第6話 御殿山と塙次郎
第二章・尊王攘夷 3<御殿山と塙次郎>
俊輔が江戸に到着した四日後の十一月二十七日、
将軍
すでに幕府上層部はその覚悟を固めていたとはいえ
江戸に帰って来た俊輔は久しぶりに土蔵相模で聞多と再会した。
「やはり品川の女は良い」
「京の女はダメかね」
「いや、久しぶりに江戸へ戻ってきたら、ここの馴染みの
「俺は久しく京へ行っておらんので京の女が恋しい」
「
「まあ将軍もいずれ上洛するし、近いうちに俺も京へ行くだろう。それまではおあずけだ」
「ところで金沢
「なに、あんなのは形式的なものに過ぎん。だからこうして相模屋にも来ているのだ」
それから俊輔は聞多から金沢の件を
「……そうだったのか。まったく相変わらず高杉さんは“
「それにしても金沢の件は残念だった。もう二度と失敗は許されん。実は今、高杉と次の計画を準備中だ。内々で
「焼玉だと?そんなものを何に使うのだ?」
「俺もまだハッキリとしたことは知らん」
「俊輔も計画に参加するかね」
「ワシも
そう言いつつも俊輔は内心
(なにしろ高杉さんの計画だからな。下手したら地獄行きだな……)
十二月十日、この日、横浜に竹内
総勢三十八名の使節団の中には福沢
福沢は
横浜のイギリス公使館の前は道路を挟んで目の前に海が広がっている。
サトウはエコー号の様子を見るために海岸沿いの道を歩いて行った。船のほうへ行ってみるとちょうどフランス公使のベルクールが出迎えの
サトウはおもわず故郷のことを思い出した。
(ロンドンへ行っていた日本の使節団が帰ってきたのか。ロンドンの父さんや母さん、家族の皆はどうしているだろう……)
この使節団は各国代表に挨拶をするため横浜へ立ち寄ったのだが実際に上陸するのは品川であり、それはこの翌日のことである。
この使節一行は一年前、イギリス船オーディン号で品川を出航してヨーロッパへ向かった。彼らの一番重要な使命は「
1858年(
しかし1859年の開港以来、日本国内は物価
幕府は当初のスケジュールでの「
途中フランスでの滞在も
その後しばらくするとオールコックもロンドンに到着した。彼は使節派遣にあわせる形で
そのオールコックが日英交渉を主導した結果、1862年6月6日(文久二年五月九日)「ロンドン
日本側の署名者は竹内下野守、松平
この「ロンドン
ただしその条件として日本側も様々な要求(主に貿易面での規制
この「ロンドン覚書」が基本となってそのあと他の西欧諸国とも同様の取り決めを締結した。
厳しい条件は付けられたものの、なんとか使節団は当初の使命を達成したのである。
ところがイギリスを離れてロシアへ行った時に第二次
西欧社会を体験してきた彼らにとって、外国との関係を
そう思っていた筆頭人物が福沢諭吉である。
横浜のエコー号の船上では、福沢と薩摩藩士の
「今回は運が良かったよ。もし生麦や東禅寺の殺傷事件がもっと早く発生して
松木がこれに答えた。
「そうだな。仮に延期に成功しても、もっと厳しい条件を飲まされたことだろう。なにしろ
松木は薩摩藩士ではあるが幕府の西洋学問所に
福沢は話を続けた。
「それにしても、やはり幕府だけで政治をおこなうのは難しいだろう。ドイツ連邦のように日本も諸大名を集めて連邦制にしたらどうだ?」
「まあ、その
「もし
「そりゃいい」
松木はそう答えながらも、内心では福沢の発言を否定していた。
(幕府にそんなことが出来るわけないだろ。
この松木弘安は薩摩の先代藩主・島津
松木はこの時代
蘭学者である松木は今回の欧州
松木は福沢に蘭学をやめると言った。
「日本の土を踏んだら蘭学はもう誰にも勧めるつもりはない。これからは英学一本槍だよ」
福沢は笑いながら答えた。
「そんなことは横浜で働いていた
この松木弘安はいずれ戦場でサトウと
余談ながら、サトウはこの使節団の市川
同じ頃、品川の土蔵相模では高杉たちが集まって新しい襲撃計画の準備をしていた。集まったメンバーは前回同様十数人だが、今回はそこに新しく俊輔が加わっている。
高杉は皆を前にして計画の
「幕府は攘夷の
話を聞いた一同は多少ザワついたものの特に反対の声は上がらなかった。高杉は話を続けた。
「焼き討ちは明後日の夜に決行する。この前の決起は失敗したが今度こそ絶対にやり
今回は外国人を直接狙った攘夷ではなく、あくまで幕府の権威
一同は高杉の計画を聞いて「それは面白い!」「
あとは焼き討ち用の焼玉が到着するのを待つばかりで、皆はそのままいつものようにこの土蔵相模での「
しかしこの時、俊輔と山尾に対しては、久坂から別の案件も伝えられた。
それは人を斬る仕事の話であった。
この翌日、福沢たち使節団一行は品川に上陸した。
彼らは一人も欠けることなく一年ぶりに故郷の土を踏んだ(ちなみにアメリカ行きおよび上海行きの使節では、それぞれ数名の病死者が出ていた)。
高杉たちが集まっている土蔵相模は品川の海に面している。
俊輔と山尾はその近くの海岸から、この使節団が上陸する様子をながめていた。
「知ってるか?俊輔、あの一行の中には我が藩の杉さん(
「無論、知っている。まったく
「おい俊輔、まさかお前も
「当たり前ではないか。松陰先生、桂さん、高杉さん、それに
「そうか。松門(松下村塾)の連中は
「まあ確かに塾では珍しいほうだろうな。もっともワシの身分では洋行など夢のまた夢だ」
「……それでな俊輔。久坂さんから言われた国学者
「ワシ一人で殺せるような腕がワシにあると思うか?剣術のできるお
「……まるで俺にやるかやらぬか決めろと言ってるような口ぶりだな」
「事実を言ってるだけだ。こんなときに
「俊輔、お前はこんな仕事がやりたいのか?」
「剣術使いでもないワシが暗殺の仕事などやりたい訳がないだろう?だけどお主は剣術ができるし、この前の金沢襲撃の時は喜んで参加したのだろう?」
「あれは暗殺ではなくて皆でやろうとした外国人相手の
「そうらしい。あの安藤閣老から命じられて
この大橋順蔵は、ちょうどこの年投獄されて既に死亡しているのだが、この人物については少し解説が必要だろう。
彼はこの年一月に起きた「
この大橋という男はかなり観念論に
「
と
そして塙次郎が廃帝の先例を調べて孝明天皇を
塙次郎は有名な
しかし、この当時の俊輔にとっては、付き合いのあった大橋の尊王攘夷思想を尊敬してもいただろうし、これが濡れ衣であったなどと知り
さらに一番重要なのは、俊輔の師松陰が尊王攘夷を唱えたことで幕府に処刑され、その松陰の無残な
それゆえ尊王攘夷の敵である(と勘違いされている)幕府の塙次郎を殺すことに、俊輔が
山尾は話を続けた。
「……そうか、そういう男か。まあ、どのみち我らのような身分の人間が断れる話でもないしな……」
「仮にワシらがこの話を断ったとしても、どうせ他の誰かが塙次郎を殺すのだ。だったらワシらの手柄としたほうが、お互い
「地獄行きの道かも知れんぞ?
「地獄へ行く覚悟がなければ、極楽へだって行けまいよ」
こうして二人は暗殺の仕事を引き受ける決心をした。
ついでに俊輔は土蔵相模へ戻る前に近くの店で
俊輔が土蔵相模の仲間のところへ戻ってみると放火用の焼玉が届いていた。
しかし部屋の
福原たちは先日来、桜田藩邸の
俊輔と聞多は焼玉を一つずつ手に取った。
焼き討ちの際、この二人は火付けの実行部隊である。
「だけど聞多よ。これを明日の夜まで持っているというのも心配だな。どこかに隠しておくか」
「よし。それならお
そんな訳で俊輔と聞多の焼玉は、聞多の馴染みであるお里の部屋に隠しておいた。
そして翌日の十二月十二日になった。
西暦で言えば1月31日であり、寒さの一番
この日の夜九つ半(午前一時)高杉たち一同は土蔵相模を出て、すぐ近くにそそり立っている御殿山へ向かった。夜分とはいえ遊郭から出て来る男たちなのだから別に誰もこれをあやしまなかった。
俊輔は意気
「聞多、抜かりはなかろうな?」
「俺に手落ちがあるものか」
御殿山には
ところが彼らは山上にある柵のことまで頭が回っていなかった。この柵をよじ登って中へ入るのは相当
久坂が
「誰もこの柵のことに気づかなかったとは無念だ」
そこですかさず俊輔が
「こんなこともあろうかと、ワシがのこぎりを用意しておいた」
と土蔵相模の天水桶のところに隠しておいたノコギリを取り出してギコギコと柵を切断し始めた。
これだけの
一同はノコギリで開けたところを通って中へ入った。
が、敷地内でとうとう番人に見つかった。
「何者だ!そこで何をしている!」
「我々は天下の志士だ!この山の上に
高杉がそう叫んで、番人がぶら下げていた
すかさず俊輔や聞多たち火付けの実行部隊がイギリス公使館の中へ入っていった。
「よし、聞多、焼玉を出せ!」
「しまった!お里の部屋に置き忘れてきた!」
「
とにかく別のもう一人が持っていた焼玉を使い、その周りに燃えやすいものを集めて火を付けたところ、なんとか炎を作り出せた。けれどもそれだけでは心もとないので炎の中に燃えそうなものを何でもかんでも投げ入れた。するとたちまち部屋中に火が燃え広がり、俊輔たちは建物から急いで逃げ出した。
この時俊輔はあわてて逃げたため土蔵相模の
一方聞多は聞多で、ノコギリで作った出入り口の場所がわからず、仕方がないので柵をよじ登って外に降りた。ところが目測を誤ってそのまま空堀りまで
山頂から空堀りまで落ちたのだから数十メートルは落下したであろう。
死ぬか骨折してもおかしくはなかったのだが、この殺しても死にそうにない
その後あちこちと道に迷ったあげく、どうにかこうにか高輪の近くまで来て
茶屋の
「これはまあ、一体どうしたことでございますか」
「いや、たった今御殿山で火事があって火消しが大勢走ってきたもんだから、それを避けようとしたら道端のドブに落っこちたのだ。えらい災難だった。それにしてもあんな所で火事が起こるなんて物騒な世の中じゃ」
そう平然と答えた聞多は、風呂で泥を洗い落として服を着替えた。そして
他の連中も皆
高杉と久坂は
そしてその周囲の部屋でも一般客たちが火事をながめて騒いでいた。
「御殿山の
「ざまあみろ!俺たちから御殿山を取り上げた罰だ!」
町人らしい真っ正直さ、かつ無責任さで彼らはこの焼き討ちを歓迎しているようであった。
そしてそのころ俊輔は、近くの農家の
駕籠で土蔵相模へ戻った聞多は、すぐにお里の部屋へ向かった。
いや。いくら聞多とはいえ、このボロ雑巾のようにくたびれ果てた状態でそれほどの精力はない。
例の置き忘れてきた焼玉が心配だったのだ。
誤って土蔵相模で爆発させたらお里の部屋はおろか、建物中が火の海になる。それに万一あれが幕府役人に見つかったら放火の犯人が聞多であるとバレてしまう。バレれば死罪は間違いない。
「お里、実はちょっといたずらをして額の裏に
「あなたは本当に乱暴ないたずらをなさいます。今、取り出して
お里はそう言うや、
「バカっ、やめろ!」
「まあ、ひどい
聞多は有無を言わさずお里から炭団を取り上げた。しかしお里は笑いながら言った。
「本当にそれはただの炭団です。ちょっと驚かせてみただけですわ。あなたが隠しておいた焼玉は私がさっき海に捨てました」
聞多はギョッとした。そして怖い目でお里をにらんで言った。
「焼玉だと?お前、なぜそれを知っている?」
「あのようにいつも大声でしゃべっていれば、あなたがたの計画は部屋の外まで
お里は涙を流しながら、そう聞多に言った。
聞多は「すまん、お里すまん」と深くお里に謝って、そのまま土蔵相模で泥のように眠った。
翌朝、火災現場を調べたところ
ただし実際のところを言えば、幕府は「犯人は長州藩の連中である」と
けれどもこの当時勢いのあった長州藩に遠慮したことと、さらにこの御殿山に公使館を建てることには朝廷(天皇)からの反対も強く、しかも江戸の民衆からの反対も強かったので、いっそこのままウヤムヤにしてしまったほうが好都合である、と幕府は考えたようである。
とにかくこれで、サトウが
ところで後年、サトウは次のように手記で語っている。
「その後、
この「もう一人」は後の
それから八日後の十二月二十一日の夜。場所は
この頃の江戸
余談ではあるが、塙次郎の屋敷の少し東のほうには村田蔵六が開塾した
練兵館に通っていた山尾はこの辺りの地理に詳しかった。
数日前、山尾は俊輔を連れて塙の屋敷を訪れ、二人で弟子入りを申し込んだ。
なぜそんなことをしたのか?というと、あらかじめ塙の顔を確認しておきたかったからである。
俊輔や山尾が塙を狙う理由はすでに書いた通りだが、このころ世間の攘夷熱が最高潮に達していたことも俊輔と山尾の心理状態に多少の影響を与えていたであろう。
おそらくこの前後の頃と思われるが、桜田藩邸の有備館で幕府のスパイと見られていた
このころ京都で“
こういった当時の攘夷熱が、俊輔と山尾の暗殺に対する拒否反応をやわらげてしまったことは、おそらく事実であったろう。
この日、塙次郎は
俊輔と山尾はその帰りを狙って
「寒いのう、俊輔」
「寒いと言うて寒さがおさまるものか。とにかく打ち合わせ通り、
「まあ仕方あるまい。剣の腕から考えれば俺が
「バカを言え。落ちついてなどいるものか。ただ、今さらジタバタしても始まらんからな。俺はやれる。きっと上手く行く。そう開き直っているだけのことだ」
「そのクソ度胸を見習いたいものだ」
「何を言うか。お主のほうがワシより強いのだぞ。ワシがお主を見習いたいぐらいだ。大丈夫、お主ならきっと上手くやれ……。おい、どうやら塙が来たようだぞ」
そう言って俊輔は自分の顔を隠すために
遠くから塙家の
俊輔と山尾は息を
三人はひたひたと歩いてくる。そしてついに三人は俊輔たちの目の前まで来た。
提灯を持った若党はやり過ごした。
次に続く付き人らしい若い男が近づいた時、俊輔と山尾は
山尾が付き人の若い男に無言で斬りつけた。
手ごたえがあった。かなりの
俊輔は「
山尾は若い男に斬りつけた後、すかさず振り向いて提灯を持った若党に向かって斬りつけに行った。しかしその男は叫び声をあげ、提灯を捨てて逃げて行った。
塙は
「闇討ちとは
俊輔は名乗らなかった。そしてもう一度塙に斬りつけたが、塙はそれを刀で受け流した。
「
「ほう、貴様
そう言って今度は塙が俊輔に斬りつけてきたところ、俊輔はとっさに横っ飛びをして、かろうじて塙の刀を避けた。そしてすかさず体ごと塙に飛び込んで、腰にくらいついて押し倒した。
「暗殺者はいずれ必ず暗殺者に殺されるぞ!」
俊輔は構わず塙に馬乗りになって胸のあたりを何度も突き刺した。
少し離れた所では山尾が付き人の若い男にとどめを刺していた。
そしてこの路上での騒ぎを、おそるおそる遠くからうかがっている人影がチラホラと目につくようになった。
山尾が俊輔に呼びかけた。
「やったか?」
俊輔は
「ハアハア……。ああ、やった。すぐに逃げよう」
二人は
後年、伊藤はこの時のことを次のように回顧している。
「あの時は実に
俊輔たちは後日、この犯行現場の近くに
「この者
さて、最後に一つだけ後年のエピソードを述べておきたい。
明治時代になってから山尾庸三は
俊輔と山尾が塙次郎を襲ったのは十二月二十一日だが、実際に塙次郎が亡くなったのはその翌日の十二月二十二日である。
旧暦と西暦の違いがあるとはいえ、この「十二月二十二日」が偶然の一致とは思えない。
塙次郎の父は「
山尾がこの時の暗殺を
年が明けて一月五日、高杉晋作は
その途中、馬に乗った高杉が
「朝廷からの
と叫んだ。
番人は
こうして物語は
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