれば我々もそれに同意しただろう。だが今となってはすべてが手遅れである」

 とサトウが突き放すように言ったので米田はますます意気いき消沈しょうちんしてしまった。

 そこでミットフォードが米田に一つの提案をした。

「今回の件を反省するあかしとして公式な文書を我々に提出しなさい。その内容次第ではルート変更することもあり得る」


 これ以降、二人が納得できる反省文書が作成されるまで、二人は何度も米田に書かせた草稿そうこうを突き返した。

 それにしても、なにゆえサトウはここまで激しく立腹したのだろうか?


(なぜ京都の朝廷は我々イギリス人をこれほど邪険じゃけんにするのか?この前は朝廷のれい幣使へいしが私を襲撃しようとしたではないか。私は『英国策論』を書いて朝廷の権威拡大に貢献してきたというのに、その仕打ちがこれなのか?イギリス人が大津や伏見を通ったからといって一体何の問題があるというのか?)

 サトウの本心はこういったものであった。


 なるほどサトウの不満はもっともである。

 けれども、朝廷に対する不満を自分たちにぶつけられた幕府(米田)としては、いいつらの皮であったろう。


 二人と米田とのやりとりは夜中の三時まで続き、最後にはミットフォードが米田から提出された反省文書を了承し、二人は宇治経由で大坂へ向かうことを受けいれた。


 翌日、サトウたちが草津を出発していし山寺やまでらへ行ってみると寺の僧侶そうりょたちが急いで門のところへやって来た。

 そしてすぐに門を閉ざしてサトウたちの受け入れを拒絶した。

「フォックス(平山)が言っていた拝観はいかん許可の約束なんて、所詮しょせんこんなものさ」

 サトウとミットフォードは思いっきり米田に嫌味を言って、再び宇治行きの山道へと戻った。


 二人は山道を越えて午後四時、宇治に到着した。

 そこへ幕府から派遣された山崎龍太郎がやって来た。彼はサトウと東海道を旅した時に「喜多きたはち」とあだ名されていた外国奉行の役人である。

 山崎は二人を伏見へ立ち寄らせないようにするため派遣されたのだが、昨夜二人とやり取りをした米田が山崎に事情を説明した。

「伏見では宿泊せず、小休止するだけで、すぐに船で大坂へ向かうことになってます。なんとか大津の回避は二人に認めさせたので、伏見での小休止はこちらも認めざるを得ません」

 結局山崎もこれを了承し、二人はこのあと伏見へ入って本陣に立ち寄った。サトウは前回東海道の旅の時にワーグマンと一緒にここへ泊まったので今回は二度目である。


 そしてここで風呂に入り、夕飯を食べていた。

 この時、野口がサトウのところへやって来て次のように告げた。

「別手組の者から聞いたのですが、この伏見で土佐の連中がお二人の命を狙っているそうです。土佐人は獰猛どうもうな奴らですから、十分お気をつけ下さい」


 二人は夕飯を食べ終わるとさっさと船に乗り込んで伏見を出発したので、結局土佐人による襲撃は行なわれなかった。

 この襲撃計画の真偽しんぎは不明だが、ひょっとするとサトウたちを伏見に入れたくなかった幕府がでっち上げたデマだったのかもしれない。またあるいは、このあと出てくる長崎での事件が誤って伝わった可能性も考えられる。


 サトウとミットフォードは夜船で淀川を下り、翌日大坂に入った。

 そして長崎から船で来たパークスも、ちょうど同じ日に大坂へやってきた。

 七尾で別れて以来の再会となったパークスに、二人は道中のことを報告しようとしたところ、逆にパークスから長崎で起こった重大な事件を聞かされることになった。


 いわゆる「イカルス号事件」である。


 七月六日の夜、おそらく犯行時間は翌七夕たなばたの午前零時頃だと思われるが、長崎の丸山まるやま遊郭ゆうかく。現在の丸山公園のあたり)でイギリス軍艦イカルス号の水兵二人が何者かによって斬殺された、という事件である。


 犯行現場を見た者は誰もおらず、「土佐とさ海援隊かいえんたいの連中がやったに違いない」という噂だけが広まることになった。

 言うまでもなく、海援隊とは亀山社中から名前を変えた坂本龍馬の私設団体である。


 海援隊に嫌疑がかかったのは次のような状況証拠があったことによる。


「犯人は白い服を着ていたらしい」(海援隊士は「亀山の白袴しろばかま」として有名だった)

「その日の夜、犯行現場の近くを海援隊士たちが歩いていた」

「犯行直後に土佐藩(海援隊)の横笛よこぶえ丸が、続いて数時間後に南海丸が長崎港を出港し、横笛丸はすぐに戻ってきたが南海丸はそのまま長崎から去って行った」(犯人は横笛丸で長崎を脱出して、沖で南海丸に乗り移って逃げ去ったのではないか?と疑われた)


 これらの状況証拠の他に、サトウが野口から「土佐人は獰猛どうもうな奴らですから」と忠告されたように

元来がんらい土佐人はケンカっぱやいことで有名だった」

 とサトウは書いている。おそらくこのことも嫌疑をかけられた原因だっただろう。「あの海援隊の連中ならやりかねない」と。


 七尾港でサトウたちと別れたパークスは、その後たまたま長崎に入港してこの凶報きょうほうに接することになった。

 無論パークスは激怒した。そしてこれらの状況証拠から

「土佐海援隊の人間が犯人であることは間違いない」

 とパークスは「断定」したのである。


 パークスが何か政治的な意図があって「土佐人が犯人である」と断定したとは思えないが、この「断定」によって政局の動向は大きな影響を受けることになった。


 特に土佐藩が一番大きな影響をうけ、個人的には坂本龍馬が一番大きな被害をこうむることになるのである。


 そしておそらく、この「長崎で土佐人が二人のイギリス人を殺した」という噂が伏見にも伝わって

「伏見でも土佐人が二人のイギリス人(サトウとミットフォード)を殺そうとしている」

 というふうに誤ってえられてしまったのではないか?と筆者は想像する。

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