第32話 堺事件
第十章・残り火 2<堺事件>
滝の
そしてサトウが積極的に新政府と交渉して、六ヶ国代表が天皇(のちの明治天皇)と
新政府にとって、これほど重要な儀式は他にない。
六ヶ国代表が天皇と謁見すれば、事実上六ヶ国が天皇の新政府を認めたことになり、旧幕府は完全に国際社会から非承認の存在となるのである。
もちろん、フランスのロッシュは猛反対した。
江戸で慶喜から恭順謹慎の意向を聞かされて幕府再興の望みが無くなったとはいえ、これまでずっと薩長や朝廷と反目してきたロッシュが、そうおいそれと新政府を承認できるはずがなかった。
しかし幕府再興の望みが消えた今、もはやロッシュにとっては、というよりもフランス国家としては、新政府を認める以外に選択肢は無いのである。
ただし、この頃すでにロッシュは新任のフランス公使と交代することが決まっており(ロッシュの新任地は指定されず、五十八歳という年齢もあってこのまま引退となる)その新公使が到着するまでは、このまま我慢するしかなかった。
おそらく新公使と交代すれば、これまでのロッシュの仕事は「ロッシュの日本での大失敗」として日本人、外国人、さらに本国フランス政府から散々にこきおろされることになろう。また歴史書にもそのように記録されるであろう。これは誇り高いロッシュには耐えられないことだった。
フランスとしては、モンブランという存在がいたことは、ある種の救いだった。
モンブランはフランス政府が公式に認めた公人ではないが、フランス人の一人として薩摩藩に入り込んで新政府に重用されていた。新政府(薩摩藩)が神戸事件の対応を協議する際にも、その中にモンブランが加わっていた。
実際ロッシュも本国政府への報告書の中で
「モンブラン氏が、非公式ではあるが独自の手法でフランスの影響力をそれなりに新政府に対して保持している」
ということを認めて(もちろんロッシュとしては非常に不本意なのだが)そのように報告している。
またアメリカ、プロシア、イタリアにもそれぞれ事情があって、天皇との謁見には消極的だった。
まずプロシアとイタリアは、神戸に自前の軍艦を派遣していなかった。
どちらも日本では新興勢力であり、軍艦を用意するほどの余裕はなかった。それゆえ横浜から神戸の移動もアメリカの軍艦に頼っていた。
そしてそのアメリカは、少し前まで南北戦争という内戦をやっていた関係から日本での影響力は大幅に低下しており、まったく英仏の
例えばプロシア(ブラント公使)などはこの後、会津藩や東北の諸藩を利用して
さはさりながら、これら三国が天皇との謁見に消極的だった一番の理由は、兵庫開港以来、思いもよらない戦争の勃発などもあって
そもそもこういった長期滞在の準備をしてきた訳ではなかったし、さらに長期間留守にしていた横浜が心配だったのだ。
イギリスなどは公使館員が大勢いるので横浜や江戸に留守番を置いて定期的に船で連絡を取り合っていたが、イギリス以外の国はそれほどたくさん人員がいる訳ではなかった。それゆえ自分の目で横浜の状況を確認したかったのである。
なにしろこの頃、新政府の東征軍が江戸へ向かおうとしていた。東征軍が通る東海道から横浜はそう遠くない。
横浜がどうなるのか?旧幕府軍や新政府軍から攻撃されるのではないか?
それが心配で一度横浜に帰りたかったのである。
そういった訳で、これら三国は天皇との謁見を待たずに横浜へ帰ることになった。
ちなみにこの頃、京都にいた土佐の山内容堂が重病にかかったということで、新政府が再びウィリスに治療を依頼した。
そこでウィリスは、今度はミットフォードと一緒に京都へ行くことになった。
前回サトウとウィリスが京都へ行った時にミットフォードは病気で寝込んでいたため同行できず悔しがっていた。それで今回はミットフォードが同行することになったのである。
二人が大坂を出発して京都へ向かったのは二月十四日のことだった。
あけて二月十五日。
サトウは京都でおこなう六ヶ国の天皇謁見について外国事務総督の伊達
午後、宗城は大坂の六ヶ国代表を訪問して京都での謁見に招待したが、アメリカ、プロシア、イタリアは前述のように「一度横浜へ帰る」という理由で招待を辞退した。
オランダは特に反対する理由もなかったので招待を受けいれた。
そしてフランスは、長時間宗城を夕食にひきとめながらも、やはり招待を拒否した。
宗城が最後にイギリス公使館へやって来た頃には深夜になっていた。
この天皇謁見の計画は新政府を支持するサトウやパークスが進めてきた話なので、無論パークスは招待を
ところがちょうどこの時、
パークスは厳しい表情をしたまま無言で部屋を出て行き、フランス公使館へ向かった。各国代表が集まって「緊急事態」に備える協議をするためである。
この「緊急事態」というのは「フランスと土佐藩との戦争」また最悪の場合は「諸外国と新政府との戦争」というケースも想定されている。
宗城もあわてて新政府の事務局へ帰って行き、一人残されたサトウは呆然と立ち尽くした。
(これで
いわゆる「堺事件」である。
先の神戸事件の解説で
「大体どんな事件でもその
と書いたが、この堺事件の場合、神戸事件以上に両者の主張が対立しており、とてもではないが筆者の立場でこの事件を客観的に解説することは不可能である。
いや。史料が限定されている事を考えれば(今さら新しい証言史料が出て来るとも思えず)おそらく
一般的に事実と認定されていることをなるべく客観的に述べるとすれば、フランス軍艦デュプレクス号の小艇二隻に乗って堺港の水深調査をしていたフランス水兵十数名が、この日の夕方、堺を警備していた土佐藩兵から銃撃を受け、十一名が死んだ、という事件である。
フランス人やその他の外国人が書いたものでは「フランス側はまったく挑発行為をしていない」としているものが多い。
一方、日本側の史料では「フランス兵が無断で堺に上陸して、婦女子を恐怖させ、神社仏閣に
一応「逮捕されそうになった二人が逃げ出した」という点では両者の主張は共通しているようである。
この事件では土佐藩兵の側はほとんど被害を受けなかったので、
フランス水兵たちはリボルバーの拳銃しか用意しておらず、しかもそれらは箱の中に入れたままにしていたらしく、ほぼ丸腰の状態だった。
ただしこの暴行には土佐藩兵以外にも
それにもかかわらず、フランス側は「堺の住民は終始我々に対して親切だった」と強調しているが。
土佐藩兵たちがこれほど激烈な行為に出た背景には、間違いなく「攘夷復活」の意識があった。
大岡昇平氏が『堺港攘夷始末』(中公文庫。未完の遺作だが九割方完成していたので刊行された)で発砲を命じたと思われる六番隊の隊長、
この行為をきっかけにして天皇と新政府が、さらに容堂と土佐藩が「攘夷実行」に踏み切ってくれることを狙った、という可能性は否定できない。この点で言えば、前回の神戸事件と背景は同じである。「攘夷」の薩長と朝廷が「開国」の幕府を倒したのだから今こそ「攘夷実行」すべきだ、との意識があったものと思われる。
長崎のイカルス号事件では土佐藩は
そしてもう一つの客観的な事実を述べると、この事件が発生したことによって
だからこそ、すぐに「陰謀論」を頭に思い描いてしまいがちなのだが、これはおそらく偶然であったろう。
いくらなんでも自国の若い兵士十数名を犠牲にしてまで、そんな陰謀をたくらむとは思えない。
この事件をきっかけにして
事件発生直後の場面へ戻る。
この
しかしこの日、陸路
この事件の解決にあたった日本側の実務者は外国事務
トゥアール艦長から連絡をうけたフランス公使のロッシュは、すぐに外国事務総督の東久世と宗城に対して行方不明者の捜索および土佐藩への厳罰を要求した。
これを受けて五代が堺へ行って行方不明者を捜索することになった。
五代は堺に入ると五百両の金を積み上げて「一人発見した者には三十両支払う」と宣言して行方不明者を全員見つけ出した、との逸話もある。とにかく五代はすみやかに行方不明者の遺体をすべて見つけ出し、デュプレクス号に送り届けた。
このあと東久世と宗城はロッシュを訪問して事件を陳謝するとともに
「一切の非は土佐藩側にあり、フランス人を殺害した土佐藩兵たちは監禁した」
と伝えた。
これで一応フランスと土佐藩との戦争に発展することは避けられたのだが、謝罪と賠償、特に「土佐藩兵たちの処分」という問題が大きく残ることになった。そして六ヶ国代表は抗議の意を表すため、再び大坂を去って神戸へ戻っていった。
翌十六日、事件の報は京都にいた容堂のところにも届いた。
その前日、すなわち事件があった十五日にウィリスは容堂を治療するために
もちろん同行してきたミットフォードも一緒だったのだが、サトウの時と同じように治療活動とは関係がないミットフォードは到着早々に
事件の報が京都の土佐藩邸に届くと藩邸内の空気は一変した。
容堂や後藤象二郎はウィリスやミットフォードに対してまったく誠実に振る舞っていたのだが、フランス人とイギリス人の違いはあってもやはり同じ西洋人であり、土佐藩とフランスが戦争になった場合この二人は敵であり、「攘夷」の対象なのである。
ウィリスの場合はまだ、容堂の治療のために来ていることを土佐藩士たちも理解しているので特別としても、ミットフォードは土佐藩士たちの厳しい視線にさらされた。
京都ではまだ、大坂や堺の事情はよく分からない。ひょっとすると堺では土佐藩とフランスが戦争している可能性もあり、事実確認ができないのである。
ミットフォードは
(えらいタイミングでえらい所に来てしまったものだ)
と
しかし容堂はミットフォードに対して「戻るのは一日だけ延期してもらいたい」と申し出た。
そしてミットフォードはこの申し出を受けいれた。
ミットフォードがこのような行動を取った理由は
「急いで土佐藩邸から逃げ出したと思われたくない。それにこうすることによって我々が新政府を信用していることを表明することもできる」
ということだった。
容堂や後藤、それに新政府の要人たちはミットフォードに深く感謝した。
さらに容堂はミットフォードに、ロッシュや各国代表へ自分の声明を伝えてくれるよう依頼した。その声明の内容は
「まったく今回の事件は自分にとって容認できず、家来たちの
といったものであった。
これで
神戸に戻ったミットフォードはさっそくこの伝言をパークスに伝え、さらにロッシュにも伝えた。
こうして日仏の関係は少しずつ改善方向へ向かっていった。
そしてロッシュは土佐藩および新政府に対して次の五つの要求を提示した。
一、三日以内に事件を指揮した士官二名と襲撃に参加した兵士全員を日仏の立会人の眼前で処刑すること
二、負傷者および犠牲者の遺族のために賠償金15万ドルを支払うこと
三、外国事務をつかさどる
四、土佐藩主(山内
五、当分の間、土佐藩士の条約港への立ち入りを禁じること
もとより土佐藩や新政府がこれらの条件を断れるはずもなく、一応すんなりと条件を受けいれたのだが、やはり最大の問題となったのは神戸事件の時と同じく第一番目の「処刑」の部分である。
「処刑の人数は何人なのか?」「切腹なのか、斬首なのか?」「切腹すれば郷士でも武士の身分を得られるという話は本当か?」「七十名の隊員中、隊長、副隊長の四名以外では誰が切腹するのか?」
こういった問題点について土佐藩や新政府の内部でいろんなやり取りがあり(その詳しい内容は大岡昇平氏の『堺港攘夷始末』などに詳しいのでここでは概略のみを記すが)結局処刑方法は切腹となり、人数は二十名と決まった。
箕浦たち隊長、副隊長の四名は無条件に切腹と確定した。あとは残り十六名を選ばなければならない。
土佐藩内では「事件の時、実際に銃を撃ったかどうか?」を七十名の隊員に聞き取り調査をした。
そのうち四十一名は「撃たなかった」と答え、これらの隊員は助命され、すぐに土佐へ送り返された。
残りの二十九名のうち箕浦たち四名を除くと二十五名になる。この二十五名の中から十六名を選ばなければならない。
土佐稲荷でくじ引きをして、十六名の切腹者を決めた。
この土佐稲荷はサトウもよく通った
二月二十三日、二十名の切腹は堺の
フランス側の立会人はデュプレクス号のトゥアール艦長で、彼は当日の午後三時半に堺の港に上陸し、二十名の部隊を率いて妙国寺へ向かった。ロッシュは立ち会わず、ヴェニス号で結果報告を待つことになった。
港から妙国寺までは民衆がびっしりとひしめいており、また妙国寺の周囲にも多くの侍たちがつめかけてきていた。
この日、日本側で儀式を取り仕切ったのは五代だった。
他に土佐藩の家老や目付が数人、さらに警備担当として芸州浅野家、肥後細川家の藩士たちが敷地内に詰めていた。
最初に切腹するのは六番隊の隊長、箕浦猪之吉である。
その切腹の様子は明治二十六年に書かれた『
箕浦は切腹する前にトゥアール艦長に
「おう!仏奴、
一方、箕浦が叫んでいた“仏奴”ことトゥアール艦長がこの切腹を見て書き記した感想は、次の通りである。
以下『フランス艦長の見た堺事件』(新人物往来社、プティ・トゥアール著・森本英夫訳)より引用する。
「台を手の届くところに置き、それからゆっくりと、静かに着ている物をすべて上から順に
フランス側の犠牲者数と同じ十一人目の切腹が終わったところで、トゥアール艦長は切腹の中止を五代に申し出た。時刻は夕暮れにさしかかっていた。
すでに十二番目の切腹者である橋詰愛平は控えの間から出て来て、切腹の席につこうとしているところだった。
五代は橋詰の切腹を止めた。
そしてフランス側の提案を土佐藩の家老、深尾
「二十名は皆、死を決してこの席へ臨んでござる。一度死を決してそれを
これに対して五代が意見を述べた。
「人命は時には
「しかしこれはあの将校だけの申し出にござれば、本当にフランス公使が承知するのでござろうか?もし不承知となって再び切腹を申しつけるとなれば我々の体面は丸潰れとなり、彼ら志士にとっても耐えがたき仕打ちとなりますぞ」
五代はトゥアール艦長に土佐藩側の意向を伝えた。
「公使が確実に切腹の中止を認める、という保証がないのであれば、土佐藩はこのまま切腹を続けさせて欲しいと言ってますが」
「それではこれからロッシュ公使のところへ行って正式に了承を取る。あなたも一緒についてきなさい」
トゥアール艦長はそう言って五代と一緒にヴェニス号へ向かう準備をはじめた。
五代は次の切腹者である橋詰愛平に対して、一旦控えの間へ戻るよう伝えた。
橋詰は静かに戻っていったが、トゥアール艦長から見ると、橋詰の表情に何の感動の様子も見られないことが不思議に思えた。
いや、不思議ではあるまい。一同
後に橋詰は、自殺未遂や精神錯乱を起こしたりすることになる。
直前に切腹した同僚(柳瀬常七)の
ヴェニス号に着くとトゥアール艦長はロッシュに事の経緯を説明した。
「万事終了しました。ただし処刑はこちら側の死者と同じ十一人で終了にしました」
ロッシュは不満そうな表情でトゥアール艦長に言った。
「それでは約束を果たしたことにはならないよ。なぜ勝手にそんなことを?」
「公使、私の判断はあなたのためを思ってやったことですよ。これでたっぷりと日本側に恩を売ったつもりですがね」
ロッシュは少しじっと考え、それから返事をした。
「まあ結果的には、これで良しとすべきだろう。よろしい。処刑の中止を許可する」
ロッシュの確約を得たトゥアール艦長は同行してきた五代に処刑の中止を伝えた。そして残り九名の切腹は中止されることになった。
くじ引きによって切腹を決められ、直前になって切腹を中止させられた末端の兵士たち九名が味わった
詳しくは大岡昇平氏の『堺港攘夷始末』や
そして、言うまでもない話かと思われるが、トゥアール艦長は箕浦たちの切腹の凄まじさに恐怖して切腹を十一人で中止した訳ではない。
中止した理由はトゥアール艦長の手記に書いてある。
十一人目の切腹が終わった頃にはもう日も沈みかけており、トゥアール艦長は切腹の儀式が夜まで続けられるのを嫌ったのである。この興奮した妙国寺周辺の状態から見て、また間違いがあって日仏間で衝突事件でも起きたら元も子もなくなってしまう。さらに言えば、切腹を名誉と思っている日本人に対して、これ以上切腹させても罰を与えたことにはならないと考えて、彼は切腹を中止させたのである。
戦前は、先述した『
「フランス人が日本人の壮烈な切腹に恐怖して切腹を中止させたのだ」
という説が強かったらしい。それで大岡氏や日向氏がそれに反論するようなかたちで『堺港攘夷始末』や『非命の譜』などを書いた訳だが、現代では堺事件のことはもちろん、戦前の風潮を知っている日本人もほとんどいないと思われるので、これはまあ、いちいち気にする必要もない話だろう。
だいたいフランス人はギロチンの公開処刑を楽しんでいたような人達だし、イギリスでもニューゲート監獄で公開処刑を見世物にしていた。しかもトゥアール艦長は軍人である。血を見るのを怖がっていては話にならないであろう。それでも一応ミットフォードは『回想録』の中でトゥアール艦長とこの件で話をした際に「彼は思い出しただけでも気分が悪くなって声が震えていた」と書いている。
ともかくも、堺事件はこの土佐藩士たちの切腹によって決着となった。
神戸事件は決着(切腹)まで二十七日かかった訳だが、この堺事件は八日で決着することになった。
日本側で事件処理の実務にあたったのは五代であり、彼と関係が深く、しかもフランス人であるモンブランがこの事件の処理に無関係だったとはとても思えない。しかし史料の面では彼はあまり表に出て来ていない。
ところでサトウはこの堺事件に直接関わることはなかったが、サトウの著書によると
「命が助かった九人はかえってひどく精神を痛めたと後で聞いたが、これは日本の
と述べて、さらに実際に切腹した土佐藩士たちの「愛国的な辞世の句」を英訳して著書に書き記している。
ここでは六番隊隊長の箕浦のことばかり取り上げて、八番隊隊長の西村佐平次のことをまったく取り上げなかったので最後に西村の辞世の句を紹介しておこう(箕浦の辞世が七言絶句で紹介しづらいという事もあるが)。英文はサトウが訳したものである。
風に散る
(Though I regret not my body which becomes as dew scattered by the wind ,my country’s fate weighs down my heart with anxiety.)
現在、妙国寺には土佐藩士とフランス兵を供養する塔があり、隣りの
また
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