第3話 俊輔と来原
第一章・生麦騒動 3<俊輔と来原>
生麦事件から四日後(八月二十五日)、横浜と東海道をむすぶ横浜道の中間にある「
男の名は
この来原は伊藤俊輔の恩師的な存在であり、桂小五郎より年上でありながら義理の弟(来原の妻が桂の妹)であり、
長州藩の中では洋学
なにしろこのこと自体、
東海道を下る途中、彼は薩摩藩一行とすれ違った。もちろん生麦事件の
他の長州藩士たちが「薩摩に先を越されてしまった!」と
そしてなんといっても、そもそも二ケ月前にすでに命を捨てる決心をしている男なのだ。
彼は江戸へは行かず、このまま横浜の
しかし同行者の
以下、しばらくはこの物語のもう一人の主人公である伊藤
それを述べることによって「なぜ来原は死のうとしているのか?」ということも
俊輔は
幼名は林
俊輔の一家は百姓の
幕末には
しかしながら俊輔の場合はそういったレベルの百姓ではない。
まさに
ところが人の運命などわからないもので、十蔵は萩に出て
安政三年(1856年)、十六歳の俊輔は海岸警備の仕事につくため
この宮田で俊輔は、上司の来原良蔵と出会った。
来原は、のちに俊輔を指導する立場となる吉田松陰や桂小五郎と
ちなみにあと一人、俊輔の上司となって強い影響をあたえる男としては高杉晋作もいるが、これは「指導」と言えるかどうかちょっと微妙である。この場合は、俊輔も加わった
司馬遼太郎大先生はその作品の中で俊輔のことを「俊輔自身があこがれを
俊輔はこの宮田で来原から文武両面においておおいにしごかれた。
朝は日が
軍事教練の前に俊輔が
「草履をはくな!戦場において草履が無い時はどうする!とっさの時にそなえて
と
「今日はまた
と口にすれば
「寒いと口にして天気が変わるものか!だったら最初から寒いなどと口にするな!」
と怒鳴られるといった
ただし来原は精神論ばかりを振り回すただの単細胞ではない。
物質面においては西洋の学問がすぐれていることを認める柔軟な思考も備えていた。その点、彼の親友である松陰と同じである。ちなみに松陰との関係で言えば、松陰が
松陰は藩から何度か
来原はこの相模警備の際に洋式の軍事教練を
そしてこのことが藩から
解任の理由は「敵である西洋の軍事教練をまねるとはケシカラン」といったところだった。このあと横浜が開港されて攘夷熱が盛んになる、それよりかなり前の時期にあたるこの時でも、一般的な対外感情は似たようなものであった。
来原自身としては
「西洋のすぐれている点は
といった思考のもとで洋式の軍事教練を試みたのだが、藩の上層部にはそういった柔軟な発想を受けいれる
俊輔はこの時来原から
「萩へ帰ったら松陰の
とすすめられて紹介状を書いてもらった。もともと俊輔は松陰の家の近所に住んでおり、松陰が
吉田松陰については、近年大河ドラマで取りあげられたこともあるので、ここではあまり深く
先ほど松陰の「脱藩、東北周遊」の話に少し触れたが、その後の「
その昔、
「松下村塾は、徳川政府
と有名なセリフを残したように、この塾には高杉晋作、久坂
松陰の思想や人間性を解説するなどという
「日本を外国に
彼はこの事だけを考えて松下村塾で、あるいは
俊輔は松陰から塾で教えをうけるだけでなく、時には松陰の手足となり、時には松陰の
「なかなかの
と評したことがあるが、これは将来俊輔が大政治家(初代総理大臣)になることを松陰が見越していた、というエピソードとして有名である。
実は俊輔が長崎へ行ったのは、再び来原の下に付いて洋式軍学を学ぶためだった。安政五年(1858年)十月のことである。
それ以前から長崎には幕府の長崎海軍
一年ちょっと前に「勝手に洋式の軍事教練を試みた」として職を
「何を今さら」と感じたであろうか?それとも「とにかく藩の上層部が西洋のすぐれた知識に目を向けるようになったのは前進だから
おそらくその両方であったろう。
ともかくも、来原と俊輔は長崎で半年ほど洋式軍学を学ぶことになった。
余談ながら
こういった長崎での話はさておき、当時の江戸と京都に目を転じてみると、この頃まさに「安政の
この「安政の大獄」には、サトウの生い立ちの項で書いた日米修好通商条約の
とにかく
松陰が萩を
俊輔が長崎での修行を終えて萩へ帰ってきたのは六月十七日のことで、すでに松陰は江戸へ送られたあとだった。俊輔としては無念であったに違いない。
萩に戻った俊輔は来原から義兄の桂小五郎を紹介され、これ以降、俊輔は桂の
九月十五日、桂と俊輔は松陰のあとを追うように萩を出発して江戸へ向かった。江戸へ着いたのは十月十一日である。
そしてその十六日後の十月二十七日、松陰は伝馬町の獄で処刑された。
有名な彼の
松陰の死についても、その解説にあまりスペースを
「死して
おそらくこの通りであったろう。
みずから死を望むわけではないが、死ぬべき時が来たら見事に死んでみせる、と。
処刑の二日後、桂や俊輔たち四人の長州人は
俊輔は自分の
この時まだ俊輔は十九歳(満年齢では十八歳)である。
この小塚原で
ただしこの怒りは俊輔だけが抱いていたわけではない。
この約四ヶ月後、「安政の大獄」で大弾圧をうけた
そしてこの「桜田門外の変」によって幕府の
ただし、その揺り戻しが来る前に、長州では一人の男が注目すべき政治活動を開始した。
藩の
この航海遠略策の内容を大ざっぱに言ってしまえば
「朝廷と幕府の関係を良くして国論の一致をはかり、その上で堂々と開国して貿易によって国を
といったような
まことに常識的な政策提言で、当時の心ある人々は皆このように考えており、実際維新後の明治政府もこの形で(この中から幕府だけを
長州は藩主
長井の活躍によって長州の名声は大きくあがったのだ。
そして来原良蔵も、この長井の策に賛同した。
「来原が長井の親戚であったこと」も理由としてはあるかもしれないが、実際のところは「その考えが来原と同じだったから」というのが一番の理由であっただろう。もともと「外国の物でも良い物は取り入れろ」という開国論が来原の考えであったし、長井の策に反対する理由が来原にあるはずはなかった。
ところが、この長井の策に松陰の弟子たちが
特に久坂や高杉が強硬に反対して「長井を斬る」とまで言い出した。そして俊輔も、このグループに入っていたのである。
松陰の考えていた政策は長井の政策とそれほど違いがあった訳ではない。
松陰も基本的には開国策に賛成している(というかむしろ積極的な海外進出を主張している)。ただし松陰の場合は、その頃はまだ井伊直弼が生きて「大獄」の指揮をとっていたので幕府そのものが信用できず、それゆえ幕府がすすめる開国策も受けいれられなかった。
少し余談を述べると、これは筆者が以前から気になっているのだが、長井に対しての人物評価には不思議な共通点がある。長井は吉田松陰から
不思議な共通点である。
現代の目線から見ても長井はごく当たり前の政策を提言した常識的な人間に見えるし、この薩長の
考えられるケースとしては、松陰の場合は「大獄」の
とにかく長井の策は「幕府にとって好都合で、幕府を助ける策である」という点が問題視され、策の具体的な
西郷は結局また島送りになったので長井に害を加えることはなくなったが、松陰門下の久坂たちは
さはさりながら、結局のところ長井の航海遠略策を
「久光
久光自身は「過激な攘夷は不可」として、消極的ながらも開国に賛成する立場であり、公武合体にも賛成しているので基本的には長井の考え方と大して違いはない。ただ、それを主導する原動力を「長州から薩摩に変える」という違いしかない。そして何より久光のほうがより説得力を
かてて加えて「久光上洛」によって攘夷派がかえって勢いづいてしまった。
久光が手勢を引きつれて来たのは「久光は攘夷を実行するつもりだ」と攘夷派が信じ込んでしまったのである。
過激な攘夷は不可、としている久光がそんなことをするはずがない。いや、確かに久光は生麦で「それ」をやってしまったので、そのせいで人々はますます「久光は攘夷の王者だ」と勘違いしてしまうのだが、それはひとまず脇へおく。
とにかくこの「久光上洛」によって、長州では久坂たち攘夷派の勢力が大きな力を得ることになった。そして長井は
ここから時代の流れの大きな揺り戻しが本格化する。
そしてそれを主導することになるのは長州なのである。
その手始めに、久坂たち六人は長井を斬り殺そうとして伏見へやって来た。この暗殺団
文久二年(1862年)七月一日のことで、生麦事件の二ヶ月ほど前のことである。長井はすでに藩から帰国
俊輔には武道の
しかし来原から武士のなんたるかを叩き込まれて、自分もその武士になることを切望している俊輔としては「いざとなれば人を殺すし、いざとなれば切腹しなければならない」という自覚はあった。
なにより足軽である俊輔が正式な武士となるためには、とにかく
この長井
なにより、この松陰門下生たちは「尊王攘夷が正義である」ということをかけらも疑っていない。
松陰の教えがそこまで過激なものであったかどうかはともかくとして「安政の大獄」による大弾圧の反動も加わって(そこには「松陰の
俊輔たちは長井の通り道と
「よし、とうとう長井をみつけたぞ。皆ぬかるなよ」
一同に声をかけて久坂は刀を抜いた。一同は「おう」とこたえて刀を抜いた。俊輔も意を
ところが、その駕籠の中に長井は乗っていなかった。駕籠はおとりだったのだ。
長井襲撃の噂はすでに長井自身の耳に届いていた。
彼は駕籠をおとりにしてそのまま進ませ、自分は南の奈良へ
藩は久坂たちの行為を
この五日後、京都
ここで一転して、以前の決定が
今度は慶親の「そうせい」という了承のもとに長井
その新しい藩論となる攘夷のために長井を斬ろうとした久坂たちの行為が
この同じ頃、薩摩の久光は江戸で幕府に政治改革を強要していた。久光が京都を留守にしているあいだに長州が京都の朝廷をおさえるかたちになった訳である。
一方、久光は京都へ戻る途中で生麦事件を引き起こし、イギリス艦隊からの報復攻撃にそなえるため鹿児島へ帰国せざるを得なくなり、京都で政治活動をしている
そして長井
これでようやく冒頭の話に戻ることができる。
この俊輔の生い立ちを見てきたことによって、生麦事件の四日後に来原が横浜を焼き払って攘夷のさきがけをやろうとしていた謎、すなわち「なぜ来原は死のうとしているのか?」の理由がわずかながらも見えてきたのではなかろうか?
来原は横浜を視察したこの日、江戸桜田の長州藩邸に入った。
来原に同行してきた
俊輔はここ三年程ずっと桂の下で働いている。来原とは最近あまり会ってない。
「桂さん。佐世さんから来原さんの様子がちょっと変だと聞いたのですけど……」
と俊輔は桂に話しかけた。しかし桂は「そうか」と言うだけでそれ以上、この話に触れようとしない。
桂は来原の義兄である。俊輔に言われなくてもここ数ヶ月、来原の様子がおかしいことなどすでに承知している。そしてその理由も桂にはわかっている。
長州が長井の開国策を捨てて攘夷に方針転換した以上、その長井の開国策に賛同していた来原が苦悩するのはやむを得ない。
しかし桂も苦悩していたのである。なぜならその長井の開国策を
彼はそれが正しい政策であると信じてやってきたのである。
長井に対する
というか、むしろ実を言えば桂は、また俊輔もそうなのだが、半年ほど前に長井から
詳しい経緯は割愛するがこの年の一月十五日に起きた「
けれども、くり返しになるが桂は「奉勅攘夷」、すなわち「将軍
(まったく、なぜ京都の重役連中は来原を江戸へなど寄こしたのか。萩へ帰せば良かったのだ。子どもの顔でも見れば少しは落ち着くだろうし、過激な考えも抑えるだろうに……)
もともと
二日後、来原は佐世のところへ来て、決然として言った。
「俺は脱藩する。そして横浜へ攻め入って討ち死にするつもりだ」
佐世は再び来原を止めようとした。けれども来原はそれを聞き入れず
佐世は急いでこのことを桂にしらせた。そして桂と連れ立って麻布の藩邸へ行き、来原に思いとどまるよう説得した。が、来原は聞き入れず、桂に言い返した。
「藩論が攘夷に決まったのだから、その方針に従って横浜で攘夷を実行するのだ!一体それのどこが悪いと言うのだ!」
桂は反論した。
「我々がやろうとしている攘夷は異人を何人か斬る、といった無計画な攘夷ではない。やるのであればもっと本格的な形でやらねばならぬ」
しかし来原は納得しない。
「それでは幕府が言っているのと同じではないか。いつかはやる。だが今ではない、と。誰かが最初に口火を切らねば、どうせいつまで経ってもやらないに決まっている!」
結局この日の説得は失敗に終わり、桂たちは
翌日、桂と佐世が麻布の藩邸へ行ってみると、すでに来原は横浜へむかって出発していた。今夜は品川に泊まると言い残して出て行ったということだった。
桂たちは桜田へ戻って
「もし
と指示し、定広の
聞多たち数人の長州藩士は品川の宿や店をしらみつぶしに訪問して来原を探した。遊郭の名所である品川の町に詳しい聞多の知識が役に立ったせいか、この日の夜、聞多たちは一人で酒を飲んでいた来原をついに発見した。
寺田屋のように「上意
「来原さん、
ところが意外にも、来原はあっさりと説得に従った。
来原が桜田の藩邸に戻ってくると定広の部屋に
定広は穏やかな口調で来原を
「今回のそなたの行動が忠義心から出たことはわかっているが、今は朝廷と幕府の関係が難しい状況にあるので
来原は涙を流しながら
「
とだけ述べて、それ以上は何も言わなかった。それに対して定広は
「何か意見があれば遠慮なく申してみよ」
と来原の
「申し上げることは
と返答してそのまま退出した。そして来原は自分の部屋へ戻った。
佐世や何人かの人々が心配して来原の部屋へ様子をうかがいに来た。しかし来原の様子はいつもと変わりなく、特に心配もなさそうだったので全員部屋へ戻って寝ることにした。
翌朝、来原は自室で切腹した遺体となって発見された。
腹を切ったあと自分で首に短刀を突き刺し、さらにその短刀を背後の
家族への遺書はすでに二ヶ月前に書かれており、来原は長井失脚後、かなり早い段階から死を覚悟していた。
雲霧をはらえる空にすむ月を よみちにはやく見まほしきかな
この日の朝、俊輔と桂はすぐに駆けつけて来て、来原の遺体を見て絶句した。
そして俊輔は
(なぜじゃ?なぜこんな立派な人がこれほど
この時の俊輔が、来原の切腹の真意をどこまでくみ取れたかは分からない。
一般的に言って、多くの人々は来原の切腹の理由を「長井に同意したことを
しかしながら俊輔は後年、次のように語っている。
「来原良蔵については
筆者が思うに、やはりこれも彼の親友だった松陰と同じように
何よりも来原は
最初に洋学の必要性を
「こうコロコロと藩論を左右に変えていては、私のような犠牲者がこれからも続出しますぞ!」
このような
来原には気の毒と言うべきであろうが、この来原の
翌日、来原の
藩邸内では皆が来原の死を
藩論の変更による犠牲者として気の毒ということもあるが、真っ先に横浜襲撃を唱えた忠義心、それがかなわぬとみれば即座に腹を切るという
世子定広もその死を痛く悲しみ、
この葬儀には来原の義兄である桂は無論のこと、その部下である俊輔も深く関わった。
そして俊輔は桂から、来原の遺書と
俊輔はすぐさま江戸を
道中、俊輔は歩きながら考えた。
(おそらくワシは一生かかっても来原さんや松陰先生のようにはなれんだろう。やはり武士として生まれた人間と、ワシのように百姓として生まれた人間とでは人種が違うのだろうか。だが、いつかきっと、ワシはワシのやり方で人々を正しい道へと導く人間になってみせるぞ)
俊輔二十二歳の夏のことである。俊輔の先にはまだまだ長い道が続いている。
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