第8話 生きた器械

第三章・横浜発 2<生きた器械>


 三月中旬、伊藤俊輔は水戸の志士たちをれて京都へ入った。

 そしてこの頃、俊輔には朗報ろうほうがもたらされた。

 俊輔をあしがるから“じゅんさむらいやとい”の身分へ昇進させる、という辞令が藩から出たのだ。


 俊輔はこれでとうとうさむらいはしくれになったのである。

 辞令は次のように書かれていた。

「先年より吉田とら次郎じろう(松陰)に従学じゅうがくせしめ、かねて尊王攘夷の正義を弁知べんちし、心得こころえよろしきにつき格別の筋をもって“じゅんさむらいやとい”として一代限りの名字みょうじ名乗なのりを差し許す。文久三年三月二十日」

 ちなみに山尾庸三ようぞうも、この頃同じく“準士雇”となっている。

 やはり俊輔と一緒に「仕事に励んだ」ことが評価されたのであろうか。


 京都に着いた俊輔は久しぶりに聞多と会った。そして驚天動地きょうてんどうちの話を聞かされた。

「俺は現在、藩の重役に“洋行ようこう”を願い出ている。俊輔、お前も一緒にロンドンへ行かんか?」

 俊輔は最初、聞多が何を言っているのかさっぱり理解できなかった。

「願い出るって……、幕府がまたヨーロッパへ使節でも派遣するのか?もしそうだとしても洋行希望者は他にも大勢いるだろう?ワシらが選ばれるとは限らんぞ」

「いや、幕府は関係ない。我が藩の留学生として行くのだ」

「だから何なのだ、それは?」

にぶい奴だなあ。だから密航みっこうして行くんだよ」

「密航!?」

「シィー!でかい声を出すな。これは藩内でも極秘の話なんだぞ」


 俊輔はまったくきもをつぶし唖然あぜんとした表情になった。そして聞多の顔をまじまじと見つめた。

(密航してロンドンへ行くなどと、こいつはまったく何という恐ろしいことを考える奴だ……)

 俊輔はあまりに突拍子とっぴょうしもない話を聞かされて面食めんくらったが、その反面、何か遠くに明るい光がほのかに見えたような気もした。

「……とにかく、即答はできん。少し考えさせてくれ。萩では嫁を取ったばかりだし、近々父上が上京する予定もある。それに桂さんにも聞いてみなければならん」

「それはもちろん、そうだろう。ただ、お前にだけは言っておくが、俺はこの洋行が実現したあかつきには今の志道しじ家を出て、井上家へ戻ろうと思っている。今の養家である志道家に罪をおよぼさないためにな。それだけの覚悟でことのぞむつもりだ」

 聞多は養子に入った際に志道家の女性と結婚しており、すでに娘が一人いる。

 志道家から井上家へ戻るということは、その妻と娘と離縁りえんするというである。そのことからしても生半可なまはんかな覚悟でないことは確かであろう。


 このあと俊輔は久坂玄瑞にも再会した。そしてそれとなく久坂に、聞多の密航の件を知っているか聞いてみた。

 久坂は憮然ぶぜんとして答えた。

「もちろん知っている。俺は今そんな悠長ゆうちょうなことをしている場合ではないと言って反対した。しかし桂さんや高杉は賛成した」

「そうか。桂さんは賛成か……」

「というよりも、桂さんは自分自身が行くことを申し出ていたぐらいだ。ただしもちろん、今あの人に何年も藩を空けられたら我が藩はどうにもならん。だからそれは却下きゃっかされた」

「この前の賀茂かも行幸ぎょうこうに引き続き、今度はいわ清水しみず八幡はちまん行幸があると聞いたのだが……」

「その通り。今は朝廷を先頭に全国一丸となって攘夷実行を目指めざしている最中だ。それなのに何が洋行だ、聞多の奴め。我々はいずれくに(長州)へ帰って夷狄いてきを打ち払わねばならん。それはもうそんな遠い先のことではないぞ。当然その時は俊輔もいくさに参加するだろう?」

「もちろん。それが松陰先生の教えだったからな」

「そうだ。さすが俊輔は我ら松下村塾の一員だ。聞多とは違う」


 俊輔はこの時、聞多の密航に参加すべきか、久坂の夷狄いてき打ち払いに参加すべきか、迷っていた。

 洋行は俊輔にとって年来の大望たいもうだったとはいえ、まだ計画が確定している訳でもなく海の物とも山の物とも分からない状況だ。しかも、もしそれを希望したとしても家族をはじめまわりの環境がそれを許さない可能性もある。

 かたや長州へ帰っての攘夷実行は松下村塾生として当然の選択肢であり、なにより俊輔が準士雇という侍の端くれになれたのも、松陰の松下村塾生として尊王攘夷に命をけてきた結果である。俊輔の義兄ぎけい(妻すみ子の兄)である入江九一なども当然久坂の方針に賛同さんどうしている。

 この時の俊輔からすれば、久坂、入江たちのほうに参加して戦っている姿こそが、普通に予想された自分の将来像だった。


 この頃ちょうど山尾庸三と野村弥吉やきちのちの井上まさる)が藩のがいまるを運航して兵庫ひょうご港へやって来ていた。

 以前何度か書いたように、山尾は洋行を強く希望している人間である。

 ちなみに聞多と山尾の関係は、以前横浜でじんじゅつまるの航海練習を一緒にやっていた頃から、その後の金沢一件、御殿山ちとずっと一緒に活動してきた仲である。

 それゆえ聞多は密航の計画をくわだてた際、すぐに山尾を誘った。山尾が以前から洋行を希望していたことを聞多はよく知っていたからだ。

 無論、山尾は一も二もなく賛成した。

 そこで山尾はさらに、以前から付き合いのあった野村弥吉もこの計画に誘った。


 野村の家は上士じょうしの家柄である。しかも本人はかなり早くから洋学にはげんできた藩内きっての洋学エリートである。この時、がいまるを兵庫へ運航してきた肩書きも野村は船将せんしょう(船長)で、山尾は測量そくりょう方だった。ちなみに年齢は野村が(かぞえ年で)二十一歳、山尾は二十七歳である。山尾が以前箱館(函館)で洋学を勉強していた時に野村もそこで一緒に学んでおり、この両者はそのとき以来の仲だった。

 もちろん野村も喜んで密航計画に参加するむねを山尾と聞多に伝えた。


 この密航仲間の三人を代表して、聞多が藩の重役である周布すふ政之まさのすけに洋行の許可を願い出て直談判じかだんぱんした。

 周布は「どうせ聞多のことだから、また洋行の許可願いの件であろう」とすべてお見通しだった。それで他人に立ち聞きされないよう障子しょうじを開け放った部屋で聞多と面会した。

 周布というと以前「酔っ払って問題(特に土佐藩との問題)ばかり起こしていた人物」という印象しかないかも知れないが、これでもれっきとした藩の重役で藩の政策決定に大きな影響力を持っている人物なのだ。

「なんだ聞多、また洋行願いのもうじょうか」

「このたびは周布様に海外から買い入れて頂きたいしながありまして談判に参りました」

「なんだと?聞多。まさかまた蒸気船でも買えというのではあるまいな。昨年買った壬戌丸、今年買った癸亥丸で、すでに我が藩は手一杯じゃ」

「いえ。そのような器械ではありません。買い入れて頂きたいのは“きた器械きかい”です」

「なに?“生きた器械”だと?」

「はい。私と野村、山尾をイギリスへ行かせてくだされば、将来我が長州が開国する時にやくに立つ“生きた器械”となって帰って参ります。つきましては何卒なにとぞ、この際“生きた器械”を買ったと思って我々をイギリスへ送って頂きたいのです」

「ハハハ、なるほど、“生きた器械”か!上手いこと言うたわ!」

「器械をイギリスへ送るだけですから、これなら万一の場合、幕府への言い訳にもなるでしょう」

「バカもの。幕府にそのような詭弁きべんが通ると思うか。されど面白い申し状じゃ。藩内で異論が出た時は、その言い分を使うとしよう。伊豆倉いずくらの貞次郎に出国手続きの依頼をする際にもな」

「それではお許し頂いたということで?」

「元々ワシはお前たちの洋行に反対しておらん。他の重役が幕府に露見ろけんするのを恐れて反対しておったのだ。ワシはむしろ行くなら今のうちだと思っている。攘夷実行が始まる前にな。万一外国と戦争になったら外国へ人を送り込むこともできなくなる。特に一番危ないのは横浜だ。もしあそこで戦争が始まったら、お前たちも洋行どころではなくなるぞ」

「周布様、もし仮に洋行する人間が増えた場合、それも許可して頂けますでしょうか?」

「どのみち洋行する者は脱藩だっぱん扱いとなる。臨機りんき応変おうへん。あとはおぬしに任せる」


 周布が許可したことにより聞多たちの「英国留学」は藩から許可がりることになった。

 四月十八日、聞多、野村、山尾の三人に次のような辞令がくだされた。その概略を現代文であらわすと次の通りである。

「海外への留学希望の件は了承した。今のご時世では幕府に海外留学を願い出ても許可されがたく、また、もし外国と交戦状態になった時は海外への留学は難しくなる。それゆえ三人には五年間のひまを与えるのでしっかりと技術習得に励むように。そして後年帰参きさんしたあかつきには海軍の強化に尽力じんりょくすべし」

 そして三人には留学費用として一人二百両(合計六百両)が与えられることになった。




 一方この頃横浜では、三月下旬以降やや緊張緩和かんわの方向へ向かいつつあった。

 神奈川奉行ぶぎょうは横浜帰還をうながす通達を出し、横浜の商取引は復活する傾向にあった。そのため日本人も戻り始め、町の様子も少しずつ以前の状態に戻り始めていた。

 すでにイギリス艦隊が出現してから一月ひとつき以上もち「恐怖にれてしまった」という事もあるが、それ以上に「結局幕府は賠償金を支払うのではないか?」という漠然ばくぜんとした雰囲気が広がり始めた、ということもその背景にはあった。

 しかし、この横浜を襲撃するために京都を出発した清河きよかわ八郎と浪士たちは、三月二十八日に江戸へ戻って来た。そして彼らはそのあと着々と計画を進めていき、横浜襲撃の予定日を四月十五日と決定した。


 横浜のサトウの住居では、サトウと高岡が日本の政治状況について話し合っていた。

 高岡はサトウに日本側の事情を説明した。

「京都で新しい事情が発生したため、上様うえさまの江戸帰還は未定となりました」

 サトウは疑問に思っていたことを高岡に尋ねた。

大君タイクン(将軍)の江戸不在を理由に回答を延期してきた幕府は、これからどうするんですか?」

「分かりません。とにかくこれで、先日サトウさんに話した“老中より偉い人”からの回答延期願いもご破算になりました」


 この少し前に“老中より偉い人”からひそかに高岡へ連絡が来て、サトウ経由でニールに回答期限の延期を打診だしんしていた。その偉い人とは御三家尾張おわり藩主の徳川茂徳もちながであった。茂徳は江戸の“留守るす政府”における最高責任者の一人で、横浜のニールと京都の将軍(および一橋慶喜よしのぶ)の間で右往うおう左往さおうしている状態だった。

 本来の最高責任者である将軍家茂と一橋慶喜がいつ江戸へ戻ってくるのか?その日取ひどりが確定されないことにはニールへ回答延期を要請することも出来ない。それゆえ高岡・サトウ経由でニールへ回答延期願いを要請しようとしていた茂徳は、その要請を取り下げたのである。

 高岡は話を続けた。

「近い内に外国奉行の竹本様がまたこちらへ談合だんごうしに来られると思います。それでどのようになるのか決定するでしょう」


 数日後、京都へ行って将軍に会ってきた竹本が横浜のイギリス公使館へやって来た。

 この時、外国奉行なみの柴田剛中たけなかと通訳の福地ふくち源一郎げんいちろうなども会談に同席した。

 イギリス側の代表はもちろん代理公使のニールだが、フランスのベルクールも同席した。ちなみにサトウはまだ同席する立場にはなっていない。


 まず最初に、前回の会談で英仏側から提案された「軍事援助」の話から始まった。

 ニールは竹本にたずねた。

「この前の提案ついて、京都で大君タイクン(将軍)に会って確認を取ってきたのか?」

 竹本は答えた。

「将軍は両国の援助に対し非常に感謝していたが、やはり自分の力で解決したいので援助は受けられない、との回答である」

「了解した。その件はこれで終わりとしよう」

 ニールは無表情で答えた。ただしその隣りに座っているベルクールは、多少不快な表情をして押し黙っていた。

 つづいて賠償金支払いの問題に移った。竹本はとにかく回答期限の延長を求めてニールに食い下がった。

「あと数日、なんとか延長してもらいたい!」

 しかし竹本の期限延長の訴えはすべてニールに拒否された。

「これまで何度も延長を認めてきた。これ以上の延長は一切認められない」

 竹本はもはや賠償金の支払いを認めるしかなかった。

 あとは「どうやって内密に支払うか」という選択肢しか残っていなかった。最終的な落とし所として「分割払いで支払う」ということが決まり、この日の会談は終了した。


 ニールとしては、とにかく幕府の賠償金支払いにひとまず目処めどがついたのでホッとした。



 この会談に通訳として同席した福地源一郎は、江戸へ戻って上司の田辺太一たいちに会談の結果を報告した。

「それで福地君、会談の様子はどうだった?」

田兄でんけい見立みたて通り、賠償金を支払うことになりました」

「そうか。やはり外国奉行最古参さいこさんの竹本様でも、これ以上はねばれなかったか」

「薩摩が斬ったんだから、薩摩に責任を取らせりゃ良いんですよ」

「バカを言うな、福地君。薩摩も日本の一部であり、統治とうち責任は幕府にある。直接イギリスと交渉させる訳にはいかん。外国との交渉はすべて我々外国奉行の人間がやらなければならんのだ」

「しかし田兄でんけい。薩摩も長州も、わざと我々を困らせようとしているんじゃありませんか?」

「先日、京から戻って来られた小笠原図書頭ずしょのかみ様は、どうやら賠償金の支払いには反対らしいな」

「おそらく朝廷の意向いこうんでのことでしょう。これ以上朝廷が無茶を言うようなら、もはや京に兵を送って大掃除おおそうじすべきなんじゃないでしょうか?」

「あまり物騒ぶっそうなことを言うな。そうでなくても最近、不逞ふてい浪士が横浜を襲撃するという噂が流れているというのに」


 この田辺と福地は数年後、外国奉行の一員としてヨーロッパへ派遣されることになる。ただし福地は(先の会談に同席した柴田も)半年前に帰国した「竹内使節」の一員だったのでヨーロッパの事情についてかなり詳しい人間である。

 ちなみにこの頃、清河たち浪士組は横浜襲撃用の軍資金を調達するために江戸の豪商から「尽忠じんちゅう報国ほうこくのため」と称して大金の「り」をくり返していた。



 四月十日、横浜襲撃を五日後に控えた清河は「敵情てきじょう視察しさつ」のために横浜へ来た。

 そして山手の丘の上に登って横浜の町を一望いちぼうした。

(私がこの横浜を焼き払って攘夷のさきがけとなるのだ)

 清河は自分の手によって横浜が火の海になっている様子を想像した。


 ところで読者は覚えているかどうか?前年の生麦事件の直後に俊輔の恩師だったくるはら良蔵りょうぞうも以前、横浜を焼き払おうとしていたことを。

 実はこの「横浜襲撃」は、この時代の志士が何度も試みた「攘夷実行の定番手段」だったのである。

 このしばらく後に、今度一万円札の顔になる渋沢しぶさわ栄一えいいちもそれをくわだてることになり、さらにその後には水戸の天狗党も横浜鎖港さこう(横浜の港を閉じること)を求めて決起することになる。

 また俊輔自体も、あの御殿山焼き討ちの際に焼玉やきだまを食べて黒いゲロをいていた福原乙之進おとのしんと横浜襲撃をくわだてたという逸話いつわがあり、後年、ある人がそれを俊輔に聞いてみたところ

「そんなことはこの当時、朝飯前あさめしまえの話で格別どうのこうのと話す価値も無い。実はそんなことをくわだてた事もある。今から考えると意味不明なくわだてだった」

 と答えている。


 横浜の山手から清河が視察しているすぐ近くに、ヘボン邸が建っている。さらにそのすぐ近くにはサトウが住んでいるイギリス公使館もある。サトウはこの日、ヘボンのところへ訪れていた。

 お茶を飲みながらヘボンはサトウに語りかけた。

「三日前に江戸の公使館が火事で焼けて、我が国の公使も横浜へ移らざるを得なくなったらしい」

「やはり御殿山と同じように放火ですか?」

「まだよく分かっていないが、横浜焼き討ちの噂もあるぐらいだから、多分そうだろう。それで神奈川までは守りきれないので『神奈川のアメリカ人は全員横浜へ移るように』と日本側から説得された。もうすぐブラウン氏も横浜へ移ってくるだろう」


 当時、江戸のアメリカ公使館は麻布あざぶ善福寺ぜんぷくじにあった。それが原因不明の火事で四月七日に焼失したのだった。英仏蘭の代表はこの当時すでに横浜へ移っていた。しかしアメリカだけは江戸に残り続けていた。また神奈川宿に領事館を残していたのもアメリカだけだったのだが、これで結局すべて横浜へ移る形になった訳である。

 サトウは話を変えた。

「そうですか。ところで日本語辞書の作成作業は順調ですか?」

「君も知っての通り、日本語は非常に難解なんかいな言語だ。あと何年かかるか分からないが、死ぬまでにはなんとか完成させたいと思っている。もし横浜が戦場になるようなら、長崎か香港へ移って辞書の作成を続けるしかない。あいにく我が祖国そこくは現在内戦中で帰国できないからね」


 この当時ヘボンの祖国アメリカは南北戦争の真っ最中だった。

 余談だが、この日の六日後には榎本釜次郎かまじろう武揚たけあき)、西周助しゅうすけあまね)ら十五名の幕府留学生がオランダに到着している。この幕府オランダ留学生は当初アメリカへ留学する予定だったのだが、アメリカで南北戦争が始まってしまったためオランダ留学に変更されたのである。


 そして横浜襲撃予定日の二日前(四月十三日)、清河は麻布いちはしで暗殺された。


 暗殺したのは幕臣で浪士組幹部の佐々木只三郎たださぶろうである。

 佐々木が「お久しぶりです」と笠のひもを解きながら清河に話しかけ、清河がそれにつられて自分も笠の組み紐を解こうとした途端とたんに斬り殺された、というのも有名なエピソードであろう。この暗殺には佐々木以外にも複数の刺客しかくが関わっており、このとき清河は背後からも斬りつけられていた。

 清河は死を予感していたのか、それとも二日後の横浜襲撃で討ち死にするのを見越してのものか、彼はこの日辞世じせいの句を高橋泥舟でいしゅう(山岡鉄太郎てつたろうの義兄)の家で書き残していた。


 さきがけて またさきがけん 死出しでの山 迷ひはせまじ すめろぎの道


 清河の死によって浪士組の結成以前から清河と一緒に行動してきた山岡鉄太郎は処罰しょばつされ、免職めんしょく蟄居ちっきょとなった。また清河の計画に参加していたその他の関係者もそれぞれ処罰された。

 清河たち過激派指導部が取り除かれた浪士組は「新徴しんちょう組」と改称され、以後、江戸の市中しちゅう警備の任にくことになった。


 ちなみに、この二年ほど前には麻布いちはしからさほど遠くない麻布なかはしでアメリカ公使館通訳のヒュースケンが清河の一味によって暗殺されていた。それを思えば、この麻布一の橋で清河が暗殺されたのはある意味「因果いんが応報おうほう」と言えなくもない。

 さらにもう一つ余談を付け加えると、ヒュースケンは「通訳」だったから暗殺されたのである。

 それだけ「通訳」は貴重な存在であり、日本人と外国人の意思いし疎通そつうに欠かせない存在だった。ヒュースケンはサトウ来日前の代表的な「通訳」だったと言えるが、だからこそ暗殺者たちから狙われたのだ。

 要するにサトウが目指めざしている日本語の「通訳」というのは、尊王攘夷派からかたきにされていた職業だったということである。




 一方、清河が暗殺される二日前の四月十一日、京都では“石清水いわしみず八幡行幸ぎょうこう”が挙行きょこうされていた。

 一ケ月前の“賀茂社行幸”と同様、今回も盛大な行列となった。しかし将軍家茂いえもちは行幸前日に「風邪かぜで発熱」と称して行列に供奉ぐぶすることを辞退した。


 これは一橋慶喜よしのぶの進言によるものだった。

「このせまった状況の中、みかどから上様に如何いかなる勅命ちょくめいが下されるとも知れず、今回は辞退すべきでございます」

 そう進言し、代わりに慶喜が将軍名代みょうだいとして行幸に参列した。


 行列が石清水八幡に到着する頃にはすでに夜中になっていた。

 今回の行幸も“攘夷祈願”が目的だったのだが、実はひそかに八幡宮で帝から“攘夷の節刀せっとう”を将軍にさずける計画が仕組まれていた。

 もしこれを受け取ってしまえば将軍は“攘夷”(この場合は“外国への宣戦布告”と同義)を避けるのが難しくなる。

 今回は将軍が参列していないので名代の慶喜に節刀を授与じゅよする計画であった。


 ところが、いつまで待っても慶喜は八幡宮にのぼってこない。

 実は慶喜は腹痛と称して途中から行列を離れて京都へ引き返し、節刀の授与を回避したのだった。

 この時の慶喜の事情については後年、彼がいろいろと(仮病ではなくて本当に腹痛だったのだと)説明しているが、本当のところはよく分からない。ともかくも、彼は尊王攘夷派のたくらみから上手くのがれることが出来た。


 しかしながら尊王攘夷派の勢いはその後もとどまるところを知らず、幕府の引き伸ばし作戦もここが限界だった。

 四月十七日、三条大橋の高札場こうさつば

「これ以上、攘夷実行を引き伸ばすようなら将軍に対して天誅てんちゅうを加える」

 という張り紙がなされた。


 将軍を名指なざしして「天誅を加える」と書かれたのは前代ぜんだい未聞みもんである。

 これより少し前の話ではあるが、将軍が朝廷に江戸への帰還を申し出た際、長州の過激派が

「将軍が江戸へ帰るというのなら仕方がない。公卿門くぎょうもんの外で待ち受けて将軍を斬り殺してしまえ!」

 と叫んでいたことがあった。


 特に率先そっせんしてその実行を叫んでいたのが高杉であった。

 この男は周旋しゅうせんとか調停などといった話にはトンと興味を示さないが、過激な話にはすぐに飛びつくという性分しょうぶんだった。実際このとき高杉はすでに頭を丸めて藩から十年の暇をもらっていたにもかかわらず、このように将軍を斬ろうとしていた。

 このとき高杉は周布政之助のところを訪れて

「私は将軍を斬るための名刀を持ってないので、何か一振ひとふり名刀をさずかりたい」

 と申し出たところ周布は藩主からたまわった名刀をもってきて、毛利家の紋章をヤスリでけずって高杉に渡し

「行くがよい。ワシも後から続く」

 と言ったという。


 このとき周布に酒が入っていたのか入ってなかったのか、それは定かではないけれど確かにこの男なら、そう言ったとしてもあまり違和感はない。

 実際この時は将軍が江戸帰還をあきらめたので、この計画は立ち消えになった。

 ちなみに高杉はこのあと萩へ帰り、今度こそ“東行とうぎょう”としていおりに住みつき隠遁いんとん生活を決め込んだ。

 とにかく京都における将軍の立場というのは、これほど追いつめられていたという事である。


 その後も慶喜や幕閣は朝廷との折衝せっしょうをくり返し、なんとか幕府の命による攘夷実行を避けようと尽力した。

 しかし四月二十日、ついに朝廷に押し切られ

「五月十日をもって“攘夷”の期日とする」

 と朝廷に回答してしまったのである。


 ただしこの場合の“攘夷”というのは「拒絶きょぜつ鎖港さこう)期日」を設定しただけの攘夷であり、攻撃されてもいないのに「無差別に外国船を打ち払う」というものではなかった。


 さらに、これは慶喜の策謀さくぼうという面もあった。

 彼はひそかに、ある計画をたくらんでいたのである。

(どうせ出来ぬ攘夷実行であれば、期日は早いほうが良い。我に策あり)

 そしてこの二日後、慶喜は京都をって江戸へ向かった。

 江戸で攘夷実行の指揮をるという名目であった。



 このような国家レベルの葛藤かっとうとは別次元の話ではあるが、このとき同じく京都で葛藤していた俊輔の様子にも目を向けてみたい。

 俊輔は聞多から「藩から洋行の内定を得た」と聞かされた時、強烈に

「ワシも行きたい!」

 と思った。

 こんな好機は将来二度と無いかも知れないのだから、俊輔としては当然の感情だっただろう。


 それ以降、俊輔はどうにかして横浜へ行って聞多たち三人に加わろうと、そのための策を模索もさくしていた。

 そしてついに、そのことを上司の桂に打ち明けて相談した。

 桂はブスッとした表情で俊輔に言った。

「私の洋行が藩から却下されたというのに、お前はその私をさしおいて自分が洋行に行こうと言うのかね?まったく良い度胸だな」

 俊輔は苦しい表情で言い訳をした。

「いえ、決して桂さんをないがしろにするものではございません。私が洋行するのは将来桂さんが洋行する時に役立てるよう下見したみに行くようなものです」

「この藩が死ぬほど忙しい最中に、私は藩から散々使い倒され、お前たちはノンビリと海外留学か。なぜ逆じゃないんだ?お前たちが日本に残って死ぬ思いをし、私が海外へ行ってノンビリしたって良いじゃないか。そうだろう?」


 俊輔は少し桂が気の毒なようにも思えた。

(確かにこの人はなまじ地位と能力があるせいで、藩から使い倒されている。しかも思いつめやすい性格だからなあ……)

 といって、俊輔には桂に同情している余裕よゆうはない。なんとしてでも、この洋行の機会をモノにしなくてはならないのだ。

「将軍を京へ連れ出して攘夷を誓わせるのに一番尽力されたのは桂さんではないですか。もう少しでその成果がみのるというのに、桂さんが日本を離れる訳にはいかないでしょう。桂さんはもう長州だけにとどまらず、日本にとって不可欠な存在なのですよ」

「しかしな、俊輔。こんな私でもお前の力が頼りなのだよ。お前のように気骨があって知恵もある、そういう使える人間は滅多めったにいないのだ。私としてもお前を手放すのはしい」

「おめ頂き恐縮ですが、私の代わりはいくらでもおりますし、私が日本からいなくなっても誰もあやしまないでしょうけど、桂さんの代わりは誰にもつとまりません。もし桂さんが急に消えたら藩内だけじゃなくて、藩外の人だってあやしむでしょう」


 まったく俊輔の言う通りなのである。

 桂は俊輔に言いたいことをぶちまけたせいか、自身の洋行希望についてはあきらめがついた。

 そして「ふう」と一息ひといきため息をつき、言わでも、の一言を口にしてしまった。

「まったくお前がうらやましいよ。私がお前の身分であれば……」

 と言いかけて、やめた。


 俊輔は冷たい表情で桂をじっと見ている。

 桂はすぐ俊輔に謝った。

「いや、すまん。今のはしにしてくれ」

 桂と俊輔の付き合いは長い。桂も俊輔が自分の身分を気にしていることを重々承知している。

 もちろん、そのために俊輔が暗殺の仕事に手をめたことも。



 この翌日、桂は俊輔に仕事を依頼した。

「現在、攘夷実行を目前に控えているにもかかわらず、我が藩では武器が不足している。俊輔。一万両を用意するから横浜へ行って、買えるだけの鉄砲を買ってきてくれ」


 俊輔は一瞬ハッとなったが、そのあと思わず目から涙がこぼれ出た。

「桂さん……」

「後はお前次第しだいだ。上手うまくやれよ、俊輔」

 俊輔は桂に感謝の言葉を述べた。

「……松陰先生と来原さんの志を果たすために、私は横浜へ行きます。ご恩は決して忘れません」

 こうして俊輔は、桂のお膳立ぜんだてによって横浜へ行くことになったのだった。

 ただし、この一万両がまったく違った形でその効力をあらわすことになろうとは、桂も俊輔も想像だにしなかったであろう。



 それから数日後、俊輔は父十蔵じゅうぞうと京都の料亭で再会した。

 ちょうどこの頃、十蔵も藩の仕事で京都へ出て来ていたのだ。

「父上にはお変わりもなく、なによりでございます」

「うむ。おぬしもな。此度こたびじゅんさむらいやといへの昇進、重畳ちょうじょう至極しごくである。しかも嫁ももらって、お主にとっては最近良いことくめだな」

「はあ……。さようですな」


 俊輔にとっては複雑であった。

 洋行へ行けば一旦いったん藩から離れて準士雇の身分は消失し、また数年は帰ってこれないのだから当然、嫁のすみ子にも会えないのだ。

「どうした?俊輔。あまり嬉しくなさそうだな」

「いえいえ、もちろん嬉しいですとも」

「すみ子もよくできた女子おなごでな、琴(俊輔の母)もなかなか気に入っておるようだ。お主もお役目が忙しかろうが、暇をみつけてなるべく早く嫁に顔を見せてやれ」

「……承知いたしました……」

「どうした?元気がないではないか。何か悩みごとでもあるのか?」

「いえいえ、最近いろんなことがあり過ぎて、少し気疲れをしているだけです」


 自分が洋行へ行くことを父に打ち明けるべきかどうか、俊輔は心の中で葛藤かっとうしていた。

 けれども、そんなことを父に打ち明けたら父は仰天ぎょうてんし、失望することは目に見えている。嫁に対しての不義理もある。言えるはずがなかった。


「実は、悩みごとはあるのです」

「さもあろう。これだけ藩が多事たじ多難たなんりだからな。お主のお役目もさぞ大変であろう」

「伊藤家のため、我が藩のため、今、私はどうすべきか?最近少々悩んでおります」

「うむ。そうか……。月並つきなみな言い方しかできんが、お主の人生だ。いを残さぬよう自分の決めた道をまっしぐらに進むしかないだろう」


 俊輔は、まさに自分が思っていたのと同じ答えを述べてくれた父に感謝した。

 さらに心の中で懺悔ざんげもした。

 そして二度と会えないかもしれない父の顔をしっかりと自分の目に焼きつけた。

 なにしろ俊輔は、これから地球の裏側まで留学に行くのだ。

 この当時はちょっとした国内の旅行でも家族と再会できないことはまれではなかった。病気や事故が多いからである。それが俊輔の場合、地球の裏側まで行って数年も留学するつもりなのだから、その客死きゃくしの可能性は比べ物にならないぐらい高い。

 俊輔は、これが最後になるかもしれない父との時間を大切に過ごした。



 このあと俊輔は聞多に「自分も洋行に参加する」と伝えに行った。

「聞多。ワシも洋行に参加するぞ!藩の正式な許可を得ている暇がないので、このまま横浜へ行って事後承諾の形をとる。なに、桂さんの了解があるから大丈夫だ」

「おお!そうか。良かったのう。俺もお主と一緒に行けて嬉しいぞ」

「ワシは先に横浜へ行って、お主らが来るのを待っている。グズグズせずにさっさと来てくれよ」

「おう。俺たちも準備が出来次第できしだいすぐに横浜へ行く」

 そして俊輔はすぐに京都を発って横浜へ向かった。

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