第7話 イギリス艦隊横浜集結
第三章・横浜発 1<イギリス艦隊横浜集結>
前回の末尾で「物語は
高杉たちが
竹本はニールに言った。
「幕府は現在、朝廷を背後で
ニールは竹本に質問した。
「二、三の攘夷派大名とは誰のことか?」
竹本は少し考えこんでからニールに答えた。
「……我々が話したということは必ず秘密にしてもらいたいのだが、それは薩摩と長州である」
「とにかく、今さら完成
「将軍は朝廷の命令には従わなければならない。
竹本はこれに続けて、ニールにかなり突っ込んだ発言をした。
「もし説得に失敗した場合、内戦になる可能性が高い。その時
ニールは、
「……その時は、
そしてこの三日後、御殿山の公使館は高杉たちによって焼き討ちされたのである。
あまりにタイミングが良すぎるため幕府が
とにかくニールは、急な事態に備えて「イギリス艦隊の横浜集結」を香港のキューパー
御殿山の公使館を焼き討ちされて江戸
二人で建物の
そして日本の
その内容はニールもたじろぐ程、日本に対して
まず幕府に対しては
一、殺人事件に対する公式な謝罪を要求
二、犯罪に対する罰として10万ポンド(40万ドル)の支払いを要求
三、この要求を
ちなみにこの10万ポンド(40万ドル)とは日本の通貨に
次に薩摩藩に対しては
一、イギリス士官
二、被害関係者への賠償金として2万5千ポンド(10万ドル)の支払いを要求
三、この要求を拒んだ場合、薩摩藩の船舶の拿捕ないしは海上封鎖を実施する
ただし、この薩摩藩への要求には
「ただし状況によっては薩摩藩主の
と書かれていた。
この強硬な本国からの指令をニールは深刻に受け止めた。
しかし救いとしては
この時、すでに
第2話で生麦事件の当日たまたまユーリアラス号が横浜に到着していた場面があったが、実は当時キューパー提督は「日本の海上封鎖が可能かどうか?」を調査するためにやって来たのだった。
調査の結果
「江戸湾と瀬戸内海の出入り口を押さえる事は可能で、それで十分日本に対する有効な圧力になる」
と本国政府に報告していた。今回の指令に海上封鎖の指示があるのは、この調査に
その後、横浜には次々とイギリス艦隊の船が集結し始めた。
そしてこのイギリス艦隊の集結から逃れるかのように(一応当初の予定通りではあるのだが)二月十三日、将軍
当初は経費節減のため船を使って海路上洛する案もあったのだが、横浜に外国艦隊が集結している中、海路を進むのは危険として結局従来通り陸路で上洛することになった。
ちなみにこの陸路上洛の費用は150万両かかったと言われている。
江戸を出た翌日、京都を目指す将軍の一行は東海道の神奈川宿を通過した。
そのころ横浜のイギリス公使館の居住区ではサトウとウィリスと高岡が居間で食事をしていた。
ご飯とみそ汁とおかずで食事をしている高岡が、
「ウィリスさん。ご飯にジャムをかけて食べるのはやめてください」
「なんで?
「いいえ、結構です」
サトウは二人のやり取りを無視して話を変えた。
「あーあ、東海道まで行って大君(将軍)一行の様子を見学したかったなあ」
これにウィリスが答えた。
「それはやっぱり無理だろ。そもそもの問題の
「まあね。横浜の近くを通る大君の側も、我々イギリスのことを気にしてるだろうしね」
横浜に
「それにしても、もしリチャードソンたちの事件が無かったら、先頭には大君が、最後部には
将軍が江戸を出発した六日後、イギリス公使館の書記官ユースデンが船で横浜から江戸へ向かった。ニールからの通告を江戸の幕閣へ伝えるためだった。ただしこのとき江戸城は、責任者不在の“
将軍上洛に
イギリス本国からの指令を受けたニールは、幕府へ対して正式な要求書を突きつけた。
その内容は要約するとおおむね次の通りである。
・生麦事件の謝罪と、その賠償金10万ポンド(40万ドル)の支払いを要求
・さらに保留中だった第二次
・回答期限は20日間(1863年4月26日=文久三年三月九日まで)
最後に、要求が拒絶された場合「日本は非常に悲しむべき結果に見舞われることになるであろう」と書かれていた。
ちなみにこのニールの通告書を翻訳した役人の中に福沢諭吉もいた。福沢は自身の手記で次のように書いている。
「二月十九日、長々とした公使の公文が来た。その時に私共が翻訳する役目に当たっているので夜中に呼びに来て(中略)三人で出掛けて行って夜の明けるまで翻訳したが、これはマアどうなることだろうか、大変なことだ、と
将軍家茂は三月四日に入京した。
三代将軍
この将軍上洛に
これに
すでに浪士組が入京した際に
将軍上洛の前に入京していた一橋慶喜と松平春嶽は朝廷と
そして当然のことながら生麦問題も
慶喜は朝廷に対して次のように進言した。
「イギリスはこの様に申しておりますから、賠償金を支払わねば必ず戦争になります。ですが我が方の
しかし慶喜の願いは聞き入れられず、とうとう幕府は在京の諸大名に対して次のような通達を出した。
「イギリスの申し立ては受け入れ
尊王攘夷の気運が激しいご
そして三月三日には
イギリス艦隊の横浜集結以来、江戸の住民は激しく
もちろん横浜の住民も動揺していた。
日本人は次々と横浜の店をたたんで去って行き、外国人
そしてサトウと高岡が横浜の先行きについて話し合っている時、小林少年の母親がやって来て彼を連れて行ってしまった。
小林少年の母親と対応した高岡が部屋へ戻ってきてサトウに言った。
「小太郎は母親が連れて行ってしまいました。しばらく田舎へ避難するそうです」
「わかりました。それで、幕府は賠償金を支払うのか、戦争を選ぶのか、高岡さんはどう思いますか?」
「これは私の個人的な
サトウは
イギリスが設定した回答期限である1863年4月26日(文久三年三月九日)の二日前、神奈川奉行の浅野がニールを訪問した。
浅野はニールに訴えた。
「現在、将軍や幕閣が京都へ行っているので、回答するにはどうしても時間がかかるのです。
ニールは厳しい表情で答えた。
「いや、30日も待てない。どうしてもと言うのであれば、あと15日だけ
こういったやり取りがあって、回答期限は5月11日(三月二十四日)まで延長されることになった。
このころ横浜にはイギリス艦隊の船が十数
フランスは生麦事件に直接関係はないのだが、フランスのベルクール公使やジョレス提督はイギリスに同調し、日本と戦う姿勢を示したのだった。
フランスのジョレス提督はイギリスのキューパー提督と会見して次のように宣言した。
「私はあなたを助けて、日本と存分に戦うつもりだ」
そしてベルクール公使は幕府に対して
福沢諭吉はこの時のフランスの対応を次のように語っている。
「ベルクールという者がどういう気前だか知らないが、
幕末の英仏関係でよく言われるのは
「イギリスが薩長を、フランスが幕府を支援して英仏は対立関係にあった」
というものだが、それはフランス公使がベルクールからロッシュに代わった後の話である。
それからしばらくしてイギリスのニールとキューパー、フランスのベルクールとジョレスが横浜で四者会談をおこなった。
ベルクールは次のように主張した。
「我々の
ニールは以前、外国奉行の竹本正雅から「もし説得に失敗した場合、内戦になる可能性が高い。その時
ニールはベルクールの主張に対して次のように答えた。
「幕府が素直に賠償金を支払うことが一番望ましい。しかし内戦に
ニールとしては、これでもかなり踏み込んだギリギリの選択であった。
出来ればニールも日本との開戦には踏み切りたくないのである。
日本の内戦に介入することは本国政府から
もし日本と開戦した場合、横浜はもちろんのこと、同時に長崎と箱館(函館)の居留民の安全もニールは確保しなければならない。
ところが「その安全を確保するだけの戦力は
居留民の安全確保と貿易の権益確保のため、開戦の決断はなるべく先送りしたい、というのがニールの
将軍上洛の数日後、高杉晋作と
二人は長州藩士がよく利用している池田屋に入った。むろん、この池田屋は翌年新選組が討ち入る、あの池田屋である。
この二人が入京したのであるから、二人がこのあと何日間も
もしこれに伊藤
しかしこのとき俊輔はまだ入京していなかった。彼は江戸で桂の
前年の暮れに高杉、久坂、聞多、俊輔たちが御殿山を焼き討ちした後、高杉と俊輔はそのまま江戸にとどまっていたが、聞多は焼き討ちの嫌疑を避けるために、というよりも
久坂は焼き討ちの直後、佐久間
このころ象山は九年ぶりに
その自由の身となる象山を長州へ
「長州が言うような今すぐの攘夷は不可能である。今は海外の進んだ技術を取り入れて
というのが象山の回答だった。
このあと久坂は松代から京都へ入り、この池田屋で聞多に象山の話を伝えた。
聞多がイギリスへの「密航」を考えたのは、この象山の発言を聞いたことが原因である。
とまあ、一応一般的にはそのように言われているし、ほとんどの歴史書がそのように書いている。
けれども筆者は疑問に思う。
「武備の充実、海軍の強化」などということは、この当時誰でも考えていたことだ。
桂も高杉も、その他の藩士たちも、皆そんなことは当然考えていた。そして桂も高杉もヨーロッパへ行きたがっていた。しかしこの二人は藩の
そもそも海外へ行くためには幕府の許可がない限り「密航」して行くしか方法がないのである。
聞多の着眼点で一番重要なのは、この「密航」という手段を本当に実行しようとした、という点にこそあるのではないか?
まともな人間であれば、こういった発想は普通出て来ないはずで、また仮に思い浮かんだとしても実行に移そうとは思わないであろう。バレれば幕府から重罪として
しかも更に悪いことに、長州は「攘夷」を
もしこの「密航(洋行)」が世間に
この異常な神経の持ち主である聞多でなれければ「密航」など、とても実行に踏み切ろうとは思わないであろう。
(そういえば象山は松陰の「密航」に
おそらく聞多の思考回路としては、こんなところだったろう。
聞多は高杉にこのイギリスへの密航案を伝えた。
すると高杉はすぐに賛成した。この男も普通の神経の持ち主ではないのである。
そして久坂にも伝えたところ、やはり久坂は反対した。「イギリス公使館を焼き討ちしたばかりなのに、そのイギリスへ行ってどうするんだ?」と。
後世の人間から見れば、この久坂が反対した態度は
久坂たちからすれば幕府を
しかしそれでも聞多はなんとか久坂を説得した。
さらに聞多は直接藩主
けれども慶親は「そんな話は直接藩主に願い出るものではない」と聞多を
ただし聞多はこれを「不許可とされた訳ではない」とポジティブに受けとめて「いずれ藩の重役を説得してやろう」と考えた。そして慶親は「その話はそれまでとして、江戸にいる高杉を京都へ連れて来るように」と聞多に命じた。
聞多は藩主からの命で高杉を江戸から連れて来て、前述の通り京都の池田屋へ入った。そして二人は連日
数日後、池田屋にいる高杉と聞多のところへ
この兄弟は松陰から高く信頼されていたが、特に入江のほうは高杉、久坂、吉田
入江は
「今この京では
高杉は
「幕府に攘夷
入江はムッとしつつも高杉に忠告した。
「とにかく君たちの遊興は目に余る。我々国事に奔走するものは遊興を
「切腹を怖れて
高杉はそう激しく言い返すと、そのまま部屋から出て行った。
聞多はヤレヤレといった表情で入江に対して言った。
「お前たち、高杉とは付き合いが長いくせに、あんな風に言ったら逆効果なことも分からんのか」
入江は悔しそうな表情で言った。
「今、我が藩は本当に大事な時期を迎えているのだ。あいつが
「まあ、あいつはやる時にはやる男だから、多少の女遊びぐらいは大目に見てやれよ」
「“多少”じゃなかろう。あんたも含めて」
「
これを聞いて、入江と野村の表情が
「そうなのだ……。すみ子もかわいそうに……」
聞多は苦笑いをして言った。
「あんな女好きでスケベエな男に嫁ぐ女は、どこの誰であれ残念ながら幸せになれるとは思えんな。あいつが将来出世でもすれば話は別だが……」
俊輔はこの年の一月に萩の父・
現代の感覚からすると随分といい加減な「嫁取り」のように見えるかも知れないが、これは当時長州藩にあった「
入江兄弟は俊輔と同じ松下村塾出身者である。それゆえ俊輔が入江兄弟の妹であるすみ子のことを知っていた可能性がない訳ではないが、その後の手紙のやり取りなどを見る限り、俊輔のすみ子に対する関心がそれほど高かったようには思えない。
ともかくも、すみ子は萩の伊藤家へ入り、一応これで俊輔は
それから数日後、まだ俊輔が京都に到着する前の三月十一日、京都では“
行幸とは天皇が皇居を出て外出することをいう。在位中の天皇の行幸は二百数十年ぶりの事だったので多くの人々が
この行幸は天皇が賀茂神社で攘夷
ただし狙いは攘夷祈願だけではなく、幕府の権威
この時、馬に乗った将軍家茂のすぐ近くから高杉が
「いよっ、
と声をかけたエピソードは有名であろう。
この高杉のヤジが幕府の権威失墜にどれほど影響があったのかは定かではない。おそらくそれよりも、この行幸においては将軍家茂も孝明天皇の
この賀茂社行幸を
それは京都の一般民衆も承知しており、初めて天皇の鳳輦を
このあと高杉は何を思ったか、頭を
一方横浜では三月も中旬を過ぎて回答期限の三月二十四日(5月11日)が近づきつつあり、住民たちの混乱はそのピークを迎えようとしていた。
特に日本人住民たちは幕府の
「イギリスと戦争になった時には
「この前、お
こういった幕府の場当たり的な通達に振り回され、日本人住民の横浜からの流出は歯止めがかからなかった。さらにこの混乱の中で火事場
戦争が近づきつつあった横浜は、まったくカオスな状態に
そしてその被害はサトウの住居にもおよぶことになった。
ある日の朝のこと、ウィリスがサトウと共同で使っている居間へ入ってくると、サトウと高岡があわてて何かを探している場面に出くわした。いつも料理人と
ウィリスは二人にたずねた。
「あれ?朝メシは?」
サトウはえらい
「それどころじゃない!料理人と召使いが逃げた!金とか食器とか、いろいろ持ち逃げしたらしい!」
「ええっ?本当か!」
そのとき高岡が「あっ!サトウさん!」と叫んだ。サトウとウィリスは同時に高岡のほうを振り向いた。
「
高岡は
サトウは苦笑いをしながら答えた。
「ハハハ、そうですか……。それは良かったですね……」
後年サトウは次のように手記で語っている。
「料理人や召使いはピストル、日本刀、また銀だと勘違いしていたスプーンやフォーク、さらには昨晩の飯の残りまで持って逃げていった。この前々日、両替用として召使いに預けておいた多額の日本
こういった騒動が横浜でくり返されている
ニールは外国奉行の竹本
「今の横浜の混乱は目に余るものがある。幕府が通達を出して、日本人の流出を止めることは出来ないのか?」
竹本は答えた。
「あなた達が『この横浜で戦争はしない』と
竹本はベテランの外国奉行でなかなか
「……ところで、幕府は賠償金を支払う意思があるのか?」
「幕府としては支払いに応じる用意はある。ただし“賠償金”の名目ではなくて、例えば『イギリスに発注した艦船が日本に届く前に沈没した』という名目での支払いが好ましい」
ニールは厳しい表情で言い返した。
「それはダメだ。日本人の
竹本は反論した。
「しかし“賠償金”として支払えば、攘夷派が
ここでフランスのベルクールが意見を挟んだ。
「幕府の苦境は我々も承知している。幕府が本気で攘夷派を
竹本はこのベルクールの申し出を聞いて、表情が真っ青になった。
竹本はしばらく
「その申し出はありがたいが、幕府は自分たちの力で攘夷派を
これに対してニールが意見を述べた。
「もし我々の提案を拒否するのであれば、今後いかなる事態が起きても一切の責任は幕府にある。それでも提案を拒否するのか?」
竹本は苦しい表情で答えた。
「とにかく、今しばらく時間を頂きたい。もし英仏による軍事援助の話が外部に
結局、再度期限を延長して、5月23日(四月六日)に回答するということで、この日の会談は終了になった。
しかしこの頃、京都の幕府首脳部は混乱の
当初、将軍家茂の京都滞在は十日間の予定だった。それに対し長州などの攘夷派は将軍の京都引き止めを
そして攘夷派は前回の“賀茂社行幸”に引き続き、今度は“
開国もならず、攘夷もならず、さらに朝廷から「
そして春嶽は三月二十一日、その辞表の正式な
その数日前には薩摩の島津
イギリス艦隊の「生麦
しかし公武合体派である久光にとって、長州主導の尊王攘夷派が強すぎる京都では、しかも短期間の滞在では
久光は四日後に京都を去り、そしてさっさと帰国してしまった。
いつ薩摩にイギリス艦隊が
さらに土佐の山内
結局京都の幕政はただ一人、一橋
そしてこの頃すでに
清河は近藤勇や芹沢鴨から命を狙われていたのだが、それを上手くすり抜けて江戸へ向かった。
清河の最終目的は、以前少し触れたように、「横浜襲撃」である。
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