第16話 長州、絶体絶命

第六章・反転 1<長州、絶体絶命>


 長州は、京都の幕府・諸藩しょはん連合軍という前門の虎に惨敗ざんぱいし、下関の四ヶ国連合艦隊という後門の狼にも惨敗して、いまや瀕死ひんしの状態にあった。

 しかもあろうことか、尊王攘夷のさきがけであった長州が、いまや逆に朝廷から追討ついとう令をうける「ちょうてき」となってしまっているのである。

 これほど凄まじい逆境というのは、なかなかあるものではなかろう。


 禁門の変直後の七月二十三日、朝廷から長州追討の命令が出た。

 これをうけて幕府は長州追討軍を出動させることになった。

 こういった動きのなかで薩摩の小松帯刀たてわき

「今こそ長州を征伐する絶好の機会であり、将軍家が御進発ごしんぱつすれば必ず勝てます」

 と幕府に進言するなど「将軍進発」を求める声が様々なところから上がった。

 にもかかわらず、幕府にはその決断ができなかった。

 そのあと、紆余うよ曲折きょくせつを経て、征長総督せいちょうそうとくには前尾張藩主の徳川慶勝よしかつが就くことになり、その参謀に西郷吉之助が就くことになった。


 同じ頃、長州藩内では二つの派閥が内部抗争を激化させていた。

 その二つの派閥とは、幕府の命令を全面的に受けいれるべきと唱える「絶対ぜったい恭順きょうじゅん派」と、一応幕府に最低限の謝罪はするが不当な要求には断固戦うと唱える「武備ぶび恭順きょうじゅん派」である。

 前者には萩に拠点を置く家格かかくの高い武士層が多く、一般に「俗論派ぞくろんは」と呼ばれ、後者には山口に拠点を置く奇兵隊など身分の低い者たちが多く、一般に「正義派」と呼ばれていた。無論、前者が自分たちのことを「俗論派」などと呼ぶはずもなく、後者が勝手にそう叫んでいたまでのことである。


 「俗論派」からすれば、今回のように長州が滅亡の危機にひんしているのは「正義派」が無茶な尊王攘夷を唱えて暴走し、その結果、京都へ乱入して敗れ、さらに下関で外国船を砲撃して外国艦隊から報復攻撃をくらったからだ、と思っている。


 実際、常識的な神経で考えればその通りであろう。

 以前、藩内の過激な尊王攘夷思想によって長井雅楽うたが切腹に追い込まれたことがあったが、事ここに及んで事態が逆転した。今度は、過激な尊王攘夷を唱える正義派が俗論派によって次々と粛清しゅくせいされていったのである。

 余談ではあるが、この正義派と俗論派の争いはこれまでもずっと続いており、一年前の「八月十八日の政変」の直後にも抗争があった。その時は正義派が勝利したが、その際俗論派の領袖りょうしゅうである坪井九右衛門くえもんなどが処刑された。この坪井九右衛門は佐藤家から坪井家へ養子に入った人物で、その佐藤家というのは岸信介のぶすけや佐藤栄作えいさくに繋がる家系であり、安倍晋三首相にも血が繋がっている。


 九月二十五日、山口で藩の方針を決める御前会議が開かれ、正義派と俗論派が夜まで激しく討議した。

 このとき正義派の一人として聞多は、持ち前の激しい気性で俗論派の意見を次々と論破した。また聞多は兵力をもって俗論派を打倒する計画もたてていた。

 しかし、その計画はすでに俗論派の知るところとなっていた。


 この御前会議が終わり、聞多が讃井さない町のそでときはし付近を歩いている時に事件は起こった。


 以前書いたように聞多の家は湯田ゆだ村(現在の山口市湯田ゆだ温泉おんせん)にあり、山口政事堂せいじどうから少し南西に行ったところにある。そでときはしはそのちょうど中間に位置しており、あたりにはいもばたけが広がっていた。

 聞多が従僕じゅうぼく浅吉の提灯ちょうちんに導かれて自宅へ向かって歩いていると袖解橋の少し手前にさしかかったところで突然、暗闇から一人の武士が現れた。

「井上聞多さんでありますか」

「ああ、そうだ」

 そう聞多が答えるやいなや、不意に聞多の背後から別の男が聞多の両足を引っ張って押し倒した。そしてもう一人の男が、倒れた聞多の背中へ長刀でおもいっきり斬りつけた。

 これで聞多の体は真っ二つになるはずだった。が、たまたま聞多の刀が転んだ拍子ひょうしで背中に回って、それが斬撃ざんげきをいくらか防ぐ形になった。ただしそれでも相当の深手ふかでを負い、背中から血が吹き出た。

 聞多はすかさず起き上がって刀で防戦しようとしたものの後頭部にひと太刀たち、さらにみぎほおから唇にかけて一太刀びせられた。

 なにしろ相手は三人である。聞多は次々と斬られ下腹部、そして脚部へと散々に斬られた。ただし下腹部への斬撃は、祇園ぎおんきみが聞多と別れる際に贈った手鏡が懐中にあったため、それが刀を防いだ。

 傷だらけになった聞多は、刀で防御する構えから突然身をひるがえして飛ぶように逃げた。

「逃がすな!追え!」

 三人は必至で聞多を追いかけた。が、すぐに見失ってしまった。そしてその周囲をしきりと探してはみたものの聞多を発見することはできなかった。

「くそっ、逃がしたか。だが、かなりの深手を負わせたはずだ。あれならおそらく助かるまい」

 そして三人は現場から逃走した。


 聞多は芋畑に転がって気を失いかけていた。

 その時、聞多は前方に農家のあかりを見つけた。そしてなんとかその農家にたどり着いて転がり込んだ。

 いきなり血みどろの侍が玄関に転がり込んできたので農家の家族たちは仰天ぎょうてんした。しかし彼らがよくよく見てみると、その侍が井上家の聞多であることが分かった。この辺りでは井上家は名家なのである。農夫たちはすぐに聞多を湯田村の井上家へ運んで行った。


 この少し前、聞多の兄五郎三郎は従僕浅吉から急報をうけてすぐに襲撃現場へ駆けつけた。しかし聞多を見つけることができなかった。仕方なく家へ戻ってくると血みどろになった聞多が横たわっており、そのかたわらで母が泣き崩れて悲しんでいた。

「おい、しっかりしろ!誰にやられたのだ!」

 兄が聞多に問いかけても聞多はほとんど口をきけず、ただ手真似てまねで自分の意志を示すだけだった。

介錯かいしゃくを頼む……)

 兄は涙を流してうなずき、刀を引き抜いたところ、母が驚いて兄にすがりつき

「五郎三郎、待っておくれ。たとえ無駄でも傷口を縫い合わせて、出来るだけのことをためしてやりたい」

「母上、この傷ではどんな名医でも助けることは不可能です。早くこの苦しみからいてやるのが慈悲じひというものでしょう」

 兄はそう言って刀を振りあげた。母はとっさに聞多の体におおいかぶさって

「どうしても介錯したければ母と一緒に斬れ!」

 と叫んだので兄も折れて、母の意志を受けいれることにした。


 そしてこの直後、聞多の友人のところいく太郎たろうが急を聞いて駆けつけて来た。彼は美濃みの赤坂あかさか(岐阜県大垣市)出身の蘭方らんぽうでありながら、奇兵隊などの諸隊の一つである「遊撃隊」で参謀をつとめていた。彼は焼酎で傷を洗浄した後、たたみばりを使って傷を縫い始めた。六か所の傷を五十針ほど縫合したので翌未明までかかったという。


 ちなみにこの「聞多の母の話」は、昭和八年から昭和十九年まで初等科の国語教科書で『母の力』として紹介されていた話で、戦前は(所郁太郎のことも含めて)誰もが知っている有名な話だったそうである。



 この聞多の手術が終わった日(すなわち九月二十六日)、周布政之助が自刃じじんした。これまで藩政をになってきた重役の一人として、責任をとって自刃したのである。


 周布は正義派の擁護者的な人物ではあったが俊輔たち五人のロンドン留学に尽力した人物でもあり、決して過激な攘夷主義者という訳ではなかった。むしろ高杉、俊輔、聞多たち開国派の三人を庇護ひごする立場にあったと言える。

 ただし彼の場合、時勢じせいなげき悲しんで自殺したという訳ではない。

 この少し前、禁門の変で敗れた軍の責任者たち(三家老)に対して

「なぜ、すぐにでも切腹しないのか。君公くんこう(藩主)父子には関わりのない事と遺書を残して切腹すれば良いのだ」

 と考えていたようで(もともと周布は京都出兵に反対の立場だったが)、この周布の自刃は藩を護るため全長州人に奮起ふんきをうながすための憤死ふんしだった。

 村松たけし氏の『めた炎』(中央公論社)によると

「幕軍が攻めて来たら死霊と化しても戦うから、遺体は街道のかたわらに埋めよと息子の公平にいいおいた」

 とのことである。

 これまで見てきた彼の行動からしても、確かにそういった人物であったろう。

 とにかく、この聞多の負傷と周布の自刃によって正義派の勢力は大きく後退することになり、むくなし藤太とうたたち俗論派が政権を掌握しょうあくすることになった。

 そして藩主父子は俗論派にようされて萩へ帰ることになった。さらに正義派の主要人物は次々と罷免ひめんまたは投獄とうごくされた。



 下関にいた俊輔は、聞多の負傷を聞くとすぐにはや駕籠かごを飛ばして山口へ向かった。

 俊輔は駕籠の中で聞多の容態ようだいを心配した。

瀕死ひんしの重傷という話だが、あの殺しても死にそうにない聞多が、重傷などということがあるものか。きっと大げさに伝わっているだけだろう。きっとそうだ……)

 そして俊輔が湯田村に着いて井上家へ飛び込んでみると、傷だらけになった聞多が横たわっていた。

 まさに瀕死の重傷であった。

 まったく目も当てられない状態とはこの事である。

 聞多は意識がないようで、俊輔が上からのぞき込んでもそれに気がつかない様子だった。

 俊輔は聞多が本当に生きているのかどうか、不安になった。それで思わず涙が流れ出て、その涙が聞多の顔に落ちた。

 すると聞多が目を開けた。

「おい!死ぬな、聞多。イギリス行きの船で借りた分を、ワシはまだお主に返しておらんぞ。貸し逃げする気か!」

 聞多は肩で息をしながら俊輔に答えた。

「……すぐに馬関ばかん(下関)へ帰れ。ここにいると、お主も危険だ。俺が死んでお主も死ぬと、イギリスのことを知る人間がいなくなる。そうなったら長州に未来はない。すぐ馬関へ帰れ……」

 俊輔は「必ず助けに来る」と聞多に約束して井上家を去った。そして下関へ戻る時に力士りきし隊三十名を率いて戻って行った。


 一方、高杉晋作は筑前ちくぜん(現在の福岡県)へ脱出した。

 この前後、高杉は山口と萩を行き来していたが、俗論派が政権を掌握するに及んでさっさと藩外へ脱出することを決断したのだった。

 この辺りの行動は、これまで何度も脱藩や奇行きこうをくり返してきた高杉だからこそ出来た即断そくだん即決そっけつの行動と言える。なまじ藩の職務に精励せいれいしてきた他の正義派の藩士たちは、かえって高杉のような身軽な行動がとれず、高杉が脱出を勧めても彼らは藩内にとどまった。そして次々と俗論派にらえられていった。

 その高杉の脱出もギリギリのタイミングであった。

 高杉が萩の家を出たその二時間後に、俗論派のさし向けたり手が家へやって来た、という有り様だった。

 そして高杉は十月二十五日、山口へ出て聞多を見舞った。

「いったん藩外へ出て、必ず勢力を立て直して戻って来る」

 そう聞多に告げ、高杉は去っていった。

 それから高杉は手ぬぐいでほおかむりをして、刀のつかの先に香油こうゆびんをぶら下げて「田舎の神主かんぬしが山口へ買い物に来たような身なり」にけて山口を脱出した。そして山口を出た途端とたん、立派な武士の身なりに戻って「君命くんめいの早駕籠である」と駕籠屋に命じて三田尻へ行き、そのあと海を渡って筑前へと逃れたのだった。




 この頃「長州征伐」の諸藩連合軍は長州の四境を十五万の大軍で取り囲んでいた。

 この長州征伐のかぎを握る人物は、征長軍の参謀、西郷吉之助であった。

 小松帯刀が幕府に「将軍進発」を督促とくそくしていたのと同じく、西郷も「将軍進発によって長州をたすべきである」と当初は考えていた。

 もしこの時幕府が即座に「薩摩と組んで長州を討ち果たす」という決断をして「将軍進発」を敢行かんこうしていたならば、その後の歴史は大きく変わっていただろう。

 しかしくり返しになるが、幕府はその決断ができなかった。


 そして幕府は、それとは別のまったくどうでもいい案件で決断力を発揮させた。

 二年前に政事せいじ総裁そうさい職・松平春嶽しゅんがくもと断行だんこうされた「参勤交代制度の緩和かんわ」を、旧来の形に戻す、と発令したのである。

 これが発令されたのはちょうど長州征伐の準備が進められていた九月一日のことであった。

 長州が京都と下関で敗れたことで自信を取り戻しつつあった幕府は、この「参勤交代制度の復旧ふっきゅう」によって再び諸藩をまとめあげようとしたのである。

 ところが、これがまったくの裏目に出た。逆に幕府は再び諸藩から反発を買うことになったのだ。

 それはそうだろう。各藩の国防費を充実させるために始めた「参勤交代制度の緩和」を、今さら元に戻すと言われて諸藩が納得するはずがない。

 そしてこの頃日本国内では、西の長州問題だけではなくて、東の水戸でも天狗党の問題が発生していた。

 そのため幕府軍は長州へ向かう以前に、水戸で戦うことを余儀よぎなくされていたのである。この天狗党は長州の桂小五郎としめし合せて蜂起ほうきしたという説があるが真相しんそうは定かではない。もしこれが真実であれば、確かに桂は幕府軍の矛先ほこさきを長州からそらすことに成功したと言えよう。

 このあと天狗党勢は、水戸出身の一橋慶喜に尊王攘夷を訴えるため京都へ向かって移動して行くことになるのだが、逆に慶喜は、天狗党勢を討伐するために軍勢を率いて京都を出発するのである。そのため慶喜も、長州問題に力をそそいでいられる状態ではなかった。


 さらに幕府にとって不幸だったのは、征長軍の参謀である西郷が出陣前に勝海舟と出会ってしまった、ということである。これは九月二十一日、大坂での出来事だった。

 勝が西郷に述べた話を簡単に言ってしまえば、次のようになる。

「長州を滅ぼそうとするのはおやめなさい。幕府は土台から腐りきっているのでアテにしないで、雄藩ゆうはんが連合して「共和きょうわ合議ごうぎ)政治」をおこなう形を目指すべきです」

 まあ幕府から見れば、このように幕府の実情を赤裸々せきららに語る勝の発言は「それがまぎれもない事実」であったとしても、反逆はんぎゃく行為として処分すべき対象であったろう。

 この会談の中で西郷は勝に対して次のような質問をした。

「外国船が大坂湾に侵入して兵庫開港を迫ってきたらどうすれば良いのか?」

 すると勝は次のように答えた。

「今の幕府は外国人から完全にナメられているので幕府ではどうにもなりません。有力な四、五藩の兵力を背景として外国人と折衝せっしょうしたほうが良いでしょう」

 西郷はこの時の会談で勝から強い感銘かんめいを受けたようで「ひどくほれ申した」と感想を述べている。

 そしてこの会談をきっかけにして勝の弟子である坂本龍馬は薩摩藩の庇護ひごを受けるようになるのである。

 禁門の変の後、勝や龍馬がいた神戸海軍操練所そうれんじょは閉鎖となって勝は江戸へ召喚しょうかんされ、龍馬たち実習生は行き場がなくなっていた。それを西郷が引き受けたのである。この時龍馬が西郷のことを「大きな鐘のような男で、大きく叩けば大きく鳴り、小さく叩けば小さく鳴る。もしバカなら大バカで、利口なら大利口」と評した話は有名であろう。

 ちなみにこの勝と西郷は四年後の「江戸開城」の際に再び顔を合わせることになるが、その時はサトウも、この二人の陰で動き回ることになる。

 とにかく西郷は、この勝との会談を契機けいき

「長州征伐を無理押しして、幕府だけを喜ばせるような真似まねはしない」

 と決断したのである。


 このあと西郷は征長軍の軍議で

「長州人をもって長州人を制する」

 という策を進言して、十月二十二日、これが征長軍の方針となった。「戦わずして勝つ」という方針である。当然、この方針には幕閣を中心に反対する声も多く上がった。「実際に軍を動かして長州を征伐すべきである」と。

 しかし実際に軍を動かすとなると金も時間もかかる。また自軍の消耗しょうもうも覚悟しなければならない。さらに実際に外国船に対して攘夷を実行した長州は意外と民衆に人気があり、しかも「同じ日本人である長州人を討つのは気が引ける」ということもあって結局この「長州人をもって長州人を制する」という西郷の案が採用されることになった。


 とはいえ西郷もそれほど甘い人間ではない。

 西郷は「長州に同情して長州を生かそうとした」という訳ではない。

 西郷としては、以前のように薩摩を圧迫するほど「強力な長州」が復活することは避けたい。薩摩にとって「手駒てごまの一つとして利用できる程度の長州」であってもらいたいのだ。それゆえ長州藩内を二つに分裂しておいて、内部抗争によって長州全体の力を弱めたいと考えていた。

 征長軍が長州に対して真正面から軍事力を発動すると、長州藩内が一つに団結してしまう恐れがある。西郷は諜報ちょうほう活動によって長州藩内で奇兵隊などの諸隊が力を持ちつつあることを把握はあくしており、正義派が政権をとった場合「強力な長州」が復活する可能性がないとは言い切れないと予感していた。だからこそ西郷としては、長州には俗論派の政権が望ましいと思っていた。俗論派政権によって正義派を制することこそが、西郷の言う「長州人をもって長州人を制する」という意味である。


 西郷は征長軍の前線基地である広島に入り、それから長州藩の支藩しはん岩国いわくに藩に入った。この岩国藩の藩主・吉川きっかわ監物けんもつを仲介役にして長州に降伏条件を飲ませるつもりなのである。十一月四日、西郷は岩国で吉川監物と面会し、禁門の変の責任者である三家老と参謀たちの処分を迫った。

 この吉川監物は以前「八月十八日の政変」の場面で少しだけ触れたが、関ヶ原の戦いに参加した(というかお昼ご飯を食べてていくさに参加しなかった)吉川きっかわ広家ひろいえに繋がる家系である。関ヶ原の敗戦(というか不戦敗)処理で吉川家が主家である毛利家を残すため奔走ほんそうしたように、今回の禁門の変の敗戦処理でも、その仲介役をつとめることになったのである。


 西郷から提示された条件を受けて長州の俗論派政権は、ただちに三家老を切腹させ、四人の参謀を斬首ざんしゅした。

 三家老とは福原越後えちご益田ますだ右衛門介うえもんのすけ国司くにし信濃しなののことで、四人の参謀とは宍戸ししど左馬介さまのすけ、佐久間佐兵衛さへえ、竹内正兵衛しょうべえ、中村九郎のことである。これらの人々はほとんどが吉田松陰の関係者で、皆、正義派に属する人々であった。

 また、来島又兵衛や久坂玄瑞らは戦死したと征長軍に報告した。

 すると征長軍から次のような詰問きつもんがあった。

「桂小五郎と高杉晋作は今どうしているのか?」

 この詰問に対して長州側は

「二人とも行方不明である」

 と答えた。

 実際、長州の俗論派政権としても、この二人の正義派要人ようじんの行方を知りたかったのだが、本当に行方不明なのでそう答えざるを得なかった。

 無論、伊藤俊輔などという小物こものは幕府も俗論派政権も相手にしていなかった。俊輔の身分が低かったことは、この点に限って言えば幸いだったと言える。


 あと、西郷から提示された条件で残っているのは

「藩主父子が謝罪状を提出して寺に蟄居ちっきょすること」

「山口城の破却はきゃく

きょうの藩外への移転」

 の三つであった。

 藩主父子の謝罪状提出と蟄居はすぐに実行され、城の破却も形ばかりの検分けんぶん(急いでいたのでかわら二、三枚を割っただけともいう)がおこなわれてあっという間に終了した。

 一番問題となったのは「五卿の藩外への移転」であった。

 ちなみにこの五卿とは「八月十八日の政変」で都落ちした三条実美さねとみたち七卿のうち、その後二名が欠けて(一名病没びょうぼつ、一名逃亡)五名になったことに対する呼び名である。

 幕府は当初、五卿を江戸へ送るように主張していたが、これは西郷が「そんな強硬なことをすれば談判が壊れる」として幕府の意向を拒否した。

 一方、長州藩内の正義派および奇兵隊などの諸隊にとっても五卿は「尊王攘夷の象徴」として手離す訳にはいかなかった。それゆえ諸隊は征長軍からの条件を耳にすると、五卿を奪われないようにするため山口から下関の長府・こう山寺ざんじへ移すことにした。

 ただし先回りして述べてしまえば、そのあと五卿は西郷と筑前藩士らの周旋しゅうせんによって九州へ渡り、最終的には太宰府だざいふで薩摩藩士などの庇護ひごを受けるようになるのである。


 かくして、西郷が提示した降伏条件がすべて満たされる見通しがついたので、征長軍は解兵かいへいされることになった。

 すべては西郷の思惑おもわく通りになったと言って良い。

 もちろん幕府上層部や会津藩などは、この結果にはなはだ不満であった。

 なかでも慶喜が征長総督・徳川慶勝の対応について

「長州征伐の進捗しんちょく状況は不明瞭ふめいりょうであり、総督の本心も理解しがたい。総督は西郷といういも焼酎じょうちゅうに酔ったらしい」

 などと言ってなげいた話は有名であるが、先述した通り、幕府が「将軍進発」を決断できず、幕府軍も派遣せず、諸藩軍や西郷という「他人の力」をあてにしたのがそもそも失敗の始まりだったのだ。そして天狗党その他の悪条件もかさなったので、このような形で長州征伐が終了となったのは必然の結果であったと言えよう。

 なにしろ江戸の幕閣は、征長軍が長州に対して寛大かんだいな処分をしたのは「朝廷と慶喜が結託けったくして長州を擁護したからだ」と見ていたほどで、それぐらい江戸の幕閣は京都の慶喜を信用しておらず、幕府内部の足並みはまったくそろっていなかったのである。




 さて、ここでそろそろ話を横浜のサトウへと戻す。

 下関戦争が終わって横浜へ帰ってきたサトウは、この下関戦争で通訳として貢献したことが認められて約150ポンドのボーナスが支給しきゅうされることになった。当時「通訳生」だったサトウの年俸は200ポンドだったので、これは相当な額のボーナスと言える。ちなみにサトウはこの半年後に「日本語通訳官」に昇進して、年俸は400ポンドになる。

 しかしながらそういったサトウの個人的な話はさておき、この下関戦争が幕府と横浜の外国人たちに及ぼした影響について見ておきたい。


 まず幕府は、下関戦争で四ヶ国が長州を破ったことを受けて、横浜鎖港さこう撤回てっかいすることになった。


 西で長州が敗れ、あとは東の天狗党をつぶしてしまえば日本国内で「攘夷」を叫ぶ声はほとんど無くなるはずだ、と見た幕府は、いよいよ幕府本来の方針だった「開国」へ向けてかじを切ることになったのである。この点について言えば、問題の根本的な解決を先送りし続けて時期を待った幕府のねばり勝ちと見ることもできよう。


 以後、幕府と諸外国との外交問題は「条約じょうやく勅許ちょっきょ」と「兵庫開港」にしぼられていくことになる。

 兵庫開港問題はこれまで何度も触れてきたので説明の必要は無かろうと思うが、条約勅許については、ここで少し説明しておく必要があるだろう。


 幕府と諸外国との間で安政あんせい五年(1858年)に修好しゅうこう通商つうしょう条約じょうやく(安政五カ国条約)を締結ていけつしたことは第一章で説明した。

 しかしこの条約締結は、大老の井伊直弼なおすけが朝廷の勅許を得ずに無断で締結したものだった。このことによって幕末の混迷こんめい拍車はくしゃがかかったことは、これまで見てきた通りである。

 尊王攘夷派は「違勅いちょく条約を廃止しろ」と叫び、開国派は「勅許があろうとなかろうと、現実に即して対応すべきだ」と反論し、両者の対立が激化した。


 諸外国は最初、朝廷(天皇)という存在を軽視していた。

 あくまで日本国の皇帝は大君タイクン(将軍)であり、ミカド(天皇)については「精神的な皇帝」とみなす程度で、大君の許可がありさえすれば貿易活動は可能であろうと思っていた。

 事実、諸外国が日本へやって来るまではそうだったのであり、だからこそ幕府も当初は「外交は幕府の専権せんけん事項じこうである」と考えていた。条約の勅許をかたくなにこばむ朝廷(特に孝明天皇)に対し、井伊大老が説得をあきらめて無断で条約締結に踏みきったのも「外交は幕府の専権事項である」と思っていたからである。


 ところがその井伊大老が桜田門で首をはねられて以降、朝廷の力が幕府を上回るようになってしまった。このことについても、これまで散々見てきた通りである。

 当初朝廷を軽視していた諸外国も、ここへ来て朝廷の存在を重要視するようになった。

「要するに、朝廷から条約の勅許が出ていなかったことが、ここまで外交が混乱した原因である」

 諸外国の外交代表は皆そのように考え始めた。


 イギリス公使であるオールコックも無論、そう考えた。

 そしてオールコックが幕府に対して「条約勅許を朝廷から獲得せよ」と迫ろうとしていた矢先、イギリス本国のラッセル外相からオールコックに対して「帰国命令」が届いたのである。


 四ヶ国艦隊が横浜を出発する際に少し触れたが、ラッセル外相はオールコックの下関遠征に反対していた。

「日英の全面戦争になる可能性が無いとは言えず、そこまでリスクをおかして日本の内戦に介入する必要があるのか?」

 というのがラッセル外相の考えであった。しかし当時の日英の移動には約二ヶ月かかったので「下関遠征の中止」の命令が間に合わなかったというのは、先述した通りである。

 ラッセル外相は「下関遠征の中止」の命令を出した後、とうとうオールコックに「帰国命令」まで出した。そしてそれが下関戦争からしばらく経って、ようやく横浜に届いたという訳である。


 もちろんオールコックはラッセル外相の判断に対して大いに反論した。

 実際オールコックの目論見もくろみ通りの結果となり、下関遠征は大成功に終わったのだから当然だろう。

 この辺りのオールコックとラッセルのやり取りも約二ヶ月(往復では四ヶ月)のタイムラグを挟んでのやり取りなので隔靴搔痒かっかそうようの感もあり、その内容をいちいち紹介するつもりもないが、結果的に言えばラッセルは、すぐに手のひらを返してオールコックの行動を称賛しょうさんするようになったのである。

 そして帰国命令を出したオールコックに対し、再び日本へ戻って日本公使を続けるように要請ようせいするようになった。

 しかしオールコックはそれを拒否した。一度ケチをつけられたからには、そう簡単に要請を引き受ける気にはなれなかったのであろう。


 ともかくも、オールコックはこれで日本を去ることになった。

 これは一見いっけん地味な話に見えるかも知れないが、後世から見れば「幕府の命運にとって重要な転換点だった」と我々の目には映る。


 オールコックという公使は、基本的に幕府擁護ようごの姿勢が強いイギリス公使だったと言える。

 ロンドンで開市開港の延期交渉を引き受けてくれたのは彼であり、また下関遠征を発動して長州を叩いてくれたのも彼である(ただしどちらもその代償だいしょうは高くついたのだが)。

 そういったことは幕府側もある程度認識していたようで、オールコックの日本離任が決まって以降、なんとかオールコックに対して日本にとどまってくれるよう要請した。しかしイギリス本国が決めた人事異動じんじいどうを日本側でどうにかできるはずもなく、結局オールコックは日本を去ることになり、後任の到着を待つことになったのである。


 後任が到着するまではウィンチェスターという人物が代理公使をつとめることになるが(以前のニール代理公使がそうであったように)、翌年新しい日本公使として横浜に赴任ふにんすることになるのは「あのハリー・パークス」である。



 ところで話は変わるが、西国で長州征伐がおこなわれていた頃、鎌倉でイギリス士官二名が斬殺ざんさつされた。

 十月二十二日の出来事で、横浜に駐屯ちゅうとんするイギリス第二十連隊のボールドウィン少佐とバード中尉が鎌倉八幡宮の近くで日本人浪士に斬殺された。鎌倉、江の島、金沢は横浜の外国人たちに人気の観光地で、この二人も馬に乗って鎌倉見物に来ていた時に凶行きょうこうってしまったのだった。

 この一年ほど前に横浜近郊の井土ヶ谷いどがや村で起きたフランス人士官殺害事件(井土ヶ谷事件)では結局犯人がつかまらなかった。それゆえ今回の事件(鎌倉事件)でも犯人は捕まらないだろうと横浜の外国人社会は予想していた。


 ところが今回の鎌倉事件では約一ケ月後に犯人の一人が捕縛ほばくされたのである。

 清水清次せいじという男だった。この捕縛の日はオールコックが横浜から帰国する前日だったので

「喜んだオールコックは自分のくさり付き懐中時計を取り出して、吉報を伝えた使者の首にかけてプレゼントした」

 とサトウの手記には書いてある。

 この犯人の清水清次が捕まる前に二名の共犯者(蒲池かまいけ源八、稲葉丑次郎)が逮捕され、すでに斬首されていた。ただし、この二名は鎌倉事件とは関係がない強盗事件で清水清次と共犯していただけで、鎌倉事件の共犯者として斬首することには一部で疑問の声もあったらしい。


 サトウはこの三人の公開処刑にすべて立ち会ったが、やはり気分が悪くなったようである。

 またサトウはイギリス公使館の一員として清水清次に直接質問して犯行理由などをただした。そして「清水がこの事件の犯人であることを確信した」と手記で述べている。

 実際「他のアジア諸国でよくあるように、犯人は外国人を納得させるためのえ玉ではないのか?」という声もいくつかあったようだが直接本人と話したサトウが「清水が犯人である」と確信しているのだから、多分そうなのであろう。


 清水清次の処刑場面については、当時横浜にいたサトウ以外の外国人もたくさん記録に残している。またワーグマンは清水のさらし首のイラストを書いているし、ベアトは写真でその記録を残している。

 しくもワーグマンとベアトは、ボールドウィン少佐とバード中尉が鎌倉で惨殺される一時間前に江の島で二人と出会っていた。

 それゆえ外国人のなかには、鎌倉でイギリス人二名が斬殺されたと聞いて「ワーグマンとベアトが殺されたのでは?」と心配した人々もいた。


 斬首される直前の清水が詩をぎんじていた、あるいは何かを吟唱ぎんしょうしていた、というのは様々な本で書かれているが、例えばサトウと一緒に清水の処刑に立ち会ったウィリスは次のように述べている(『ある英人医師の幕末維新』ヒュー・コータッツィ、中央公論社、訳・中須賀哲朗)。

「非常に不敵な態度で、死の直前に詩を吟誦ぎんしょうし、気持を高揚させて、日本は外国の支配下に屈するであろうと明言したのです」


 またドイツ人ブラントが書いた『ドイツ公使の見た明治維新』(新人物往来社、訳・原潔、永岡敦)では次のように書かれている。

「斬首される前、彼はもう一度、挽歌ばんかを口ずさんだ。『今まさに浪人清水清次、死におもむかんとす。恐れはあらず、ばん誅殺ちゅうさつ悔悟かいごなし。愛国の志士に栄光あれ』。それから彼は刑吏けいりに合図をし、首を差し延べて刀を受けた」


 清水の首が斬られると、その場で準備していたイギリス陸軍砲兵隊が号砲を発射し、外国人を暗殺した犯人の処刑がおこなわれたことを横浜の人々に対して報告した。 

 この数年前には、尊王攘夷派が好んで外国人を殺害して幕府を困らせようとしたものだが(この物語の第二章における高杉晋作の行動が、まさにそれである)この鎌倉事件はそういった政略的な目的を持って起こされたものではなく、突発的に起きた事件のようである。また犯人も早めに捕まったので以前の生麦事件のような政治的紛争(例えば賠償金問題)も起こらずこのまま決着することになった。


 ちなみにこの鎌倉事件ではもう一人、間宮はじめという犯人もいて、彼は翌年捕まって同じように斬首されるのだが、その時もサトウは処刑の場に立ち会っている。そしてサトウは「私は清水と間宮が真犯人である事について何の疑いも持っていない」と述べている。


 最後に余談を一つだけ述べる。

 この当時、横浜では林董三郎とうざぶろう(後の林ただす。蘭方医の松本良順りょうじゅんの実弟)がヘボンの所で英語を習っていた。ちなみに高橋是清これきよも同じ頃にヘボンのところで英語を習っていたが、この二人はのち、日露戦争の時に重要な日英外交の仕事をすることになる。ただしそれはこの物語とはまったく関係がない。が、この林が回顧録かいころくで、この頃の幕閣の様子について面白いことを書き残している。

「外国人の殺害があるたびに、まず起こるのは賠償金問題である。アメリカのリンカーン大統領が暗殺されたという情報が伝わってきたとき(※リンカーンが暗殺されるのはこの半年後のこと)その情報を老中へ上申じょうしんしたところ、老中は顔をしかめて『ああ、また賠償金か』とため息をついたという」

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