第5話 武州金沢襲撃事件
第二章・尊王攘夷 2<武州金沢襲撃事件>
この頃、俊輔の友人である
長州藩は聞多たち数人に横浜での英学修行を命じ、藩がイギリスのジャーディン・マセソン商会から買ったランスフィールド号に乗せて航海術の修行もさせていた。
この船については「サトウが来日した時に乗っていた船である」ということを以前書いた。実は元々この船は同商会が薩摩藩へ売ろうとしていたのだが(その交渉を担当していたのは薩摩の小松
この買い取り交渉をしたのが横浜で長州藩の
この日、聞多の修行仲間である
「やはり村田先生が
これに対し村田は
「上手くいかないのは当たり前です」
壬戌丸は最初、外国人の船長を雇って船の動かし方を習っていたのだが「攘夷を
山尾は俊輔と同じく武士の身分ではない。
村田は以前、神奈川宿でヘボンに英語を学んでいたが、この頃ヘボンは横浜へ移ってきていた。ヘボンが建てた「ヘボン邸」は現在写真が残っており、場所を見ると
村田は山尾にたずねた。
「諸君らは藩から英学修行の費用として百両を下げ渡されたそうだが、聞くところによると
「ああ、知ってたんですか……。いや、
「最近高杉君たちが『外国公使を斬る』などと言って騒いでいるとか……。しかしまあ洋学を志している君には多分、無縁な話だろうね」
山尾は少し答えに悩んだあげく、
「……ですが、高杉さんや聞多も決して洋学嫌いという訳ではないんですよ。でも、私には攘夷や開国といった難しいことはよくわかりません。とにかく我々が船を動かすためにはもっと航海術を学ばなければなりません。一番良いのは私自身が海外へ行って修行することですが、私の身分ではおそらく洋行は難しいでしょう……」
英語のことわざで「悪魔の話をすれば悪魔が現れる」というのがある通り、この聞多の話をしている時、まさに聞多が山尾と村田の前に現れた。
「おっ山尾、ここにおったんか。ちょうど良かった。ようやくイギリス公使たちの
聞多は山尾に途中まで言いかけたが村田が同席していることに気がつき、話を途中でやめた。
そして村田に
一人残った村田は
(イギリス公使の金沢見物……?)
この日の夜、同じ横浜にいるサトウはいつものバーでウィリスと酒を飲んでいた。
「せっかくのクリスマスシーズンだというのに家族とも会えず、この横浜で寂しく過ごしている我ら二人の独身野郎に乾杯だ」
そう言って
「今夜は艦隊の乗組員たちが
当時横浜にいた
そのウィリスの質問にサトウが笑って答えた。
「ハハハ。別にストリップショーなんかわざわざ金を出して見に行かなくても、日本人はいつもそこらじゅうで裸をさらしているじゃないか。今は冬だからほとんど見かけないけどさ」
実際、当時の日本人は裸に対する
サトウも以前横浜の近くを馬で散策していた時に、通りかかった民家の庭で若くて美しい娘が露天風呂に入っている光景を目撃した。そして事もあろうにその娘は、珍しい外国人のサトウに興味を持ったのか
サトウは
当時外国人たちが馬で出かける時は「
「今晩は岩亀楼へでも行きますか」
と笑ってサトウを冷やかした。
別に彼らには悪意があった訳ではない。当時の日本男性からすれば
けれどもサトウは西洋人で、しかもこのとき彼はまだ十九歳だった。
すぐさま別手組の連中に向かって
「それ以上いやらしいことを言うと承知しないぞ」
と言って彼らを黙らせたのだった。
サトウは「岩亀楼に行って女郎を買う」ということにも抵抗はあったが、それより何よりこの当時のサトウは勤めだしたばかりだったので金も無かった。
そして実はウィリスも金が無かった。
サトウは以前、岩亀楼のことでウィリスに質問してみたことがあった。
「この前ワーグマンが『あの岩亀楼というのは“若い婦人の教育所”だよ』って言ってたんだけど……」
その話を聞いてウィリスは爆笑した。ちなみにワーグマンというのは
「ハハハ。そりゃ、ワーグマンにからかわれたんだよ、サトウ。確かに日本の遊郭では小さい頃から
そして最後にウィリスは
「まあ行きたくても、そんな金もないしな……」
実はウィリスがイギリスから日本へやって来た最大の理由は「金を稼ぐため」だった。まとまった金を故郷へ仕送りしなければならないのだ。
彼がイギリスの病院に勤めていた頃、病院で働いていた女性を妊娠させてしまい、この一年程前、生まれた子供をウィリスが引き取った。現在その子は兄の家に預けられており、ウィリスは養育費を送金せねばならないのである。
さて、とにかくこの二人が岩亀楼とはあまり縁がないことは以上の通りであり、回想場面はひとまずここまでにして、話をこのクリスマスシーズンの場面に戻す。
ウィリスは酒を飲みながらサトウに言った。
「ところでニール代理公使は本当に今度の1月2日に
この金沢というのはもちろん
サトウはウィリスに答えた。
「まったく新年
このイギリス公使一行の金沢行きを高杉や聞多たちが襲撃しようとしているなどと、サトウやウィリスはもちろん知る
同じ頃、横浜で村田と別れた聞多と山尾は、高杉晋作たちのいる品川の
さて、この物語にもいよいよ重要な男が登場することになる。
言わずと知れた高杉晋作である。
これまで名前だけは
ここ数日間、高杉は久坂たち長州藩士数人とこの土蔵相模に
酒を飲みながら久坂が幕府への不満を叫んだ。
「将軍が病気といって勅使に会おうとしないのは、どうせ仮病に決まっている!あるいは、幕府に攘夷を
これに対して高杉が答えた。
「けっ!信用されなくて当たり前だ。ついこの前まで
「何ィ?高杉!貴様がのうのうと上海へ行っている間に、俺たちが
「長井が失脚したのは結局薩摩のおかげではないか。そして薩摩は生麦で攘夷の
「高杉、それはちょっと
「幕府に攘夷を周旋するなどと無駄なことはよせ、久坂。まったく周旋周旋とやかましいことだ。周旋なんぞは俊輔にでもやらせておけ!あいつは松陰先生からも周旋の才能があると言われてたからな。もっとも、あいつの身分ではそんな大役をやれる訳はないが……」
この時ちょうど聞多と山尾が高杉たちの部屋に入ってきた。
「今、横浜から戻った」
「おう、聞多、どうだった?イギリス公使館の様子は」
「
高杉は部屋にいた
「今度の十一月十三日、イギリス公使一行が
「金沢八景か……。よし、そいつらを斬ろう!」
高杉は即決した。
ここで高杉晋作という男のことを少し解説しておきたい。
以前、吉田松陰が斬首された場面で松陰と高杉の関係に少しだけ触れた。言うまでもなく高杉と久坂は松陰の
俊輔より二歳年上で、身分は俊輔や山尾などとは比べ物にならない
松陰の死後、高杉は航海術の修行や剣術の修行などに打ち込んでいたが、この年の夏、上海へ視察に行った。この上海視察のことは第1話でも触れた通り、当時サトウも清国(中国)に滞在中だった。
当時の清国はアロー戦争(第二次アヘン戦争)に敗北してからまだ二年足らずで、しかも上海近辺では
サトウの上海滞在中、太平天国軍が上海を襲撃しに来たので彼は
五代
読者の方々は「なるほど。だから高杉は帰国後、過激な攘夷活動に走るのだな」と思ったかも知れない。確かにそれは当たっていなくもないのだが、当たっているのは半分だけである。
高杉は開国の必要性はわかっている。なにより彼はこの上海視察の前に「西洋行き」を願い出ているぐらいだった。
ちょうどこの頃、幕府初の
高杉は上海で個人的な買い物として
要するに高杉としては
「まともな開国をするためには外国から言われたままの開国ではなく、一回ちゃんと攘夷をやって武士の
と考えた訳であるが、もっと
「薩摩にも西洋にも負けてたまるか」
という、ただそれだけの気持ちで闘志を燃やしていたのであろう。
常識をもってしては世の中を変えることはできない。師である松陰が高杉たちに「
以後、彼は松陰のあとを引き継ぐかのように「狂挙」を重ねていくことになる。
ここでもう一人、俊輔の友人である
聞多も高杉と同じく上士の身分である。生まれ育った
後世の話と言えば、彼は明治時代に
とにかく
彼は尊王攘夷の拠点である松下村塾出身という訳でもなく、逆に江戸で蘭学や砲術を学んだ上に横浜で英学修行までしているのだから、本来高杉たちの過激な攘夷グループとは縁がないはずだった。にもかかわらずこの当時
なにしろこの男の行動基準というのは(後世も含めて)よくわからないのだ。
高杉が「よし、そいつらを斬ろう!」と叫んだ場面に戻る。
ところがそれを今度は聞多が止めた。
「公使の護衛に
高杉が聞多に言い返した。
「俺が上海で買って来た西洋式の
「あんな壊れかけた時計が売れるものか!まず誰かに修理してもらえ!とにかく、他の借金や金沢への討ち入り費用を考えると合計百両の金は必要だ」
これほどの金を用意するとなると、やはり藩の会計に
一同は誰が又兵衛に掛け合うかを決めるために
金の
なにしろこの前もらった横浜での英学修行用の百両もすでに使い果たしているのだ。しかしこの晩、聞多はこの土蔵相模で
二日後、なぜか
いや、もちろん聞多たちに会いに来たのではない。又兵衛の馴染みのお
来島又兵衛というと大体大河ドラマでは
又兵衛が時々この土蔵相模に来ていることは聞多も
又兵衛がお夏との
「聞多、これは一体
又兵衛はカンカンに怒った。当たり前であろう。聞多はすぐさま頭を下げて又兵衛に
「横浜での学費百両
「そのようなことは藩邸で申すがよかろう。大体お前たちには前に一度百両渡してあるではないか。おおかた遊郭にでも出入りして使い果たしてしまったのであろう。これ以上は一両も貸せぬ」
「なるほど確かにたまには息抜きのため遊郭へも参りましたが、横浜では家賃や物の値段が高く、それで前の百両はほとんど使い果たしてしまいました。なにとぞ、あと百両お下げ渡しくださるようお願い申し上げます」
「とにかく、そのような金はない」
「お言葉ではございますが、来島様の
又兵衛はアッという表情をして真っ青になった。
聞多はお夏の手紙に「お夏が最近
ともかくも、こうして聞多はまんまと藩から百両せしめた。
その百両を持って聞多が高杉たちのところへ戻ってみると、高杉と久坂が
久坂は高杉に言う。
「イギリス公使を斬ったところで何になる。長州が幕府から責められるだけではないか。我々はまさに犬死にだ!」
高杉がこれに反論する。
「犬死にではない!我が長州の攘夷が本気であることを世間に見せつけることが一番重要なのだ。さすれば世間は長州を信用する!」
しかし久坂は納得しない。
「今、京と江戸では尊王攘夷の気運が高まってきているのだ。攘夷を実行するために日本中の志士が力を合わせ、一致協力して外国に戦争をしかけるべきだ」
「そんなのは
「おお、斬るなら斬れ!藩に迷惑をかけるぐらいなら今斬られたほうがマシだ!」
この二人のケンカには誰も手が出せなかった。しかし戻って来たばかりの聞多が置いてあった酒をガブガブと飲みはじめ、カラになった
「俺がこんなに苦労して百両作ってきたというのに、お前らは何だ。俺は面白くないぞ!」
それから手当たり次第に酒や料理を高杉と久坂めがけて投げつけ
「お前らにはこの百両はやらん!」
と言って部屋から出て行こうとしたので皆が「まあまあ落ち着け」と聞多をなだめにかかった。それで結局、高杉と久坂のケンカは消えてしまった。
そして金沢での襲撃計画は予定通り十一月十三日に決行と決まり、その前日に神奈川宿の
この計画に参加したのは高杉、久坂、聞多、山尾庸三たち総勢十数名であった。
一同は決行前日に下田屋へ入り、ここで一晩を過ごした。
そして翌早朝、皆が金沢への出陣準備をしていると山尾が外の異変に気がついた。
「おいっ、外の様子が変だ」
「何?計画がバレたのか?」
「どうやらそうらしい。幕府の
すかさず高杉が刀をつかんで立ち上がり、皆に
「やむを得ん。斬り開いて突破するぞ」
皆が「おう」と刀をつかんで建物を出ようとすると、ちょうど三条、姉小路の両
その書状には「幕府は攘夷実行を受けいれそうなので、今は暴挙を
久坂から回された書状を高杉が読み終わらないうちに、聞多が叫んだ。
「聞くな、聞くな、そんな命令!ここまで準備して今さら引き下がれるか!」
この男は以前、来原の横浜襲撃を止めるため説得しに行ったことがあるくせに、自分は人の説得を受けいれないというわがままな男であった。
しかし、そうは言っても勅使からの命令を無視するわけにもいかず、皆がああだこうだと言い合っているうちに、今度は定広からの使者である
「
「山県さん!なぜ我々のことが若殿のお耳に入ったのですか?」
「うむ。土佐の容堂公から若殿のところへご注進があったようだ」
おそらく両勅使と容堂への情報
皆が梅屋敷に到着すると、そこでは定広が待っていた。
ちなみにこの梅屋敷は一ヶ月前にサトウも立ち寄って
定広自身が梅屋敷まで馬を飛ばして家臣たちを止めにきたのは、
土下座して恭順の姿勢を見せている高杉たちを前にして、定広はこんこんと
「諸君の志には誠に感服するが、今は勅使のお役目を補佐するために
このように主君から親身に説得されたので一同は
ただし高杉だけは涙も流さず、平然と計画の本質を順序立てて定広に説明したといわれている。
このあと定広から一同に酒が下され、ささやかな酒宴となった。
ところがこの場にあの
周布と土佐藩士というと、この八日前にも
酔っ払った周布は馬上から土佐藩士たちにむかって
「容堂公の尊王攘夷は口先だけでござろう!幕府が攘夷に踏み切らぬのは容堂公が尊王攘夷をチャラかしなさるからだ!」
この暴言を土佐藩士たちが許すはずもなかった。
「一度ならず二度までも我が主君を
そう言って山地たちが周布に斬りかかろうとしたので、久坂や聞多たちがそれをなだめて制止しようとしたところ、高杉が刀を抜いて
「なるほど
そう言って周布にバッサリと斬りつけた。
が、馬の尻を少し斬っただけで、馬はヒヒーンと悲鳴をあげて周布を乗せたまま駆け出し、あっという間に遠くへ走り去って行った。
まったくもって芝居か歌舞伎のようでちょっと出来過ぎな話であるが(昔TVドラマでもこのようにやったらしいが)実際史書にもちゃんとそのように書かれているエピソードである。
ただ一点疑問があるのは、よく史書の中の説明で
「聞多が聞いた話では、十一月十三日は西洋ではサンデー(日曜)という休日で、その日は
という記述があるが、実際この十一月十三日はサトウとウィリスが話していたように西暦では翌年の1月2日にあたり、この日は日曜日ではなくて金曜日なのだ。外国には日本のような「正月三が日」という習慣もない。聞多が情報を聞き違えたのだろうか?真相はよくわからない。
この話はこの後、土佐藩側がこのままでは納得しなかったため結局定広が土佐藩邸へ
とにもかくにも、高杉たちが武州金沢でイギリス公使(実際のところニールは代理公使なのだが)を襲撃する計画はこのようにして立ち消えとなり、ニールやサトウたちは金沢への遊覧旅行から無事帰ってきたのであった。
この事件の後、高杉たちは藩邸へ引き戻されて
この謹慎中に高杉たちは「
「金沢での計画は失敗したが
こういった
この御楯組にはその後つぎつぎと同志が加盟してきたのだが、ちょうどこの頃江戸に到着した俊輔もただちにこれに加盟した。
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