第17話 功山寺決起と桂小五郎の帰国
第六章・反転 2<功山寺決起と桂小五郎の帰国>
この頃、高杉晋作は筑前にいた。
そして五卿を長州から筑前へ移すために
二人とも同じ時期に筑前にいたのである(ただしその時期が重なるのは十一月二十四日頃の短期間だけだが)。
それゆえ、昔から「高杉と西郷が筑前で(または下関で)会談をしたという伝説」があるのだが、近年ではそれを肯定する説を見かけることはほとんどない。司馬遼太郎大先生も『世に棲む日日』の中で「(晋作は)第一、西郷に会ったこともない。(略)なによりもかれは西郷と薩摩藩がきらいであった」と書いている。
高杉が筑前にいた頃、勤王歌人・野村
「薩摩の
と散々薩摩の悪口を言って断ってしまった。
高杉自身は禁門の変に参戦していなかったけれど、盟友であった久坂たちを薩摩・会津勢に殺されていたのだから、こういった反応になるのも無理はない。
このあと高杉は彼らから「長州で三家老や参謀たちが処刑された」という話を聞いた。
この話を聞いて高杉は決心した。
「もはや他藩に
この高杉の決心を聞いて筑前の同志たちは
「まだ時期尚早だろう。もうしばらく様子を見てはどうか?」
と止めたが高杉は聞かなかった。
高杉は筑前で九州諸藩の同志と提携して長州へ反攻作戦を起こすことも考えた。だが所詮、彼には「人を
(長州のことは長州人がやるしかない)
高杉は十一月二十五日、下関へ帰った。
同じ頃、伊藤俊輔は下関で外国人応接の仕事をしていた。
この十一月の末頃には横浜から帰国するオールコックが、長崎へ向かう前にこの下関に立ち寄って俊輔と会っている。オールコックとしては自分が
俊輔がオールコックと会うのはこれで三度目である。一度目は聞多と一緒にロンドンから戻って来て横浜で会った時。二度目は井原家老らと賠償金支払いの確認で横浜へ行った時である。
俊輔は下関でオールコックと会って、自身の近況を伝えた。
「私は今、下関のあたりに
オールコックの記録には、俊輔がこう答えたと書いてある。
確かにこのとき俊輔は部隊の隊長をつとめてはいたが、それは三十名しかいない力士隊の隊長である。おそらく奇兵隊などの諸隊全部を合わせても1,400名もいなかっただろう。オールコックの聞き間違いか、あるいは俊輔の下手くそな英語が誤って伝わったのか、定かではない。
下関に戻って来た高杉は「
諸隊の中では「
この隊は以前、
遊撃隊以外の諸隊は、どの隊も高杉の挙兵計画に応じなかった。
高杉は山県
「諸君が俺の言うことに同意してくれないのは
その様子は「泣くが
けれども、隊長たちはただただ高杉の
ちなみに「赤根武人の説」とは俗論派との
高杉以外の人間は全員「高杉は狂った」と思った。
高杉自身は「松陰先生が唱えておられた“
諸隊の隊長を説得できなかった高杉は、俊輔に挙兵への参加をもちかけた。
「俊輔、お前も力士隊を
「分かりました」
即答であった。
「……そうか、助かる。お前だけは裏切らないと信じていたが、もしお前に反対されたらどうしようかと思ったぞ」
「周布さんが死に、桂さんは行方知れずで、
かくして十二月十五日の夜、雪の降る中で「
高杉は五卿に別れのあいさつを告げに来たのである。
眠っていた五卿を起こして、高杉は別れの
そして高杉は馬に乗って別れのあいさつを告げた。
「これより長州男児の肝っ玉をお目にかけます!今から兵を挙げ、俗論派を討ち果たしてご覧にいれます!」
そう言うや、高杉たち八十人は下関の
あとは
のちに俊輔が高杉を評して
「動けば雷電の如く、発すれば風雨の如し」
と述べたというのは有名な話だが、高杉や俊輔たちは下関の会所を襲撃して占領することに成功した。ここは萩の俗論派政権の出張所であり、役人を追放して軍資金、武器、食料を確保した。次いで、船に乗って三田尻へ向かい藩の軍船
これに対し萩の俗論派政権は正義派の
当初高杉の挙兵計画に反対していた奇兵隊などの諸隊も、高杉の挙兵に刺激され、さらに俗論派政権が実力行使に乗り出してきたのを受けて、ついに挙兵を決断して長府から軍を北上させた。
年が明けて一月七日の未明、山県狂介率いる奇兵隊などの諸隊約百名は、
いわゆる「
一方この頃、諸隊の一部が山口へ攻め込み、この地域一帯を制圧した。
そして高杉や所郁太郎らが、俗論派から軟禁状態にされていた聞多を救出した。
このあと聞多は傷を負った身でありながら
大田・絵堂の戦いは終始奇兵隊などの諸隊が優勢に戦いを進め、十六日の
そしてそれより少し前の話になるが、赤根武人が下関の俊輔のところへやって来て、俊輔を高杉から
奇兵隊の
しかし高杉の忠実な子分である俊輔がそんな赤根の策謀に乗る訳がなく、逆に赤根が奇兵隊から追われることになり、さらに長州からも追われる身となった。このあと赤根は幕府と通じるようになり、一年後、裏切り者として長州で斬首されることになる。
赤根が目指した道筋は決して間違ったものではなかったはずなのだが、歴史は無情にも時々こういった不運な男を生み出すことがある。
大田・絵堂の戦いに敗れたことで萩の政府では内部分裂を起こしはじめていた。
中立派として第三者的なスタンスをとりつつも正義派に同情的であった人々が「
そして諸隊の軍が萩へ近づくにおよんで、
かくして、二月中には長州藩内の内戦も終了し、再び正義派の政権が樹立されることになった。そして藩主敬親は再び山口へ移ることになったのである。
正義派政権樹立の
その彼を、周囲の人間が長州陸軍の総督につけようとしたのは、自然の流れであったと言えよう。
ところがここで突然、高杉は「イギリスへの洋行」を藩に願い出たのである。そして俊輔にイギリスへ同行するように命令した。
「もう一度イギリスへ行くのは私の念願でしたから喜んでお
「次の戦争は、おそらく相手は幕府になるだろうが、多分もう少し先のことになるだろう。その時まで俺の出番は無い。だから三年前に行きそびれた洋行へ、今のうちに行くのさ」
続けて高杉は言った。
「それにな、俊輔。およそ人というものは
この「
実際この時点においても、奇兵隊などの諸隊は
さらに諺ついでで言うと「
俊輔は高杉の顔を見つめながら、心の中でつくづく思った。
(まったく腰の落ち着かぬ人だ。まあ、この人らしいとも言えるが……)
結局高杉は奇兵隊などの諸隊の処遇については聞多と
ところで、以前帰国途中のオールコックが下関に立ち寄った際、俊輔がその応接を担当した。そうやって俊輔は下関に外国船が立ち寄る際にはその応接係を担当していたので、下関を通る外国船とのやり取りにはかなり
三月二十日、長崎行きのイギリス商船ユニオン号が下関に立ち寄った。俊輔がこの船に乗り込んでみると以前知り合ったイギリス人がいた。そこで高杉と自分を長崎まで乗せてくれるように依頼すると意外にもあっさりと了解が得られた。
ちなみにこのユニオン号は、後に「薩長同盟」の一環として俊輔と聞多が長崎で購入手続きに関わることになるのだが、この時の俊輔は、そんなことは予想だにしていなかった。
二人は船内で洋服に着替えて髪型もザンギリ頭にした。そして二日後、西洋人風に変装して長崎のイギリス領事館を訪れた。二人がこのように変装したのは幕府の探索、特に長崎奉行所の探索から
二人は領事館のガウアー(エーベル・ガウアー)にイギリス行きの話を相談した。
余談だが、このガウアーは以前「俊輔たち長州ファイブ」がイギリスへ行く時に横浜で仲介役をした「ジャーディン・マセソン商会の横浜支店長ガウアー(サミュエル・ガウアー)」とは別人である。史料によってはこの二人を混同したり、あるいは兄弟としているものも散見されるが、領事館員のエーベル・ガウアーにはのちに日本で鉱山開発に従事することになるエラスムス・ガウアーという兄弟はいるが、マセソン商会のサミュエル・ガウアーとの関係は不明である(近親者だろうとは言われている)。ただし領事館員のガウアーも俊輔たち五人がイギリスへ行く時に横浜で彼らから何度も相談を受けていたので、俊輔とは旧知の仲だった。この頃ガウアーは横浜から長崎へ転勤して来ていた。
そしてこの高杉と俊輔のイギリス行きには、長崎のグラバーも相談に乗ることになった。
というよりも、グラバー商会はマセソン商会の子会社であり、グラバーはマセソン商会同様、日本人のヨーロッパへの密航留学に深く関与していた人物である。
この物語では以前第四章の薩英戦争の場面で五代
出港場所は
五代と松木が薩英戦争後、清水
とにかく、高杉はグラバーに対して以前からの持論である「下関開港論」を
「我が長州は薩摩にも幕府にも負けない力を身に付けるつもりである。そのためには下関を開港して
これに対してグラバーが答えた。
「それはとても良い考えです。下関を開港するのは私たち外国商人も望むところです。でも、今あなたたち二人がイギリスへ行くのはやめたほうが良い」
俊輔はグラバーの意外な答えを聞いてがっかりした。
「なぜダメなのか?」
「もうしばらくすると次の公使、ハリー・パークスが日本に来ます。下関を開港する話はパークスに言ったほうが良い。それにあなたのような重役は長州に残って、実際に下関が開港できるように藩を説得したほうが良い。ついこの前まで外国船を砲撃していた長州が、本当に下関を開港できますか?」
高杉は即答できなかった。
「あの日本一の攘夷藩である長州が、本当に下関を開港できるんですか?」
これを言われると高杉はぐうの
高杉と俊輔はグラバーの忠告を受けいれて、イギリス行きを断念することにした。
けれども高杉は、自分の代わりとなる若い長州人をイギリスへ送り込むことにした。今イギリスに残っている山尾、野村、遠藤の三人に続く、新しい留学生の派遣計画である。
自分の
そして高杉と俊輔はこのとき長崎で記念写真も撮った。高杉が真ん中で椅子に腰かけて座り、向かって右側に俊輔が腰の刀に手をかけて立ち、向かって左側に
高杉と俊輔は長州へ戻って、この下関開港論を聞多にも相談した。
もちろん聞多は二人の意見に賛成した。この三人は以前から「三人党」と呼んでもいいぐらいに「開国」で意見が一致していたのだから当然だろう。
そして聞多が内々に藩政府へ下関開港論を相談してみたところ、藩政府もそれに賛成し、高杉、俊輔、聞多の三人を下関での外国人応接役にあたらせた。
ところがこの下関開港論が世間に
そもそも正義派の主張は、表向きは「尊王攘夷」なのである。ただし鉄砲・大砲などの武器に限っては、実際に西洋と戦ってみて西洋兵器の優秀さを身にしみて分かったので、それを導入することにやぶさかではないけれど、それでもやはり感情面では尊王攘夷を捨てきれない人間がほとんどなのである。
なにしろ四ヶ国との戦争からまだ半年ほどしか経っておらず、その直前まで長州全土は攘夷一色だったのだから無理もなかった。あからさまに尊王「開国」を唱える高杉、俊輔、聞多の三人党が、この長州ではあまりにも
そしてこれはいつの世でも言えることだが、この広い世の中、狂信的な人間が
さらに言えば、三人の命が狙われたのは“攘夷”という思想面からの理由だけではなかった。
経済面での理由もあったのである。
下関の領地の大半が
以前から長州本藩は、高い収益をあげる下関港を本藩領として取り上げ、長府藩には別の土地(
今回、下関開港論が世間に広がったことによって長府藩の
「これを機会に本藩は我々から
と騒ぎだしたのである。
この騒ぎを受けて長州本藩は下関開港論を否定する触れ書きを出し、高杉、俊輔、聞多の三人を外国人応接役から外すことにした。
要するに三人を見捨てたのである。
命を狙われた三人は、すぐに藩外へ逃亡することにした。
高杉は以前、俗論派から糾弾された時もすぐに筑前へと逃亡したものだが、こういう時の判断は素早い。商人に変装して
聞多は
湯治場で体中の刀傷の理由を博徒から聞かれた際には「若気のいたりで、人妻に手を出して斬られた」と聞多は笑って答えたというが、のちに中井
そして俊輔は
(ワシは対馬へ逃げて、この際だから朝鮮まで行ってみよう)
と考えて、対馬行きの船を出している伊勢屋の土蔵に潜伏し、対馬行きの船を待つことにしたのだった。
その伊勢屋へ向かう途中、
俊輔は彼女の近くまで走って来ると
「すまん!
そう言うと俊輔は、素早く茶店の
その直後、刀を握って恐ろしい表情をした男たちが数人、彼女の前に現れて
「おい!今ここに男が一人逃げて来なかったか?」
(あの人、何をしたのか知らないけど、ここで白状したら間違いなく殺されるわ。もし悪人だとしても、私のせいで殺されるのはかわいそう……)
それで彼女はおびえた表情のまま、別の出入口の方を
これを受けて、男たちはそちらの方向へと走り去っていった。
男たちが去った後、俊輔はおそるおそる軒下からはい出て来た。もちろん蜘蛛の巣やらホコリやらでゴミまみれである。
「……助かりました。本当にありがとう」
そう言って俊輔が礼を述べつつ、あらためて彼女の顔をよく見ると、
命を狙われている最中とはいえ、無類の女好きである俊輔がこの機会を逃すはずがない。
「いずれご恩返しに来ます。あなたのお名前は?」
彼女は、この何者かも知れない
「梅」
と本名をあかした。
俊輔は後に潜伏状態から解放されると、この茶屋のお梅のもとへ通いつめるようになる。そして彼女が稲荷町の芸者見習いになってからも通いつめ、その後とうとう結婚することになるのである。
言うまでもなく、彼女は後の伊藤梅子である。この当時、数えで十八歳(満年齢では十六歳)。
問題なのは、俊輔にはすでにすみ子という妻がいたことであった。
しかしこれまで見てきたように、二年前にすみ子が萩の家へ来て以降、俊輔はほとんど萩の自宅へ帰っていないのである。
すみ子が
結局俊輔は梅子を選び、すみ子とは離縁することになるのだが、俊輔の母・琴がすみ子を気に入っていたので琴がなかなか承知しなかったという。それでもとにかく、翌年にはすみ子と離婚することになるのである。
そしてこの頃、俊輔には「待ちに待った朗報」が届いた。
桂小五郎が長州に帰ってきたのである。
禁門の変の後、桂は
桂が京都で知り合った
桂はその後、出石や
「今さらべつに申すこともなく、野に倒れ山に倒れてもさらさら残念はこれなく、ただただ雪の消ゆるを見てもうらやましく、ともに消えたき心地いたし申し
桂は潜伏中このような感傷的な手紙を書いて甚助に送っている。
ただし桂の女好きは相変わらずで、この
ちなみに以前、俊輔が桂のために骨を折って落籍した
そしてこの年の二月、長州で正義派政権が誕生したことを知った桂は、甚助に手紙を持たせて村田のもとへと送り込んだ。手紙を読んだ村田はさっそく桂を長州へ呼び戻そうと考え、俊輔と幾松に相談した。
(とうとう桂さんが長州へ帰ってくる!)
俊輔は目の前がパッと明るくなるような心地がした。俊輔だけではなく、多くの長州藩士が桂の帰国を待ち望んでいたのである。
桂を出石へ迎えに行く適任者は、やはり幾松以外におらず、本人もそれを強く希望したのでさっそく幾松と甚助が出石へと向かった。そして幾松は上手く桂を出石から脱出させることに成功した。ただし、甚助は出石へ向かう道中、大坂で悪い癖を出して村田から預かっていた路銀をすべてバクチで使い果たして
かくして四月二十六日、桂小五郎は下関へ帰って来た。俊輔はさっそく桂に会いに行った。
「よう、俊輔。こんなに早く再会できるとは思ってなかったぞ。ずいぶん早くイギリスから帰って来たものだな」
「何が早いものですか、桂さん……。まだ二年しか経ってないのに色んなことがあり過ぎて、もう何年も経ってしまったような気分ですよ。本当によく無事で……」
と言ったところで俊輔は涙がこぼれてきて、それ以上しゃべれなくなった。
「お互いにな。さっそくお前のイギリスでの話を聞かせてもらいたいところだが、その前にお前の命を狙っている連中をなんとかしないといかんな」
俊輔、高杉、聞多の命を狙っていた長府藩の報国隊は、野々村
この男は江戸の斎藤道場「練兵館」で桂の弟子だった男である。それゆえ桂が野々村を説教するとたちまち俊輔に謝罪し、高杉と聞多を狙うことも取り止めた。
この暗殺者たちへの
しかし桂が長州へ戻ってきたのはこのような小事のためではない。
藩内外での激しい抗争によって人材の
のちに俊輔はこの時の桂の帰国について次のように書いている。
「長州では
桂は五月十四日に山口で藩主敬親と対面して、その後「
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