第4話 サトウ日本語を学ぶ

第二章・尊王攘夷 1<サトウ日本語を学ぶ>


 生麦事件による日英関係悪化をよそに、サトウは日本語の勉強のために週二回、横浜から神奈川宿にかよっていた。神奈川宿にはヘボンと一緒に日本語を研究しているアメリカ人宣教師せんきょうしブラウンが住んでおり、サトウはそこで日本語の初歩を学んでいた

 ヘボンという人物については生麦事件の場面で少しだけ触れた。

 現在「ヘボン式ローマ字のヘボン」として有名な彼は、日本語研究家であり、さらに本職は医師(宣教医師)であった。日本語研究ではサトウの大先輩にあたり、日本初の本格的な和英わえい辞典じてんを出版するのはこの五年後のことである。


 サトウは日本に来て、すぐに馬を買った。そしてその馬に乗ってしょっちゅう横浜周辺を散策さんさくしていた。

「横浜の山手やまての丘から神奈川の町を見下みおろす風景は、まさにイギリスそのものだ」

 サトウはこのように日記に書いている。

 多くのイギリス人がそうであるように、サトウもまた木々の緑や自然の風景を好んでいた。それゆえ彼は日本の自然に魅了みりょうされ、後年、日本各地の山々を歩き回ることになるのである。


 ある日、サトウは馬で神奈川宿へ向かっている時に街道で一人のさむらいと遭遇した。

 その侍はサトウの近くまで来た時に、不意にそのあゆみを止めた。そしてサトウの方向に向き直って身構えるそぶりを見せ、一歩、踏み出してきた。

 サトウはおもわずギョッとした。

 そしてすかさずふところの中に手を入れて拳銃ピストルを取り出そうとした。

(しまった!拳銃を忘れてきた!)

 やむをえずサトウは、こわばった表情で手を懐に入れたまま

(ボクは拳銃を持っているぞ!刀で斬りつけてきたら、お前を撃ってやるぞ!)

 と精一杯強がった表情をして侍をにらみ続けていた。

 するとその侍は口元に「ニヤッ」と笑みを浮かべただけで元の歩みに戻り、そのまますれ違っていった。

 サトウは馬を走らせてすぐにその場から離れた。そして安全なところまで来てから、生麦の二の舞にならずに済んだことを神に感謝した。

 後年サトウは次のように手記で語っている。

「その侍はおそらく外国人をおどかしたことに満足したとみえて、そのまま通り過ぎていった。私の記憶では街道で行き会った侍が私に危害きがいを加えようとしたのは、この時だけだった」


 この後サトウは神奈川宿の成仏寺じょうぶつじに着いた。

 当時この寺の庫裏くり(僧侶たちの居住区)にはサトウの先生であるブラウンが住み、本堂にはヘボンが住んでいた。

 ブラウンは、この日本語の勉強に熱心な生徒に新しいテキストを用意して待っていた。

「やあ、サトウ君。また『会話体日本語』の新しいテキストが出来上がったよ」

 ブラウンはヘボンの長年の友人でヘボンと同様、アメリカから来た宣教師である。彼はこの成仏寺でヘボンとともに日本語の研究をしながら時々サトウたちに日本語の基礎を教えていた。そして本堂のほうではヘボンが日本人に英語を教えていた。


 サトウがこの日の授業を終えて建物の外へ出た時、彼は異様に頭の大きな侍を見かけた。

 サトウはその男の珍妙ちんみょうな頭をまじまじと見つめた。

(我々からすれば元々日本人のチョンマゲ頭は異様なんだが、この男はとりわけ……)

 頭の大きな侍のほうもサトウに気がついて振り向いた。しかしこの男は何もしゃべらない。

 がもたなかったのでサトウのほうから英語で

「英語の勉強をしにきたのですか?」

 と、たずねてみた。すると、この男は日本語で

「そうです」

 と答えた。しかし、それ以上何もこたえなかったのでサトウはとっさに少し間の抜けた質問を英語で投げかけてしまった。

「今日はいい天気ですね」

 すると、やはりこの男は日本語で

「日本ではこれが当たり前です」

 と答えて、そのまま歩いて行ってしまった。

 サトウはその頭の大きな男の後ろ姿をぼうぜんと見送った。

(まったく変な生物に出会ってしまったような気分だぜ……)


 この頭の大きな変人は、数年後幕長ばくちょう戦争(第二次長州征伐せいばつ)で長州軍の指揮をとって幕府軍を撃破し、上野うえの戦争で新政府軍の指揮をとってしょう義隊ぎたい粉砕ふんさいする長州藩士・村田むらた蔵六ぞうろくのち大村おおむらます次郎じろうである。彼はヘボンに英語を習うためにこの寺へかよっているのであった。


 ブラウンから日本語の初歩を習ったサトウは、横浜で日本人の日本語教師も雇った。紀州(和歌山)藩の医師で高岡たかおかかなめという男である。

 サトウは外国人にとって特に難題である日本語の読解どっかいを高岡から習った。サトウは清国(中国)で多少漢字の勉強をしていたので、それが少しは役に立ったようだ。

 またサトウは高岡から日本の事情もいろいろと教えてもらった。特に政治動向の話はサトウの貴重な情報源となった。

「それで高岡さん、幕府は薩摩を罰することができるのですか?」

「それは無理です。多分、犯人を引き出させることすら難しいでしょう」

「なぜですか?幕府の力はそんなに弱いのですか?」

「はい。それが分かっているから薩摩は幕府の命令を無視して勝手に保土ヶ谷ほどがやから出発していったのです。幕府には、幕府を苦しめるために薩摩はわざと事件を起こしたのだ、と怒っている者もいます」


 実際、薩摩は幕府をナメていた。

 イギリス人を斬ったのは「足軽あしがる岡野おかの新助しんすけ」であると架空の人物をでっち上げて、しかも「逃亡中」として幕府に報告していた。その上「大名行列に無礼をはたらいた者を斬り捨てるのは古来よりの風習である」と言って一歩もゆずらない。

 それに対して幕府が

「イギリスが犯人および責任者の処罰を強く求めている。イギリス艦隊が鹿児島へ向かうことになっても良いのか?」

 と強く迫ると、薩摩側は

いて人を差し出せというのなら薩摩藩士全員を差し出しましょう。艦隊が鹿児島へ来るのなら、せいぜい皇国こうこく威光いこうけがさぬよう穏やかに応接おうせついたしましょう」

 といった具合で、幕府からの命令をまったく意にかいさない様子だった。

 

 一方イギリスのニール代理公使も幕府の対応にあきれていた。

 ニールが幕閣ばっかく(幕府の閣僚かくりょう)に対して

「幕府は薩摩に犯人の引き渡しを強制する権限を持ってないのか?薩摩が犯人を引き渡さなかった場合、幕府はどうするのか?」

 と回答を求めても幕閣はのらりくらりとした返事をよこすばかりで、この事件をまともに対処する意志がニールには見えてこない。しかも三ヶ月前の第二次東禅寺とうぜんじ事件の賠償問題すらまだ解決していないのである。

「なぜ幕府は“外国人排除はいじょ攘夷じょうい)”を禁ずる布告ふこくを出さないのか?」

 とニールは聞いてみた。すると幕閣は

「残念ながらそのような布告を出せば、彼ら(攘夷派)は一層それと反対のことをやるに違いないのだ」

 と抗弁した。


 まったくニールにとっては幕府の真意がどこにあるのかさっぱりわからない。これで一国のまともな政府ガバメントと言えるのか?

 とにかくニールは生麦事件の対処については本国政府の回答待ちなので(当時は日本とヨーロッパとの往復には四ヶ月近くかかった)それが届き次第あらためて交渉する、として一旦いったん交渉を打ち切った。

 生麦事件の幕府とイギリスの交渉は概ねこういった経緯をたどって、現在は保留中の状態である。


 サトウは高岡にイギリス政府の回答時期を説明した。

「おそらく本国の指令がここに届くのは来年の2月、日本のこよみだと一月頃でしょう」

 日本人がイギリス人を斬り殺してしまったことを申し訳なく思っている高岡は、すまなそうな表情でサトウに答えた。

「まったく貴国きこくには迷惑をかけてばかりで……。我が日本は“島国”なので外国との交渉こうしょうごとには不慣ふなれなのです」

 それを聞いたサトウはニヤリと微笑ほほえみながら

「高岡さん、我々イギリスも“島国”ですよ」

 と言った。

 高岡は、苦笑にがわらいせざるを得ない。

(島国は島国でも、世界中に植民地を持っている島国だけどね。イギリスの場合は……)




 文久ぶんきゅう二年十月十一日、サトウは初めて江戸を訪れることになった。

 江戸で幕府と交渉するニールの随行ずいこう員として加えられたのである。当然ながら、この時はまだ生麦事件についての本国政府からの指令は届いておらず、これは第二次東禅寺とうぜんじ事件の賠償交渉である。

 もちろんサトウは喜び勇んで江戸へ向かった。

 サトウがイギリスから夢見ていた日本の風景は横浜ではなくて江戸なのである。横浜はなかば西洋化されており日本の風景とは言いがたい。やはり日本に来たからには首都の江戸へ行きたいと思うのが人情であろう。ただしこの当時江戸はまだ一般の外国人には開放されておらず、江戸へ入れるのは諸外国の外交代表および許可証を持っている者だけだった。サトウは外交代表(外交官)の一人ではあったが、これまで仕事で江戸へ行く機会がなかったのだ。


 もともと江戸にもイギリスの公使館はあった。

 まさに東禅寺とうぜんじがそうだった。しかしここは二度の襲撃事件をうけて一旦閉鎖中で、現在は横浜に公使館を移している状態である。

 イギリス公使館員の一行は江戸へ向かう途中、東海道の“うめ屋敷やしき”で休憩をとった。現在の地名で言えば東京の蒲田かまたのあたりで、現在もその近くにけいきゅう電鉄の梅屋敷駅がある。

 サトウの後年の記述を借りると、当時の梅屋敷を訪れたサトウの感想は次の通りである。

「梅屋敷という有名な遊園地に着き、美しい乙女たちの給仕きゅうじをうけた。この黒い柵をめぐらした構内に入るのがどれほど嬉しく、驚異的な喜びを感じるか、実際にた人でなければ理解できないだろう」

 現在この梅屋敷はその名残なごりをほとんどとどめていない。その当時の様子は歌川うたがわ広重ひろしげ錦絵にしきえ蒲田かまた梅園ばいえん」などで現在、多少うかがい知ることはできる。

 一行はこの日、高輪たかなわの東禅寺に入った。ただしイギリスはこの東禅寺を再び公使館として再開するつもりはなく、今回は応急措置そちとして使用するだけで、数日間の出張が終わり次第また横浜へ戻ることになる。実は今回の江戸訪問の仕事には「新しい公使館の視察」という目的も含まれていた。


 翌日、サトウたちは御殿山ごてんやまに建設中の新しい公使館の見学に訪れた。

 御殿山は現在の京急電鉄・北品川きたしながわ駅の西側近辺にある高台のことで(ちなみに東側近辺には遊郭ゆうかくとして有名な相模屋さがみや土蔵どぞう相模さがみがあった)当時の江戸の庶民たちにとっては桜の名所として有名な行楽地こうらくちだった。

 参考までにこのあたりの地理を少し解説すると、東禅寺のすぐ近くに高輪の薩摩藩邸があり、東禅寺のやや北のほうに赤穂浪士あこうろうしで有名なせん岳寺がくじがあり、東禅寺のやや南のほうにこの御殿山があって、更にそこからすぐ近くの品川は土蔵どぞう相模さがみなどの遊郭もある宿場町だった。

 この御殿山には四ヶ国(英仏蘭米)の公使館がそれぞれ建設されていた。これまで各地に分散していた各国公使館を一か所にまとめて警備しやすくしようとしたのだ。

 ただしこの御殿山は東海道と江戸湾の要衝ようしょうをおさえる、軍事的にも重要な場所であった。しかも御殿山を外国人に使わせることには朝廷(天皇)も反対しており、さらに桜の名所である御殿山を取り上げられる形となった民衆からの反感も強かった。

 この時イギリスの公使館はほとんど完成しつつあった。

 二階建ての建物が二とうあり、それが一階部分でつながって、品川の海からは宮殿が二つ建っているように見えるほどこうだいな公使館で、しかも全体が西洋風に美しく装飾されていた。もちろん公使館員や護衛隊員が住む居住スペースもある。サトウたちはこの日の見学でその出来栄できばえに十分満足した。


 ちなみにサトウたちがこの御殿山を見学したのと同じ日に、京都では勅使ちょくしが江戸へ向けて出発していた。正使三条さんじょう実美さねとみと副使姉小路あねがこうじ公知きんともの二名である。

 およそ半年前には薩摩の久光が勅使の大原おおはら重徳しげとみと江戸へ下向げこうしたが、今回は長州と土佐が画策かくさくした勅使下向である。この勅使の江戸到着は半月後のことになる。

 この日の翌日、サトウは日英交渉の席に初めて列席れっせきした。ただし彼はまだ正式な通訳官ではないので、末席から会議の様子をながめていただけである。


 むしろ彼にとって今回の江戸初訪問で一番重要だったのは、これ以降の日程のほうだったであろう。

 サトウは仲間たちとともに連日、江戸の各地の名所を馬で回って観光を楽しんだ。例をあげると王子おうじの茶屋、つのはず十二社じゅうにそうの池、洗足せんぞくいけ、目黒不動、浅草、神田かんだ明神みょうじんなどである。

 サトウが観光して回った感想は

「こうした観光地では茶屋の美しいムスメたちがその魅力のほとんどを占めていた」

 ということのようで、さらに江戸を一望いちぼうできる愛宕あたご山にのぼった際にも、美しい乙女たちからさくらを給仕してもらって喜んでいた。

 ともかくも、サトウはロンドンで夢見ていた「美しい黒髪の日本女性たちに会ってみたい!」という願望を今回の江戸初訪問でそれなりに達成し、満足した気分で再び横浜へ帰っていった。




 サトウが江戸を初訪問していた頃、伊藤俊輔しゅんすけは京都にいた。

 俊輔の恩師であったくるはら良蔵りょうぞうの遺書と遺髪をはぎの遺族へ届けて、そのあと久しぶりに実家の両親のところへ帰った。そしてしばらく地元に滞在してから京都へ入って、ここで藩の仕事をしていたのだった。


 その頃ちょうど俊輔の上司である桂小五郎が江戸から京都へやって来た。

「萩の来原家のことは手紙で読んだ。いろいろと苦労をかけたな、俊輔。いや本当にすまなかった。ところで最近の京の様子はどうだ?」

相変あいかわらず“天誅てんちゅう”と称する暗殺事件が頻発ひんぱつしています。ただ、そのおかげで我が長州の勢いは日に日に増大しております」


 実際この頃までに島田左近さこん、本間精一郎せいいちろう宇郷うごう玄蕃げんばなど佐幕さばく派ともくされていた人物が何人も暗殺され、江州ごうしゅう石部いしべの宿では幕府の与力よりき四人が襲撃されて殺されている。そしてこれ以降も多田ただ帯刀たてわき池内いけうち大学だいがく賀川かがわはじめなどが次々と暗殺されていくことになる。


「京へやって来る途中、東海道で三条、姉小路あねがこうじお二人の勅使にお目にかかったが、どうやら将軍上洛の件は上手うまくいきそうだ。あとはみかどの前で将軍に攘夷を誓わせれば我々の目的は達成されたも同然だ」

「今回の桂さんの上洛じょうらく目的は対馬つしま藩の内紛を仲裁するためとうかがいましたが……」

「うむ、まあそうだ……。それはそうと俊輔、三本木さんぼんぎの件はどうなった?」

「三本木の件?」

「ほら、よし田屋だやのことだよ、吉田屋の……」

(ああ、いくまつさんのことか)「まだ交渉中です」

「そうか、まだ交渉中か……」

 桂の表情は急にくもりかげんになった。

 それを見て取った俊輔は内心「ヤレヤレ」といった心持ちになった。

(まったく、この人の女好きには困ったものだ)

 桂は以前から三本木にある吉田屋の芸者・いくまつに熱を入れており、自分が京都をあけている間に落籍らくせきしておいてくれるよう俊輔に頼んでいたのである。

(まあ、女好きという点ではワシも他人ひとの事は言えんが……)

 俊輔は江戸の品川で友人の志道しじぶん(後の井上かおる)と遊郭で遊び回っていたが、この京都の祇園ぎおんでも俊輔と聞多は芸者たちとよく遊んでいた。

 すでに俊輔にはまさ千代ちよという馴染なじみの芸者がおり、聞多にはきみという馴染みがいた。また久坂には島原におたつという愛人がおり、長州の男たちは京都の三本木、祇園、島原で金を湯水ゆみずのように使っていた。


「いや、私は自分自身の不平不満を言うわけではない。女のことなど後回しにするのが当然だ。しかし俊輔、最近お前は天誅騒ぎの暗殺仕事に興味を持っていると聞いたぞ。私はお前に暗殺の仕事などさせたくないのだ。お前にはそんな仕事は似合わない。お前は夜の席で女たちとバカ話でもしてだな……」

「わかりました、わかりました、桂さん。近いうちに幾松さんのことは私がケリをつけますから」

 これ以上、桂の説教を聞きたくなかった俊輔は、みずからお願いするように幾松の身請みうけ仕事を引き受けた。


 あくる日、俊輔は三本木の吉田屋へ行った。

 三本木は現在の京阪けいはん電鉄・神宮じんぐう丸太まるたまち駅の近くにあった花街はなまちで、ちょうど鴨川かもがわはさんだ反対側のあたりにあったが現在はその名残なごりをほとんどとどめていない。そこにはかつて(幕末の政治運動史には欠かせない)らい山陽さんようも住んでおり「山紫水明処さんしすいめいしょ」という史跡しせきが現在も残っている。吉田屋はそのやや北側にあったが現在「吉田屋あと」という史跡案内の立て札がそこには立っている。

 俊輔は以前もこの吉田屋に来て、ここの女将おかみに幾松の身請みうけ話を申し出ていた。しかし桂がれたこの幾松は評判の美人でおどりの名手めいしゅでもあり、桂の他にも山科やましなの豪商が彼女の身請けを申し出ていた。要するに落札らくさつの競合者がいたわけである。

「金はいくらでも出す。なんとか我があるじのもとへ彼女を寄こしてはくれぬか?」

「へえ。せやけど、あちらさんも金はいくらでも出すと言うてはりますわ」

 女将はそう言って俊輔に耳打ちし、豪商が提示してきた金額を伝えた。

(いくら藩からの機密費きみつひを使えるといっても、さすがにそれだけの額は出せん……)

「我が長州に恩を売っておく良い機会ではないか。我が藩がこの三本木でどれだけの金を使っているかお主が知らぬわけはなかろう?もうちょっと金額をり合ってはくれまいか?」

 そう言って俊輔は何度も女将に頭を下げて懇願こんがんしたが、それでも彼女は「あちらの豪商も大切なお得意様ですから……」などと言って首をたてに振ろうとはしなかった。


 俊輔はとうとう開き直った。

「そうか、わかった。お主がそこまでかたくなに我が主の申し出を断るというなら、ワシにも考えがある」

 俊輔は刀のつかに手をかけて、恐ろしい目で彼女をにらんで言い放った。

「ワシには今、天誅で世間を騒がせている志士の知り合いがいる。お主、今後夜道よみちは歩かぬことだな」


 なにしろ「あの長州藩」の一員である俊輔の口から“天誅”の言葉を聞かされたのだから、女将としてはたまったものではない。この一言ひとことで完全にふるえあがってしまって、すべて俊輔の言う通りに従わざるを得なくなった。

(やれやれ。女一人を相手にワシはこんなところで何をやっているのだ……。とにかくこれで桂さんの仕事は片づいた。あとは江戸で皆の仕事を手伝って、士分しぶんに昇格するための手柄てがらを立てねばならぬ……。桂さんはワシに人殺しは似合わぬと言うが、好き嫌いを言える身分ではない。また、そういう時代でもないのだ)


 その後しばらくして桂と俊輔は京都から江戸へ向かった。

 三条、姉小路の勅使ちょくし下向げこうを画策した長州と土佐が江戸で仲間割れをして、勅使もまだ将軍家茂いえもちに面会できないでいる、という理由で二人は江戸へ呼ばれたのだ。二人が江戸に到着するのはしばらく先のことで、十一月二十三日のことになる。



 三条、姉小路あねがこうじの両勅使は十月二十八日、江戸城の近くにあるたつくち伝奏てんそう屋敷(朝廷からの使者が宿泊する屋敷)へ入った。ところがその頃将軍家茂は麻疹はしかにかかっていたため、勅使と将軍との対面はしばらくべとなった。

 およそ半年前の大原勅使の下向を薩摩の久光が護衛したように、今回、勅使下向の護衛役は土佐藩主・山内豊範とよのりがつとめた。この山内豊範は一ヶ月後、長州藩主・毛利慶親よしちかの娘(養女ようじょ喜久きく姫)と結婚することになっており、今回勅使下向で協力した長州・土佐の両藩はさらに関係を深めていくはずだった。


 勅使の江戸到着からしばらく経った十一月五日、この二つの藩をめぐって一つの事件が発生した。

 この日、長州藩の世子せいし毛利定広さだひろ懇親こんしんのために豊範の養父ようふ容堂ようどう桜田さくらだの藩邸に招いた。


 ただし長州藩士の多くは容堂に強い疑念をいだいており、酒席に招いたこの客に対して面白くない気持ちでいっぱいだった。

「将軍は麻疹はしかなどといっているが仮病けびょうを使って勅使から逃げているのではないか?そのうえ容堂公も、その将軍をかばっているのではないか?」

 なにしろ長州藩と土佐藩とでは、その成り立ち自体が大きく違っているのだから、長州藩士たちがこういった疑念を容堂に対して抱いたとしても、ゆえしとしない。

 土佐の山内家は関ヶ原の功績こうせきにより家康から格別の恩恵おんけいを受けた藩である。それゆえ幕府への忠誠心は強い。

 かたや毛利家はそれとは真逆まぎゃくで、関ヶ原で敗戦した西軍にくみした結果大幅に領地を削減さくげんされ、この時に至っている

 実際この時、幕府内は混乱のきわみにあり、容堂はしょっちゅう江戸城の一橋ひとつばし慶喜よしのぶ松平まつだいらしゅんがくに会って助言を与えており、長州藩士たちが疑っていた通り、容堂が幕政を助けていたのは事実である。


 幕政が混乱していた理由は、まさにこの「勅使に対してどのような回答をするか?」というところにあった。

 勅使の目的は「将軍に奉勅攘夷ほうちょくじょういを誓わせて、破約攘夷はやくじょういを実行させる」ということであった。奉勅攘夷とは「みかど(孝明天皇)からの勅命ちょくめいの通り、攘夷をし進める」ということで、破約攘夷とは「諸外国と結んだ通商条約を一旦破棄はきして締結ていけつ交渉をやり直す」ということである。しかし諸外国と結んだ通商条約を日本側から一方的に破棄した場合、おそらく諸外国と戦争になる可能性が高いであろう。

 この「勅使に対してどのような回答をするか?」について、江戸城内で飛びっていた意見はおおむね次の通りである。


 まず、開明派と見られていた政事せいじ総裁そうさい職の松平春嶽が

井伊いい大老たいろうが結んだ条約は内容に不備があり、しかも無勅許むちょっきょだったのだから一旦破棄して、再度各国と交渉をやり直すべきである」

 と勅使の命令に従うよう勧告かんこくした。

 これに対し幕府開明派の筆頭として名高い小栗忠順ただまさ上野介こうずけのすけ)は次のように反論した。

「外交は幕府の専権せんけん事項じこうなのだから朝廷や諸大名の干渉を恐れず、堂々と幕府の開国政策を遂行すいこうすべきである」

 しかしながら尊王そんのうこころざしが強い、まだ京都に赴任ふにんする前だった京都守護職の会津藩主・松平容保かたもりがこれに反論した。

「奉勅攘夷をこばめば尊王の大義が失われ、攘夷を実行せねば幕府の権威は失墜しっついするでしょう」

 こうして江戸城では「開国か、攘夷か」の議論が続けられたものの、大勢は奉勅攘夷を甘受かんじゅする方向に傾きつつあった。


 ところがここで将軍後見職の一橋慶喜が公明正大に「攘夷の不可」をいた。

「我が国のみが鎖国を続けるのは不可能である。井伊大老が結んだ条約は不正と言えば不正だが、外国人から見れば政府と政府が結んだ正式な条約である。もし我が方の一方的な条約破棄を理由に諸外国と戦争をして、仮に勝っても名誉にはならない。もし負ければ最悪の事態となる。私がこのように考えるのは幕府のためではない。日本全体のためである」

 この慶喜の発言で開明派の意見が盛り返したかに見えたが、結局こういった正論は「世間に公表する事すらはばかられる」というご時世じせいだった。


 そして事を穏便おんびんに収めるために容堂が慶喜を説得した。

「今は表向おもてむき奉勅攘夷を受けいれて、無謀むぼうな攘夷だけは避ければよろしい」

 さらにこのあと「和宮かずのみや(孝明天皇の妹)様を将軍正室せいしつとして迎えた時に十年以内の攘夷実行を朝廷と約束済みです」といった幕府内の機密事項も知らされ、慶喜も渋々しぶしぶ奉勅攘夷を了承した。以後、慶喜は何度も辞職を申し出たが、それも結局容堂がなだめて決着させたのだった。



 話を桜田藩邸での酒席の場面に戻す。

 以上のような経緯の中身を長州藩士たちがくわしく知るはずもなかったが、とにかく彼らは幕府を助けているであろう容堂の姿勢が気に食わなかった。

 そしてこの日、酒の勢いもあって思わず長州藩士たちの本音ほんねれてしまった。

 長州側の席の一部から容堂に対して

えば勤皇きんのうめれば佐幕さばく、一体本心はどちらでありますか!?」

 と叫び声があがったのである。

 すかさず土佐側の席から「今、何と申した!?」と家臣たちがいきりだって長州側につめよろうとしたところ、容堂が「待てっ」と声をかけて家臣たちを止めた。

 容堂は家臣に紙と筆を持って来させて

「今、良い物を書いてやる」

 と嬉しそうな表情かおをしつつ一枚の絵を書いて長州藩士たちに見せた。

「これはお主たちのことよ」

 それは瓢箪ひょうたんの上下のふくらみがさかさまになっている絵であった。

 下級武士たちが藩の上層部を動かしている長州を皮肉ひにくったのだ。

 容堂が大酒飲みであることは、自分のことを「鯨海酔侯げいかいすいこう」と称していたことも含めて歴史上、有名な話であろう。この程度のことで酒席を壊すほど無粋ぶすいではない。


 だがしかし、長州藩にも一人、酒飲みで有名な重役がいた。

 この男は酔っ払って相手にからむことで有名な男だった。

 周布すふ政之助まさのすけである。

 この男は数ヶ月前、薩摩藩との酒席の場で薩摩藩士から暴言ぼうげんをうけた際に、いきなり剣舞けんぶをやり始めて酔っ払ったフリをしてその薩摩藩士を斬ろうとした男なのだ。

 酒席は一時いちじ騒然となったがその場にいた薩摩の大久保一蔵いちぞう(後の利通)がとっさに畳回たたみまわしの芸をやったおかげで一同はあっけに取られ、ようやくその場をとりおさめることができたのだった。


 そしてその周布すふは、このとき容堂の前でも酔っ払ってことを起こしたのである。

 周布は近くにいた久坂玄瑞に耳打ちした。すると久坂がすっくと立ち上がり容堂に向かって言った。

そつながら酒と詩をこよなく愛される鯨海酔侯に、座興ざきょうとして拙者せっしゃが詩を一編いっぺんぎんたてまつらん」

 久坂は手に持っていた扇子せんすを開いて、得意の美声で詩を吟じはじめた。

「われ方外ほうがいて、なお切歯せっしす、廟堂びょうどうしょろう、何ぞ遅疑ちぎするや」

 これは吉田松陰にも大きな影響を与えた僧月性げっしょうの詩で、幕府の弱腰よわごし外交をなげいている詩である。

 そこですかさず周布も立ち上がり容堂を指差ゆびさして叫んだ。

「鯨海酔侯もまた廟堂のいち老公ろうこう!」


 これにはさすがに容堂も顔色を変えて不快な色をあらわにした。

 もちろん土佐藩士たちは全員立ち上がり「無礼者!」と叫んで長州側につめよろうとした。が、容堂と定広が同席している手前、また豊範と喜久姫の結婚が間近に迫っていること、さらには勅使下向での協力関係もあるため、この日は一応両者このまま引き下がって事なきを得たのであった。

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