第16話 長州、絶体絶命
第六章・反転 1<長州、絶体絶命>
長州は、京都の幕府・
しかもあろうことか、尊王攘夷のさきがけであった長州が、いまや逆に朝廷から
これほど凄まじい逆境というのは、なかなかあるものではなかろう。
禁門の変直後の七月二十三日、朝廷から長州追討の命令が出た。
これをうけて幕府は長州追討軍を出動させることになった。
こういった動きのなかで薩摩の小松
「今こそ長州を征伐する絶好の機会であり、将軍家が
と幕府に進言するなど「将軍進発」を求める声が様々なところから上がった。
にもかかわらず、幕府にはその決断ができなかった。
そのあと、
同じ頃、長州藩内では二つの派閥が内部抗争を激化させていた。
その二つの派閥とは、幕府の命令を全面的に受けいれるべきと唱える「
前者には萩に拠点を置く
「俗論派」からすれば、今回のように長州が滅亡の危機に
実際、常識的な神経で考えればその通りであろう。
以前、藩内の過激な尊王攘夷思想によって長井
余談ではあるが、この正義派と俗論派の争いはこれまでもずっと続いており、一年前の「八月十八日の政変」の直後にも抗争があった。その時は正義派が勝利したが、その際俗論派の
九月二十五日、山口で藩の方針を決める御前会議が開かれ、正義派と俗論派が夜まで激しく討議した。
このとき正義派の一人として聞多は、持ち前の激しい気性で俗論派の意見を次々と論破した。また聞多は兵力をもって俗論派を打倒する計画もたてていた。
しかし、その計画はすでに俗論派の知るところとなっていた。
この御前会議が終わり、聞多が
以前書いたように聞多の家は
聞多が
「井上聞多さんでありますか」
「ああ、そうだ」
そう聞多が答えるやいなや、不意に聞多の背後から別の男が聞多の両足を引っ張って押し倒した。そしてもう一人の男が、倒れた聞多の背中へ長刀でおもいっきり斬りつけた。
これで聞多の体は真っ二つになるはずだった。が、たまたま聞多の刀が転んだ
聞多はすかさず起き上がって刀で防戦しようとしたものの後頭部に
なにしろ相手は三人である。聞多は次々と斬られ下腹部、そして脚部へと散々に斬られた。ただし下腹部への斬撃は、
傷だらけになった聞多は、刀で防御する構えから突然身を
「逃がすな!追え!」
三人は必至で聞多を追いかけた。が、すぐに見失ってしまった。そしてその周囲をしきりと探してはみたものの聞多を発見することはできなかった。
「くそっ、逃がしたか。だが、かなりの深手を負わせたはずだ。あれならおそらく助かるまい」
そして三人は現場から逃走した。
聞多は芋畑に転がって気を失いかけていた。
その時、聞多は前方に農家の
いきなり血みどろの侍が玄関に転がり込んできたので農家の家族たちは
この少し前、聞多の兄五郎三郎は従僕浅吉から急報をうけてすぐに襲撃現場へ駆けつけた。しかし聞多を見つけることができなかった。仕方なく家へ戻ってくると血みどろになった聞多が横たわっており、その
「おい、しっかりしろ!誰にやられたのだ!」
兄が聞多に問いかけても聞多はほとんど口をきけず、ただ
(
兄は涙を流してうなずき、刀を引き抜いたところ、母が驚いて兄にすがりつき
「五郎三郎、待っておくれ。たとえ無駄でも傷口を縫い合わせて、出来るだけのことを
「母上、この傷ではどんな名医でも助けることは不可能です。早くこの苦しみから
兄はそう言って刀を振りあげた。母はとっさに聞多の体に
「どうしても介錯したければ母と一緒に斬れ!」
と叫んだので兄も折れて、母の意志を受けいれることにした。
そしてこの直後、聞多の友人の
ちなみにこの「聞多の母の話」は、昭和八年から昭和十九年まで初等科の国語教科書で『母の力』として紹介されていた話で、戦前は(所郁太郎のことも含めて)誰もが知っている有名な話だったそうである。
この聞多の手術が終わった日(すなわち九月二十六日)、周布政之助が
周布は正義派の擁護者的な人物ではあったが俊輔たち五人のロンドン留学に尽力した人物でもあり、決して過激な攘夷主義者という訳ではなかった。むしろ高杉、俊輔、聞多たち開国派の三人を
ただし彼の場合、
この少し前、禁門の変で敗れた軍の責任者たち(三家老)に対して
「なぜ、すぐにでも切腹しないのか。
と考えていたようで(もともと周布は京都出兵に反対の立場だったが)、この周布の自刃は藩を護るため全長州人に
村松
「幕軍が攻めて来たら死霊と化しても戦うから、遺体は街道のかたわらに埋めよと息子の公平にいいおいた」
とのことである。
これまで見てきた彼の行動からしても、確かにそういった人物であったろう。
とにかく、この聞多の負傷と周布の自刃によって正義派の勢力は大きく後退することになり、
そして藩主父子は俗論派に
下関にいた俊輔は、聞多の負傷を聞くとすぐに
俊輔は駕籠の中で聞多の
(
そして俊輔が湯田村に着いて井上家へ飛び込んでみると、傷だらけになった聞多が横たわっていた。
まさに瀕死の重傷であった。
まったく目も当てられない状態とはこの事である。
聞多は意識がないようで、俊輔が上からのぞき込んでもそれに気がつかない様子だった。
俊輔は聞多が本当に生きているのかどうか、不安になった。それで思わず涙が流れ出て、その涙が聞多の顔に落ちた。
すると聞多が目を開けた。
「おい!死ぬな、聞多。イギリス行きの船で借りた分を、ワシはまだお主に返しておらんぞ。貸し逃げする気か!」
聞多は肩で息をしながら俊輔に答えた。
「……すぐに
俊輔は「必ず助けに来る」と聞多に約束して井上家を去った。そして下関へ戻る時に
一方、高杉晋作は
この前後、高杉は山口と萩を行き来していたが、俗論派が政権を掌握するに及んでさっさと藩外へ脱出することを決断したのだった。
この辺りの行動は、これまで何度も脱藩や
その高杉の脱出もギリギリのタイミングであった。
高杉が萩の家を出たその二時間後に、俗論派のさし向けた
そして高杉は十月二十五日、山口へ出て聞多を見舞った。
「いったん藩外へ出て、必ず勢力を立て直して戻って来る」
そう聞多に告げ、高杉は去っていった。
それから高杉は手ぬぐいで
この頃「長州征伐」の諸藩連合軍は長州の四境を十五万の大軍で取り囲んでいた。
この長州征伐の
小松帯刀が幕府に「将軍進発」を
もしこの時幕府が即座に「薩摩と組んで長州を討ち果たす」という決断をして「将軍進発」を
しかしくり返しになるが、幕府はその決断ができなかった。
そして幕府は、それとは別のまったくどうでもいい案件で決断力を発揮させた。
二年前に
これが発令されたのはちょうど長州征伐の準備が進められていた九月一日のことであった。
長州が京都と下関で敗れたことで自信を取り戻しつつあった幕府は、この「参勤交代制度の
ところが、これがまったくの裏目に出た。逆に幕府は再び諸藩から反発を買うことになったのだ。
それはそうだろう。各藩の国防費を充実させるために始めた「参勤交代制度の緩和」を、今さら元に戻すと言われて諸藩が納得するはずがない。
そしてこの頃日本国内では、西の長州問題だけではなくて、東の水戸でも天狗党の問題が発生していた。
そのため幕府軍は長州へ向かう以前に、水戸で戦うことを
このあと天狗党勢は、水戸出身の一橋慶喜に尊王攘夷を訴えるため京都へ向かって移動して行くことになるのだが、逆に慶喜は、天狗党勢を討伐するために軍勢を率いて京都を出発するのである。そのため慶喜も、長州問題に力を
さらに幕府にとって不幸だったのは、征長軍の参謀である西郷が出陣前に勝海舟と出会ってしまった、ということである。これは九月二十一日、大坂での出来事だった。
勝が西郷に述べた話を簡単に言ってしまえば、次のようになる。
「長州を滅ぼそうとするのはおやめなさい。幕府は土台から腐りきっているのでアテにしないで、
まあ幕府から見れば、このように幕府の実情を
この会談の中で西郷は勝に対して次のような質問をした。
「外国船が大坂湾に侵入して兵庫開港を迫ってきたらどうすれば良いのか?」
すると勝は次のように答えた。
「今の幕府は外国人から完全にナメられているので幕府ではどうにもなりません。有力な四、五藩の兵力を背景として外国人と
西郷はこの時の会談で勝から強い
そしてこの会談をきっかけにして勝の弟子である坂本龍馬は薩摩藩の
禁門の変の後、勝や龍馬がいた神戸海軍
ちなみにこの勝と西郷は四年後の「江戸開城」の際に再び顔を合わせることになるが、その時はサトウも、この二人の陰で動き回ることになる。
とにかく西郷は、この勝との会談を
「長州征伐を無理押しして、幕府だけを喜ばせるような
と決断したのである。
このあと西郷は征長軍の軍議で
「長州人をもって長州人を制する」
という策を進言して、十月二十二日、これが征長軍の方針となった。「戦わずして勝つ」という方針である。当然、この方針には幕閣を中心に反対する声も多く上がった。「実際に軍を動かして長州を征伐すべきである」と。
しかし実際に軍を動かすとなると金も時間もかかる。また自軍の
とはいえ西郷もそれほど甘い人間ではない。
西郷は「長州に同情して長州を生かそうとした」という訳ではない。
西郷としては、以前のように薩摩を圧迫するほど「強力な長州」が復活することは避けたい。薩摩にとって「
征長軍が長州に対して真正面から軍事力を発動すると、長州藩内が一つに団結してしまう恐れがある。西郷は
西郷は征長軍の前線基地である広島に入り、それから長州藩の
この吉川監物は以前「八月十八日の政変」の場面で少しだけ触れたが、関ヶ原の戦いに参加した(というかお昼ご飯を食べてて
西郷から提示された条件を受けて長州の俗論派政権は、ただちに三家老を切腹させ、四人の参謀を
三家老とは福原
また、来島又兵衛や久坂玄瑞らは戦死したと征長軍に報告した。
すると征長軍から次のような
「桂小五郎と高杉晋作は今どうしているのか?」
この詰問に対して長州側は
「二人とも行方不明である」
と答えた。
実際、長州の俗論派政権としても、この二人の正義派
無論、伊藤俊輔などという
あと、西郷から提示された条件で残っているのは
「藩主父子が謝罪状を提出して寺に
「山口城の
「
の三つであった。
藩主父子の謝罪状提出と蟄居はすぐに実行され、城の破却も形ばかりの
一番問題となったのは「五卿の藩外への移転」であった。
ちなみにこの五卿とは「八月十八日の政変」で都落ちした三条
幕府は当初、五卿を江戸へ送るように主張していたが、これは西郷が「そんな強硬なことをすれば談判が壊れる」として幕府の意向を拒否した。
一方、長州藩内の正義派および奇兵隊などの諸隊にとっても五卿は「尊王攘夷の象徴」として手離す訳にはいかなかった。それゆえ諸隊は征長軍からの条件を耳にすると、五卿を奪われないようにするため山口から下関の長府・
ただし先回りして述べてしまえば、そのあと五卿は西郷と筑前藩士らの
かくして、西郷が提示した降伏条件がすべて満たされる見通しがついたので、征長軍は
すべては西郷の
もちろん幕府上層部や会津藩などは、この結果に
なかでも慶喜が征長総督・徳川慶勝の対応について
「長州征伐の
などと言って
なにしろ江戸の幕閣は、征長軍が長州に対して
さて、ここでそろそろ話を横浜のサトウへと戻す。
下関戦争が終わって横浜へ帰ってきたサトウは、この下関戦争で通訳として貢献したことが認められて約150ポンドのボーナスが
しかしながらそういったサトウの個人的な話はさておき、この下関戦争が幕府と横浜の外国人たちに及ぼした影響について見ておきたい。
まず幕府は、下関戦争で四ヶ国が長州を破ったことを受けて、横浜
西で長州が敗れ、あとは東の天狗党を
以後、幕府と諸外国との外交問題は「
兵庫開港問題はこれまで何度も触れてきたので説明の必要は無かろうと思うが、条約勅許については、ここで少し説明しておく必要があるだろう。
幕府と諸外国との間で
しかしこの条約締結は、大老の井伊
尊王攘夷派は「
諸外国は最初、朝廷(天皇)という存在を軽視していた。
あくまで日本国の皇帝は
事実、諸外国が日本へやって来るまではそうだったのであり、だからこそ幕府も当初は「外交は幕府の
ところがその井伊大老が桜田門で首をはねられて以降、朝廷の力が幕府を上回るようになってしまった。このことについても、これまで散々見てきた通りである。
当初朝廷を軽視していた諸外国も、ここへ来て朝廷の存在を重要視するようになった。
「要するに、朝廷から条約の勅許が出ていなかったことが、ここまで外交が混乱した原因である」
諸外国の外交代表は皆そのように考え始めた。
イギリス公使であるオールコックも無論、そう考えた。
そしてオールコックが幕府に対して「条約勅許を朝廷から獲得せよ」と迫ろうとしていた矢先、イギリス本国のラッセル外相からオールコックに対して「帰国命令」が届いたのである。
四ヶ国艦隊が横浜を出発する際に少し触れたが、ラッセル外相はオールコックの下関遠征に反対していた。
「日英の全面戦争になる可能性が無いとは言えず、そこまでリスクをおかして日本の内戦に介入する必要があるのか?」
というのがラッセル外相の考えであった。しかし当時の日英の移動には約二ヶ月かかったので「下関遠征の中止」の命令が間に合わなかったというのは、先述した通りである。
ラッセル外相は「下関遠征の中止」の命令を出した後、とうとうオールコックに「帰国命令」まで出した。そしてそれが下関戦争からしばらく経って、ようやく横浜に届いたという訳である。
もちろんオールコックはラッセル外相の判断に対して大いに反論した。
実際オールコックの
この辺りのオールコックとラッセルのやり取りも約二ヶ月(往復では四ヶ月)のタイムラグを挟んでのやり取りなので
そして帰国命令を出したオールコックに対し、再び日本へ戻って日本公使を続けるように
しかしオールコックはそれを拒否した。一度ケチをつけられたからには、そう簡単に要請を引き受ける気にはなれなかったのであろう。
ともかくも、オールコックはこれで日本を去ることになった。
これは
オールコックという公使は、基本的に幕府
ロンドンで開市開港の延期交渉を引き受けてくれたのは彼であり、また下関遠征を発動して長州を叩いてくれたのも彼である(ただしどちらもその
そういったことは幕府側もある程度認識していたようで、オールコックの日本離任が決まって以降、なんとかオールコックに対して日本にとどまってくれるよう要請した。しかしイギリス本国が決めた
後任が到着するまではウィンチェスターという人物が代理公使をつとめることになるが(以前のニール代理公使がそうであったように)、翌年新しい日本公使として横浜に
ところで話は変わるが、西国で長州征伐がおこなわれていた頃、鎌倉でイギリス士官二名が
十月二十二日の出来事で、横浜に
この一年ほど前に横浜近郊の
ところが今回の鎌倉事件では約一ケ月後に犯人の一人が
清水
「喜んだオールコックは自分の
とサトウの手記には書いてある。
この犯人の清水清次が捕まる前に二名の共犯者(
サトウはこの三人の公開処刑にすべて立ち会ったが、やはり気分が悪くなったようである。
またサトウはイギリス公使館の一員として清水清次に直接質問して犯行理由などを
実際「他のアジア諸国でよくあるように、犯人は外国人を納得させるための
清水清次の処刑場面については、当時横浜にいたサトウ以外の外国人もたくさん記録に残している。またワーグマンは清水のさらし首のイラストを書いているし、ベアトは写真でその記録を残している。
それゆえ外国人のなかには、鎌倉でイギリス人二名が斬殺されたと聞いて「ワーグマンとベアトが殺されたのでは?」と心配した人々もいた。
斬首される直前の清水が詩を
「非常に不敵な態度で、死の直前に詩を
またドイツ人ブラントが書いた『ドイツ公使の見た明治維新』(新人物往来社、訳・原潔、永岡敦)では次のように書かれている。
「斬首される前、彼はもう一度、
清水の首が斬られると、その場で準備していたイギリス陸軍砲兵隊が号砲を発射し、外国人を暗殺した犯人の処刑がおこなわれたことを横浜の人々に対して報告した。
この数年前には、尊王攘夷派が好んで外国人を殺害して幕府を困らせようとしたものだが(この物語の第二章における高杉晋作の行動が、まさにそれである)この鎌倉事件はそういった政略的な目的を持って起こされたものではなく、突発的に起きた事件のようである。また犯人も早めに捕まったので以前の生麦事件のような政治的紛争(例えば賠償金問題)も起こらずこのまま決着することになった。
ちなみにこの鎌倉事件ではもう一人、間宮
最後に余談を一つだけ述べる。
この当時、横浜では林
「外国人の殺害がある
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