第33話 最後の攘夷決戦
第十章・残り火 3<最後の攘夷決戦>
堺事件が決着したことによって、
イギリスとオランダは元より京都への招待を
問題はフランスのロッシュの対応である。
堺事件が起きる前までは、ロッシュは京都への招待、すなわちそれは「新政府を承認する」という事とほぼ同義になる訳だが、これに強く反対していた。
しかしやはり、堺事件によって一変して立場が強くなったロッシュは、新政府からの京都への招待を受けいれる方針に転換した。ただし、一応
「京都での謁見をイギリスに独占させる訳にはいかないから、仕方なく行くのだ」
などと述べているが、もし堺事件がなければ、フランスはいずれ頭を下げてでも天皇に謁見させてもらわないといけなくなるところだったので、まったくもって「
そして三ヶ国の京都での謁見は二月三十日と決まった(誤字ではない。旧暦なのでこういう日付もある)。
そこでその数日前から三ヶ国の代表団は、大坂から京都へ向かって順次出発して行った。
京都に西洋諸国の代表団が入るのは初めてのことである。
この少し前にサトウ、ウィリス、ミットフォードなどのイギリス人が入京してはいるものの、これはほとんど個人レベルの話で、しかも薩摩藩や土佐藩が独自で招待しただけの話だった。
ところが今回の入京は、なんと「御所で
これはまったく、多くの日本人にとっては
それゆえ当初は
「せめて大坂で謁見するという形にしてはどうか?」
という意見もあった。
しかしこの謁見計画を外国人の側から支援してきたサトウは
「大坂での謁見では正式な謁見にならないので京都で謁見すべきである」
と強く主張してきた。
そして「
けれども朝廷内ではまだまだこの謁見に多くの公家たちが反対していた。
おそらく岩倉具視や三条実美(二人とも幕府時代には長らく御所から追放されていた人物だが)などを除けば、ほとんどの公家が反対していたと思われる。
そもそも幕末の攘夷の発信源は
だからこそ、これまで多くの志士たちが尊王攘夷に
「外国人が御所で帝に謁見するなど、もし久坂玄瑞が生きていたら何と言ったであろうか?」
「尊王攘夷の長州が開国の幕府に勝ったのに、その結果、外国人が御所で帝に謁見することになろうとは夢にも思わなかった」
と、この動乱の時代を生きのびてきた尊王攘夷の志士たちは言いたかったであろう。
それは朝廷内で薩長を応援してきた多くの公家たちも同じ気持ちだった。
そういった公家たちはしきりに反対工作をおこなったものの、大久保や岩倉たちによってそれらの反対工作はことごとく潰されていった。
そして今まさに、謁見は実現されようとしていた。
三ヶ国の宿舎はイギリスが
サトウたちイギリス公使館員および騎馬護衛兵の一行は二月二十八日、東山の知恩院に入った。
京都の人々は外国人の一行を見るのが初めてだったので
翌二十九日、サトウやパークスは三条実美、岩倉具視、
挨拶が終わって宿舎へ戻ると伊達
「サトウは
とイギリス側から言われたのである。
日本側からすれば、もちろんパークスの前ではそんなことは言わなかったが
「サトウこそが『英国策論』を書いた一番有名なイギリス人で、イギリス公使館の最重要人物である」
と思っていたので皆が驚いた。
イギリス側で謁見の場に参列するのはパークスとミットフォードだけである。
ただしサトウやウィリスといったその他の公使館員たちも御所の控えの間には随行することになっている。
この時サトウが謁見の場に加わらなかった理由は定かではない。
後年のサトウやミットフォードの著書では
「この頃のサトウは本国イギリスの
と書かれている。無論ミットフォードは上流階級なのでその資格があった。
要するに身分的な問題ということであった。
けれどもこの二ヶ月後、実は大坂でサトウは天皇に謁見することになるのである。この大坂でのケースはいろいろと細かな事情が異なるにせよ、とにかく、その時は謁見するのである。
この大坂での謁見の時にサトウは
「正式な礼装用の服がなくて困った」
と書いているので原因はそのあたりにあったのかもしれないが、この翌日の謁見に加わらなかった本当の理由はよく分からない。多分パークスの気まぐれか何かであろう、と筆者は思う。
結局、式の
天皇(
次にそれが英訳されたものを通訳の俊輔が読み上げ、その英文をパークスに手渡す。
そしてパークスが
普通に考えれば、
しかし俊輔がそれに取って代わる形となった。
この通訳の任を俊輔につとめさせようとしたのは、木戸だった。木戸が新政府の上層部にはたらきかけてこのような形になったのである。
打ち合わせが終わった後、俊輔は
「先ほど岩倉さんがワシに言ってました。かつては自分も攘夷だったが今は開国に一変した、イギリスの朝廷支援には感謝している、などとあからさまに言い過ぎて、イギリスは気分を害さなかっただろうか?と」
「いいえ。我々は
「それにしても驚きました。あなたのように英語も日本語も正確に話せる人が通訳をやらずに、私のような人間が通訳をやることになるとは。まったく心苦しい限りです」
「政治の世界では通訳の技量などより重要なことがいくらでもあるのです。伊藤さん、
「私のような
「兵庫知事になり、今度は帝の近くに仕えるようになって、まるで伊藤さんの大好きな太閤秀吉のような大出世ですね」
「いやいや、
サトウは「驚きと喜びと嫉妬が入り交じった複雑な気持ち」で、俊輔を見つめた。
(伊藤は私を
「伊藤さん。またイギリスへ行きたいですか?」
「イエス!今度こそもっとしっかりイギリスを見て回りたい。そして五十年、百年先には日本をイギリスのような強い国にしたい」
「五十年、百年先ですか」
「夢のような話かもしれないが、こんな私でも
「我が大英帝国は百年先でも世界一ですよ」
翌、謁見当日、サトウたちイギリス代表一行は午後一時に知恩院を出発して御所へ向かった。
知恩院を出ると
このルートは結構狭い道が続き、イギリス人一行と
公使館付き騎馬隊十数名と中井
その後方には陸軍歩兵部隊の数十名が徒歩で進み、ミットフォードやウィリスが
「狂信的な憂国の志士の襲撃をうける番が、いよいよ我々に回ってきた」
とサトウは著書で書いている。
列の先頭が縄手通りに突き当たり、右へ曲がってしばらく行くと、左右の
左側からは短髪で僧侶のような三十歳ぐらいの男が、右側からは総髪で医者のような二十歳ぐらいの男が、同時に先頭の騎馬隊に襲いかかった。
二人はとにかく狂ったように刀を振り回し、イギリスの騎馬隊に斬りかかった。
不意を突かれたイギリスの騎馬隊は大混乱に
しかし護衛の肥後藩兵たちは全くやって来る様子はなかった。
中井はすぐに馬から飛び降りて、右側の医者のような男に斬りかかっていった。
斬り結んでいるうちに中井は礼装用の
と同時に、中井は相手の胸に刀を突き刺していた。相手はひるんで中井に背を向けた。
この時、列の中団から後藤が駆けつけて来た。後藤はその男の背中に斬りつけ、男は地面に倒れた。
そこへ中井が「チェストー!」と叫んで首に一撃を加え、その男の首をはねた。
まだ道を曲がっていなかったサトウは、右折先で何が起きているのか分からなかった。
とはいえ何度か叫び声が聞こえ、しかも列が混乱している様子からして、何かただならぬ事が起きているのは分かった。
そう思った瞬間、列の左側から
その僧侶のような男は、傷と返り血で顔が
その男はなぜか、彼の標的であるはずのパークスがすぐ近くにいるのに気づかず、サトウに向かって一直線に走って来た。
男がサトウに斬りつけて来た瞬間、サトウはとっさに馬首をその男へ回した。
そして男はサトウの
あまりに唐突過ぎて死の恐怖を感じる暇もなかったが、まったく危機一髪のところであった。
薩英戦争と下関戦争以来、サトウにとっては三度目の命拾いということになった。
列の後方で駕籠に乗っていたミットフォードは異変に気づくとすぐに
そして駕籠を横にして道をふさぎ、男の逃げ道を
そこでイギリス陸軍歩兵部隊の隊長が兵士たちに「その男を斬れ!」と命令した。
兵士たちは数人がかりで男を銃剣で突いた。男は何ヵ所か傷を受け、刀もはじかれて落としてしまった。
すると男は家屋の中に飛び込んで逃走をはかり、兵士たちがその後を追った。
このあと男は家屋の中庭で
この襲撃で十名のイギリス兵と中井が負傷し、さらに
しかし当然のことながら、この日の謁見は中止となり、イギリス代表団は知恩院へ引き返すことになった。
この時すでにフランス代表団とオランダ代表団は御所の
これらの代表団を
ところが肝心のイギリス代表団の到着が遅い。
(イギリスは一体どうしたのだ?途中で何かあったのだろうか?)
と俊輔は心配した。
そこへパークスが書いたロッシュ宛の手紙が届き、同時に護衛役の肥後藩兵からもイギリス代表団が浪士に襲われて多数の負傷者が出た、との
俊輔は
(これをこのままロッシュたちに伝える訳にはいかない)
と思った。
急いで上司の山階宮と伊達宗城のところへ行って、次のように報告した。
「今は仏、蘭の両代表に事件のことを知らせるべきではありません。もしこの事を知れば謁見式を辞退すると言い出すかもしれません。このまま仏、蘭両国の謁見式だけ先にやってしまいましょう」
山階宮と宗城はこの俊輔の提案を了承した。
ともかくも、いよいよ俊輔が謁見式で通訳をつとめる晴れの舞台がやってきた。
最初に
真ん中で天皇が椅子に座り、その左右に山階宮、岩倉、三条たちが
段取りは予定通り、用意した書面を天皇と山階宮が読み上げ、それを俊輔が英語で読み上げた。
ただしこのフランス代表にはロッシュ専属のフランス語通訳(
ちなみにこの謁見に同行したトゥアール艦長は、通訳をしていた俊輔の服装(
フランスの儀式が終わると、次にオランダ総領事のポルスブルックが謁見の間に呼ばれた。
謁見の儀式はフランスと同じだった。ポルスブルックの報告書によると、やはりこの時も俊輔が英語で通訳をしたようである。
この日の謁見式が終わると宗城や東久世といった外国事務総督はもちろん、有力な公家や大名が続々と知恩院のイギリス宿舎を
知恩院は野戦病院と化していた。
ウィリスや軍医たちが負傷者の治療に当たったところ、多くは重傷化を避けられそうだったが、片腕が再起不能になっている者が二名いた。
捕まった犯人は
また首を切られた犯人は
二人とも
三枝は捕まってからは
「外国人を今まで一度も見たことがなかった。こんなに親切とは知らなかった。事前に知っていたらこんな事はやらなかっただろう。同僚(朱雀)が死んだことは知っているので自分の首も早くはねてほしい」
などと語った。
ウィリスの手紙によると、三枝は斬り込むに当たって書状(おそらく“
「京都の町が外国人医師によって
と書いてあったらしい。
要するに三枝たちが狙っていたのはウィリスだったのである。
そのウィリスは、三枝を治療した際に彼と親しく話もしており
「自分をつけ狙っていた暗殺者と話をするのは不思議な感じがする」
と故郷への手紙で書いている。
三枝と話をしたのはウィリスだけではない。ミットフォードも彼と話をしている。
そしてミットフォードも
「自分を殺そうとしていた相手と話をするのは奇妙な感じがするものだ」
と著書で書いている。さらに
「犯人はサトウが日本語学者として有名なことは知っていたが、サトウが
と書いている。
このウィリスとミットフォードの記述から分かることは、おそらく三枝たちはこの直前にサトウやウィリス、それにミットフォードが入京したことを聞きつけて、外国人が京都へ入ったことに
パークスは今回の事件をうけて日本側に次のような声明を伝え、
「攘夷思想によって外国人を襲撃した者を処罰する際は、神戸事件や堺事件のような“切腹”を命じるのではなく、“斬首”など不名誉な死罪を科すことが必要である。今回の事件は私に対する以上に、
新政府は岩倉、三条たちの連名でパークスに謝罪状を提出し、負傷者への慰謝料の支払い、三枝の斬首などを確約した。
ちなみに勇敢に戦った後藤と中井には、後にイギリス政府から記念の
俊輔は木戸とともに知恩院のサトウの部屋を訪れた。
「あなたに
「まさに
木戸が
「バカな奴らだ。せっかく幕府を倒したというのに。なぜそこで満足しなかったのか。あのように古臭い攘夷を信じている狂信者がまだいたのか」
俊輔は過去の自分を反省するかのように、つぶやいた。
「まあ、今この場で言うべきではないのかも知れませんが、少し気の毒ではありますな。無知の罪というやつです。もし私が洋行していなかったら、ひょっとすると今頃あんなふうになっていたかも知れません」
木戸は攘夷の思想が無意味でなかったことを分かっている。彼らの無鉄砲で命知らずな行動があったればこそ、幕府は倒れたのである。
また大久保一蔵がよく言っている「外国人を打ち払うといった目先の小攘夷よりも、
けれども、そういったことを外国人のサトウの前で言うのは、それこそ今この場で言うべきではないような気がしたので、別の言い方をした。
「……我々長州や薩摩はこれまで散々攘夷を利用して幕府を苦しめてきたが、今度は我々が反対勢力からいろんな口実で苦しめられることになるだろう。とにかく、すぐにでも外国人への襲撃は
サトウは冗談でも言うようにおどけて言った。
「まったく世の中、不公平です。彼らを利用したあなたたちが襲われるのなら
俊輔は
「世の中は訳のわからないことばかりですよ。外国人が御所で帝と謁見し、私が
もう一度サトウがおどけて言った。
「伊藤さんが帝の英語の通訳をやってることが一番信じてもらえないと思いますよ」
「まったくだ」
と俊輔と木戸が笑って答えた。
ここで一同からハハハと笑い声があがりそうになったのだが、多数のイギリス人負傷者が近くに横たわっていたので、三人は笑うのを遠慮した。
『一外交官の見た明治維新』(岩波書店、訳・坂田精一)には次のような一節がある。
「この明らかに英雄的な気質をもった男が、祖国をこんな手段で救うことができると信ずるまでに誤った信念をいだくようになったのを遺憾とせずにはいられなかった。しかし日本の暗殺者の刃に
このいわゆる「パークス襲撃事件」を最後にして、これ以降外国人を狙った「攘夷襲撃事件」は完全に影をひそめることになった。
なにしろ外国の代表団が御所で天皇と謁見する時代となったのだ。
攘夷が消滅するのは当然のことであった。
ここまで実に長かったが、とうとう攘夷の火が消えた。消えてしまった。
三月三日、このめでたい節句の日に、イギリス代表団の謁見式が改めて御所で行なわれることになった。
謁見の形式はフランスやオランダの時と同じで、天皇の言葉を俊輔が通訳した。それは次のような内容だった。
「貴国の
ただし、この日のイギリスの謁見についてのみ、次の一文も追加された。
「去る二月三十日、
こういった天皇の言葉を俊輔が通訳して、パークスとミットフォードに英語で伝えた。
これに対するパークス公使の
「陛下、女王陛下は健在でございます。陛下がお尋ねの両国
といった(本当はもっと長文の)外交儀礼的な返答がなされた訳だが、これも俊輔が日本語に通訳して天皇に
これは幕末の最後を
以後、伊藤俊輔こと伊藤博文は、この明治天皇とともに明治日本の政治を
一方、このとき御所の控えの間で待機していたサトウは、明治日本の政治の世界にそれほど大きく関わることはなく、以後「学者的外交官」の道を歩んで行くことになる。
この象徴的な場面をもって、伊藤俊輔の物語を終了にしたいと思う。
そしてサトウの物語も、基本的にこれで終了である。
ただし、サトウのほうは最後に大きめの余談が一つ残っている。
この十数日あとに江戸でおこなわれる西郷と勝の交渉、いわゆる「江戸開城」の話である。
この江戸開城には
「サトウやパークスが関わっていた」
と、よく言われることがある。
いわゆる「パークスの圧力」というやつである。
実際のところサトウやパークスが江戸開城にどれほど関わっていたのだろうか?
この『伊藤とサトウ』の小説で、サトウの物語は基本的に『遠い崖』(
サブタイトルに「江戸開城」と付いているだけあって、この中ではその当時のサトウやパークスの動きが詳しく紹介されている。
京都での謁見が済んだ後、サトウやパークスたちイギリス公使館員は(ミットフォードだけ
横浜に着いたのは三月八日のことでパークスは三ヶ月ぶり、サトウは四ヶ月ぶりの横浜帰還となった。
サトウはさっそくパークスから命令を受けて、翌三月九日に江戸へ出て来ることになった。
またこの頃、
江戸総攻撃の予定日は三月十五日である。
有名な西郷と勝の高輪および田町での談判はその前日と前々日、すなわち三月十三日と十四日なので、この段階でもう数日しか残っていなかった。
サトウが江戸総攻撃の前に西郷や勝と連絡を取るためには十日、十一日、十二日の三日間しかなかった訳である。もちろん、それまでお互いがどこで何をしていたのか?ということも知りようがなかった。
この『遠い崖』7巻「江戸開城」が出版される以前は、主に『史談会速記録』の
「西郷が江戸総攻撃を中止したのは三月十三日にパークスの圧力があったからで、それを仕組んだのはサトウと親しかった勝である」
といったような説が多く聞かれた。
しかしこの『遠い崖』7巻「江戸開城」の解説では
「サトウは西郷・勝会談の情報を事前につかんではおらず、勝とも会ってない。パークスが新政府軍の渡辺清たちに激怒した(圧力をかけた)のは三月十三日ではなくて三月十四日である。したがって西郷・勝会談の前にパークスの圧力が届いた可能性は低い」
としている。ただし
「西郷がパークスの圧力を受けなかった訳ではなく、江戸総攻撃を唱える新政府内の主戦派(板垣退助など)を
とも解説している。
実際西郷は板垣や京都の主戦派を抑えるために「パークスも江戸総攻撃や慶喜を殺すことに反対している」といった理由を使って、パークスの圧力を「利用」した。
筆者の考えは、こうである。
この江戸開城で重要なのは
「慶喜が恭順し、旧幕府軍の責任者が勝になったこの段階で、そもそも基本的に西郷など交渉当事者のほとんどすべてが江戸総攻撃に反対している」
ということである。
西郷、勝、パークス、サトウ、誰も戦火で江戸を焼きたいなどとは思っていない。
例外なのは兵士たちの戦闘意欲(士気)を下げたくない新政府軍の指揮官だけである。
確かに西郷はその指揮官の一人ではあるが、だからといって旧幕府軍がよほど強硬に抵抗しない限り、江戸を焼くつもりなどない。そんなことをしても意味がない。
あとは西郷と勝という、この交渉事を得意とした二人による条件闘争の問題である。
「何がなんでも三月十五日に総攻撃をしなければならない」という理由はないのだから、別にパークスの圧力があろうとなかろうと、西郷がとりあえず攻撃を延期する判断をしたのは当然のことだろう。
そして両者の条件闘争はこの後もしばらく続き、ついには上野戦争(彰義隊戦争)で完全決着となるのである。ただしその決着をつけたのは長州の大村だが。
“パークスの圧力”をことさら唱える人は
「西郷や勝が江戸開城を成功させたなどと偉そうに言うが、所詮
と西郷や勝、特に西郷の江戸開城に果たした役割を
しかし『遠い崖』の著者、萩原延壽先生は以下のように述べている。
「外国勢力と接するさいの西郷の態度の中に、これを「利用」しようとする動きは見られても、これに「依存」しようとする傾向は見られなかった。外交関係を重視するといっても、それを「利用」するのと、それに「依存」するのとでは、本質的な相違がある。西郷に濃厚に見られたのは前者の態度であって、ときにそれは「謀略」の様相を帯びることさえあったが、ともかくそこには「依存」の従属性とはっきり縁の切れた、独立の気概と呼びうるものを
西郷は大国(イギリス)を利用しても、依存はしない。筆者もこの意見に賛成である。
とにかく、渡辺清の談話「江城攻撃中止始末」に書かれているように「たまたま新政府軍の人間が横浜へやって来た」という偶然によってパークスは江戸開城に関わることになった訳だが(一応これも萩原先生は「西郷の謀略」の可能性に含みを持たせた書き方をしているが)サトウはどうみても関わっていない。
西郷と勝が談判した高輪および田町の薩摩藩邸は、サトウが住んでいた高輪の
とはいえ、もし接触できていたとしてもサトウに何かできたとは思えない。
相手は西郷と勝という
サトウは黙ってなりゆきを見ているしかなかったであろうし、実際それが正解だっただろう。サトウのような政治的駆け引きに
倒幕が成り、新政府が始動しつつあるこの時をもって、サトウの役割は終了した。
そしてそのことを本人も自覚した。
この約一ヶ月後、サトウは
幕末日本を駆け抜けた、青年サトウの冒険は、これで終わったのである。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます