第17話 功山寺決起と桂小五郎の帰国

第六章・反転 2<功山寺決起と桂小五郎の帰国>


 この頃、高杉晋作は筑前にいた。

 そして五卿を長州から筑前へ移すために奔走ほんそうしていた西郷も筑前にいた。

 二人とも同じ時期に筑前にいたのである(ただしその時期が重なるのは十一月二十四日頃の短期間だけだが)。

 それゆえ、昔から「高杉と西郷が筑前で(または下関で)会談をしたという伝説」があるのだが、近年ではそれを肯定する説を見かけることはほとんどない。司馬遼太郎大先生も『世に棲む日日』の中で「(晋作は)第一、西郷に会ったこともない。(略)なによりもかれは西郷と薩摩藩がきらいであった」と書いている。


 高杉が筑前にいた頃、勤王歌人・野村望東尼ぼうとうにひら山荘さんそうで世話になったという話は有名であるが、高杉は筑前の尊攘派志士たちと何度も接触していた。一方、西郷も五卿の筑前への移転手配で筑前の尊攘派志士たちと接触していた。ある日、筑前の尊攘派志士たちが高杉と西郷を提携させようとして高杉に話をもちかけたところ、高杉は酒に酔って

「薩摩のいも堀りと一緒にするな!」

 と散々薩摩の悪口を言って断ってしまった。

 高杉自身は禁門の変に参戦していなかったけれど、盟友であった久坂たちを薩摩・会津勢に殺されていたのだから、こういった反応になるのも無理はない。


 このあと高杉は彼らから「長州で三家老や参謀たちが処刑された」という話を聞いた。

 この話を聞いて高杉は決心した。

「もはや他藩に潜伏せんぷくしている場合ではない。俺は馬関へ戻って兵をげる!」

 この高杉の決心を聞いて筑前の同志たちは

「まだ時期尚早だろう。もうしばらく様子を見てはどうか?」

 と止めたが高杉は聞かなかった。

 高杉は筑前で九州諸藩の同志と提携して長州へ反攻作戦を起こすことも考えた。だが所詮、彼には「人を周旋しゅうせんする」という才能は無い。また筑前の状況も、この藩の尊攘派が後にたどった末路を考えれば、やはり頼りにできる存在ではなかったであろう。

(長州のことは長州人がやるしかない)

 高杉は十一月二十五日、下関へ帰った。


 同じ頃、伊藤俊輔は下関で外国人応接の仕事をしていた。

 この十一月の末頃には横浜から帰国するオールコックが、長崎へ向かう前にこの下関に立ち寄って俊輔と会っている。オールコックとしては自分が敢行かんこうした下関遠征の結果を自分の目で確かめておきたかった、という気持ちもあっただろう。

 俊輔がオールコックと会うのはこれで三度目である。一度目は聞多と一緒にロンドンから戻って来て横浜で会った時。二度目は井原家老らと賠償金支払いの確認で横浜へ行った時である。

 俊輔は下関でオールコックと会って、自身の近況を伝えた。

「私は今、下関のあたりに駐屯ちゅうとんして、約1,400名の部隊の隊長をしています」

 オールコックの記録には、俊輔がこう答えたと書いてある。

 確かにこのとき俊輔は部隊の隊長をつとめてはいたが、それは三十名しかいない力士隊の隊長である。おそらく奇兵隊などの諸隊全部を合わせても1,400名もいなかっただろう。オールコックの聞き間違いか、あるいは俊輔の下手くそな英語が誤って伝わったのか、定かではない。


 下関に戻って来た高杉は「俗論派ぞくろんは政権の打倒」を人々に説いて回ったが、やはり賛成する者はほとんどいなかった。

 諸隊の中では「遊撃隊ゆうげきたい」だけが賛成した。

 この隊は以前、ところいく太郎たろうが聞多を救う場面で少しだけ紹介したが美濃人である所郁太郎が参謀をつとめているように、他藩の尊攘派浪士たちが数多く参加している隊で、諸隊が俗論派政権の命令通り解散になってしまえば、他に行くところが無い人たちばかりだった。だからこそ高杉の挙兵計画に賛成したのだ。ただし隊員数は百名前後で、しかも挙兵計画に賛成したのはその半分ぐらいに過ぎなかった。

 遊撃隊以外の諸隊は、どの隊も高杉の挙兵計画に応じなかった。

 高杉は山県狂介きょうすけ(後のありとも)をはじめとした諸隊の隊長たちを説得しようとした。それは、俊輔の自伝によると以下のような有り様であった。

「諸君が俺の言うことに同意してくれないのは赤根あかね武人たけとの説にだまされているからだろう。赤根は大島郡の百姓ではないか。俺は毛利家恩顧おんこの忠臣である。赤根のごとき匹夫ひっぷと比べられては困る。けれども諸君が赤根の説にだまされて俺に同意できぬというのなら仕方がない。俺に馬を一匹貸してくれ。その馬に乗って萩へ駆けつけ、城門を叩いて君公父子をおいさめ申すまでである。もしそれがかなわぬ場合は切腹してお諫めするつもりである。もし不幸にして俗論派に捕まって殺されても、それは天命である。今は一里行けば一里の忠を尽くし、二里行けば二里の義を尽くす時である。志士たる者が安座あんざしている時ではない!」

 その様子は「泣くがごとく、訴えるが如く、怒る時は髪の毛も逆立さかだつが如く」であったという。まさに高杉の師、松陰がよみがえったかのような様子であったろう。

 けれども、隊長たちはただただ高杉の大気炎だいきえんに圧倒されるだけで、一人として高杉に応じる者はいなかった。

 ちなみに「赤根武人の説」とは俗論派との妥協だきょうさくのことで、このとき赤根は正義派と俗論派との関係を調整するために奔走していたのだった。まことに常識的なやり方であり、諸隊の隊長たちも一応、その結果を待つつもりだった。

 高杉以外の人間は全員「高杉は狂った」と思った。

 高杉自身は「松陰先生が唱えておられた“狂挙きょうきょ”をやるのは今しかない」と思った。常識的なやり方では、大勢を変えることは出来ない、と。


 諸隊の隊長を説得できなかった高杉は、俊輔に挙兵への参加をもちかけた。

「俊輔、お前も力士隊をひきいて俺の挙兵計画に参加してくれ」

「分かりました」

 即答であった。

「……そうか、助かる。お前だけは裏切らないと信じていたが、もしお前に反対されたらどうしようかと思ったぞ」

「周布さんが死に、桂さんは行方知れずで、聞多ぶんたは重傷。となれば、これはもう高杉さんがやるしかないでしょう?我々の手でなんとかしないと、聞多もいずれ俗論派の連中に殺されますよ。ワシは高杉さんのバクチに賭けてみます」


 かくして十二月十五日の夜、雪の降る中で「こう山寺ざんじ挙兵」がはじまった。

 紺色こんいろおどし具足ぐそくを着込み桃型ももがたかぶとをかぶった高杉が馬に乗り、俊輔たち八十人の力士隊、遊撃隊を率いて三条実美ら五卿のいる功山寺を訪れた。

 高杉は五卿に別れのあいさつを告げに来たのである。

 眠っていた五卿を起こして、高杉は別れのさかずきさずけてもらって飲みした。また俊輔の自伝によると「重箱のすみに残っていた煮豆にまめの食い残し」も出してもらったようだ。

 そして高杉は馬に乗って別れのあいさつを告げた。

「これより長州男児の肝っ玉をお目にかけます!今から兵を挙げ、俗論派を討ち果たしてご覧にいれます!」

 そう言うや、高杉たち八十人は下関の会所かいしょ(役所)を目指して出陣して行った。この時は俊輔も馬に乗って高杉に従ったのだが「馬術に不慣れな俊輔が、恐ろしそうにくらにつかまっていた姿は、滑稽こっけいを通りすぎて悲惨であったと伝える悪口もある」と俊輔の自伝には書いてある。


 あとは一瀉千里いっしゃせんりの勢いであった。

 のちに俊輔が高杉を評して

「動けば雷電の如く、発すれば風雨の如し」

 と述べたというのは有名な話だが、高杉や俊輔たちは下関の会所を襲撃して占領することに成功した。ここは萩の俗論派政権の出張所であり、役人を追放して軍資金、武器、食料を確保した。次いで、船に乗って三田尻へ向かい藩の軍船癸亥丸きがいまるを乗っ取ることにも成功し、これに乗って下関へ帰って来た。


 これに対し萩の俗論派政権は正義派の領袖りょうしゅう(前田孫右衛門や松島剛蔵ごうぞうら)七名を斬首した。そして高杉たちのクーデターを鎮圧するため萩から軍を南下させた。

 当初高杉の挙兵計画に反対していた奇兵隊などの諸隊も、高杉の挙兵に刺激され、さらに俗論派政権が実力行使に乗り出してきたのを受けて、ついに挙兵を決断して長府から軍を北上させた。


 年が明けて一月七日の未明、山県狂介率いる奇兵隊などの諸隊約百名は、秋吉あきよしだい近くの絵堂えどうにいた俗論派政府軍、約四百名に対して奇襲をかけ、敗走させた。

 いわゆる「大田おおだ・絵堂の戦い」が幕を切って落とされたのである。


 一方この頃、諸隊の一部が山口へ攻め込み、この地域一帯を制圧した。

 そして高杉や所郁太郎らが、俗論派から軟禁状態にされていた聞多を救出した。

 このあと聞多は傷を負った身でありながら鴻城隊こうじょうたいという一隊を率いることになるのだが、とにかくこれで山口、三田尻の地域は正義派諸隊がおさえる形となった。


 大田・絵堂の戦いは終始奇兵隊などの諸隊が優勢に戦いを進め、十六日の赤村あかむらの戦いで俗論派政府軍を完全に敗走させた。この十六日の戦いの時は俊輔も現場に入ったが、基本的には後方支援的な仕事に従事した。

 そしてそれより少し前の話になるが、赤根武人が下関の俊輔のところへやって来て、俊輔を高杉から離反りはんさせようとくわだてた。

 奇兵隊の総監そうかんだった赤根は、高杉の挙兵によって自身が進めていた俗論派との妥協策が破れてしまったので高杉をうらみ、高杉打倒をくわだてたのである。

 しかし高杉の忠実な子分である俊輔がそんな赤根の策謀に乗る訳がなく、逆に赤根が奇兵隊から追われることになり、さらに長州からも追われる身となった。このあと赤根は幕府と通じるようになり、一年後、裏切り者として長州で斬首されることになる。

 赤根が目指した道筋は決して間違ったものではなかったはずなのだが、歴史は無情にも時々こういった不運な男を生み出すことがある。


 大田・絵堂の戦いに敗れたことで萩の政府では内部分裂を起こしはじめていた。

 中立派として第三者的なスタンスをとりつつも正義派に同情的であった人々が「鎮静ちんせいかい議員」と名乗って俗論派とたもとを分かち、藩主敬親たかちか(前年、朝敵とされた際に慶親よしちかから敬親に名を改めた)を動かして正義派政権の樹立へと誘導したのである。

 そして諸隊の軍が萩へ近づくにおよんで、むくなし藤太とうたたち俗論派は船で萩を脱出しはじめた。しかし後にらえられて椋梨は斬首された。

 かくして、二月中には長州藩内の内戦も終了し、再び正義派の政権が樹立されることになった。そして藩主敬親は再び山口へ移ることになったのである。



 正義派政権樹立の立役者たてやくしゃまぎれもなく高杉晋作であった。

 その彼を、周囲の人間が長州陸軍の総督につけようとしたのは、自然の流れであったと言えよう。

 ところがここで突然、高杉は「イギリスへの洋行」を藩に願い出たのである。そして俊輔にイギリスへ同行するように命令した。

「もう一度イギリスへ行くのは私の念願でしたから喜んでおともしますけど、なぜ今、総督のお役目を蹴ってまで行こうとするのですか?」

「次の戦争は、おそらく相手は幕府になるだろうが、多分もう少し先のことになるだろう。その時まで俺の出番は無い。だから三年前に行きそびれた洋行へ、今のうちに行くのさ」

 続けて高杉は言った。

「それにな、俊輔。およそ人というものは艱難かんなんともにすることはできても、富貴ふうきを共にすることはできぬものだ。今、有頂天うちょうてんになっている奇兵隊をまとめるのは俺の役目じゃない。山県のほうが適任だよ」

 この「艱難かんなん」の話は、別の似たようなことわざで言うと「狡兎こうと死して走狗そうくらる、飛鳥ひちょうきてりょうきゅうかくる」とも言い、「敵を倒し目的をたっした後、それまで戦ってきた兵をどう処遇しょぐうするか?」その難しさを表現している諺であるが、この問題はこの先、維新後の「奇兵隊脱隊騒動」まで続くことになる。


 実際この時点においても、奇兵隊などの諸隊は家格かかくの高い武士層中心の俗論派政権を打倒したことで「敵なしの勢い」、悪く言えば「驕慢きょうまんな態度」が目立ちはじめており、手がつけられなくなってきていたのである。

 さらに諺ついでで言うと「創業そうぎょうやすく、守成しゅせいかたし」というのもあるが、高杉は自分の適性が「守成」に向かないことをハッキリと自覚していた。「創業」ならば、いや「破壊」ならばお手の物だが、「守成」などは自分のにんではないと開き直って、さっさとその任を山県狂介へ押しつけたのである。


 俊輔は高杉の顔を見つめながら、心の中でつくづく思った。

(まったく腰の落ち着かぬ人だ。まあ、この人らしいとも言えるが……)

 結局高杉は奇兵隊などの諸隊の処遇については聞多と佐世させ八十郎やそろう(後の前原まえばら一誠いっせい)に一切任せて、さらにこの両人を通じて藩から洋行費用三千両を支給してもらった。ただし、藩内にはまだまだ攘夷を唱える過激派も多いので費用の名目は「英学修行および事情探索たんさくのための横浜行き」ということにした。



 ところで、以前帰国途中のオールコックが下関に立ち寄った際、俊輔がその応接を担当した。そうやって俊輔は下関に外国船が立ち寄る際にはその応接係を担当していたので、下関を通る外国船とのやり取りにはかなり熟達じゅくたつしてきていた。

 三月二十日、長崎行きのイギリス商船ユニオン号が下関に立ち寄った。俊輔がこの船に乗り込んでみると以前知り合ったイギリス人がいた。そこで高杉と自分を長崎まで乗せてくれるように依頼すると意外にもあっさりと了解が得られた。

 ちなみにこのユニオン号は、後に「薩長同盟」の一環として俊輔と聞多が長崎で購入手続きに関わることになるのだが、この時の俊輔は、そんなことは予想だにしていなかった。

 二人は船内で洋服に着替えて髪型もザンギリ頭にした。そして二日後、西洋人風に変装して長崎のイギリス領事館を訪れた。二人がこのように変装したのは幕府の探索、特に長崎奉行所の探索からのがれるためである。


 二人は領事館のガウアー(エーベル・ガウアー)にイギリス行きの話を相談した。

 余談だが、このガウアーは以前「俊輔たち長州ファイブ」がイギリスへ行く時に横浜で仲介役をした「ジャーディン・マセソン商会の横浜支店長ガウアー(サミュエル・ガウアー)」とは別人である。史料によってはこの二人を混同したり、あるいは兄弟としているものも散見されるが、領事館員のエーベル・ガウアーにはのちに日本で鉱山開発に従事することになるエラスムス・ガウアーという兄弟はいるが、マセソン商会のサミュエル・ガウアーとの関係は不明である(近親者だろうとは言われている)。ただし領事館員のガウアーも俊輔たち五人がイギリスへ行く時に横浜で彼らから何度も相談を受けていたので、俊輔とは旧知の仲だった。この頃ガウアーは横浜から長崎へ転勤して来ていた。


 そしてこの高杉と俊輔のイギリス行きには、長崎のグラバーも相談に乗ることになった。

 というよりも、グラバー商会はマセソン商会の子会社であり、グラバーはマセソン商会同様、日本人のヨーロッパへの密航留学に深く関与していた人物である。

 この物語では以前第四章の薩英戦争の場面で五代才助さいすけ(友厚)と一緒にグラバーが登場したが、まさにこの三月二十二日、高杉と俊輔が長崎のイギリス領事館を訪問したのと同じ日に、そこから百キロほど南の薩摩の海岸から五代や松木(後の寺島)たち「薩摩スチューデント」十九名が、グラバーの手配した船でヨーロッパへ向かって出発していた。

 出港場所は串木野くしきの羽島はしまで(現在そこには『薩摩藩英国留学生記念館』が建っている)、乗り込んだ船はオースタライエン号というグラバー商会所有の小型蒸気船である。

 五代と松木が薩英戦争後、清水卯三郎うさぶろうの助けでしも奈良村ならむら(現、埼玉県熊谷市)にかくまわれたことは以前少しだけ書いたが、その後二人はなんとか薩摩藩から赦免しゃめんされ、今回の「薩摩スチューデント」計画にこぎつけたのである。ただしその詳細を語るのは、この物語のテーマに近いようではありつつも何しろ薩摩藩の話なので詳細は割愛せざるを得ない(おそらく五代と松木のヨーロッパでの外交活動については多少、後述する場面もあろう)。


 とにかく、高杉はグラバーに対して以前からの持論である「下関開港論」をいた。

「我が長州は薩摩にも幕府にも負けない力を身に付けるつもりである。そのためには下関を開港してとみたくわえ、武器を買いたい。長州の腹を全世界へさらけ出す覚悟で長州を開国するつもりである。それを訴えるために俺はイギリスへ行きたい」

 これに対してグラバーが答えた。

「それはとても良い考えです。下関を開港するのは私たち外国商人も望むところです。でも、今あなたたち二人がイギリスへ行くのはやめたほうが良い」

 俊輔はグラバーの意外な答えを聞いてがっかりした。

「なぜダメなのか?」

「もうしばらくすると次の公使、ハリー・パークスが日本に来ます。下関を開港する話はパークスに言ったほうが良い。それにあなたのような重役は長州に残って、実際に下関が開港できるように藩を説得したほうが良い。ついこの前まで外国船を砲撃していた長州が、本当に下関を開港できますか?」

 高杉は即答できなかった。

「あの日本一の攘夷藩である長州が、本当に下関を開港できるんですか?」

 これを言われると高杉はぐうのも出ない。実際それが一番の悩みのたねなのである。

 高杉と俊輔はグラバーの忠告を受けいれて、イギリス行きを断念することにした。

 けれども高杉は、自分の代わりとなる若い長州人をイギリスへ送り込むことにした。今イギリスに残っている山尾、野村、遠藤の三人に続く、新しい留学生の派遣計画である。

 自分の従弟いとこの南貞助ていすけと、さらに山崎小三郎こさぶろう、竹田庸次郎ようじろうの三名をグラバーの手配でイギリスへ送ることにした。前回の俊輔たちと同様に、帆船に乗り込んでのぼうほう回りルートである。スエズ経由よりもぼうほう回りのほうが安上がりだからそうするのだが、それでも彼らはたちまち留学資金の不足に苦しむことになる。

 そして高杉と俊輔はこのとき長崎で記念写真も撮った。高杉が真ん中で椅子に腰かけて座り、向かって右側に俊輔が腰の刀に手をかけて立ち、向かって左側にじゅうぼくの少年が正座している、あの有名な写真がそれである。


 高杉と俊輔は長州へ戻って、この下関開港論を聞多にも相談した。

 もちろん聞多は二人の意見に賛成した。この三人は以前から「三人党」と呼んでもいいぐらいに「開国」で意見が一致していたのだから当然だろう。

 そして聞多が内々に藩政府へ下関開港論を相談してみたところ、藩政府もそれに賛成し、高杉、俊輔、聞多の三人を下関での外国人応接役にあたらせた。


 ところがこの下関開港論が世間にれて大問題となり、高杉、俊輔、聞多の三人はたちまち反対論者から命を狙われることになった。

 そもそも正義派の主張は、表向きは「尊王攘夷」なのである。ただし鉄砲・大砲などの武器に限っては、実際に西洋と戦ってみて西洋兵器の優秀さを身にしみて分かったので、それを導入することにやぶさかではないけれど、それでもやはり感情面では尊王攘夷を捨てきれない人間がほとんどなのである。

 なにしろ四ヶ国との戦争からまだ半年ほどしか経っておらず、その直前まで長州全土は攘夷一色だったのだから無理もなかった。あからさまに尊王「開国」を唱える高杉、俊輔、聞多の三人党が、この長州ではあまりにも異端いたん過ぎるのである。

 そしてこれはいつの世でも言えることだが、この広い世の中、狂信的な人間が幾人いくにんか出て来てもなんら不思議ではない。過激な尊王攘夷の壮士そうしたち、要するに狂信的な暗殺者たちが三人の命を狙ったのだ。


 さらに言えば、三人の命が狙われたのは“攘夷”という思想面からの理由だけではなかった。

 経済面での理由もあったのである。

 下関の領地の大半が長府ちょうふ藩という支藩しはんの領地であることは以前少し触れた。実際にはもう一つ別の支藩、きよすえ藩の領地も少し含まれているのだが大半は長府藩の領地である。

 以前から長州本藩は、高い収益をあげる下関港を本藩領として取り上げ、長府藩には別の土地(え地)を与えようとしていた。しかし当然のことながら長府藩はその提案を拒否し続けていた。

 今回、下関開港論が世間に広がったことによって長府藩の報国ほうこく隊という攘夷派が

「これを機会に本藩は我々から馬関ばかん(下関)を取り上げる気だな?夷狄いてきと通じる高杉たち三人は、是非ぜひとも打ち殺さなければいかん」

 と騒ぎだしたのである。


 この騒ぎを受けて長州本藩は下関開港論を否定する触れ書きを出し、高杉、俊輔、聞多の三人を外国人応接役から外すことにした。

 要するに三人を見捨てたのである。

 命を狙われた三人は、すぐに藩外へ逃亡することにした。

 高杉は以前、俗論派から糾弾された時もすぐに筑前へと逃亡したものだが、こういう時の判断は素早い。商人に変装して備後屋びんごやさんすけと名乗り、愛人「おうの」を連れて上方かみがた、四国方面へ逃亡した。

 聞多は腹掛はらがけ半纏はんてん姿の人足にんそくに変装して奈良屋文七ぶんしちと名乗り、豊後ぶんご別府べっぷ温泉へ逃亡した。まだ斬られた傷がえきっておらず「湯治とうじついで」ということで別府温泉を選んだのだ。聞多はここでなだかめという博徒ばくとの親分にかくまってもらった。

 湯治場で体中の刀傷の理由を博徒から聞かれた際には「若気のいたりで、人妻に手を出して斬られた」と聞多は笑って答えたというが、のちに中井ひろし桜洲おうしゅう)の妻、武子たけこに手を出して嫁にする聞多らしいエピソードと言える。


 そして俊輔は一旦いったん下関に潜伏せんぷくすることにした。ただし藩外への逃亡をあきらめた訳ではない。

(ワシは対馬へ逃げて、この際だから朝鮮まで行ってみよう)

 と考えて、対馬行きの船を出している伊勢屋の土蔵に潜伏し、対馬行きの船を待つことにしたのだった。

 その伊勢屋へ向かう途中、報国ほうこく隊の連中に見つかってしまったので俊輔は一目散に逃げ出した。そして亀山八幡宮に逃げ込んだ。


 境内けいだいには茶屋があり、そこに若い女性が一人いた。

 俊輔は彼女の近くまで走って来るとおがむようにして懇願こんがんした。

「すまん!暴漢ぼうかんに追われているのだ。かくまってくれ!」

 そう言うと俊輔は、素早く茶店の軒下のきしたへともぐり込んだ。

 その直後、刀を握って恐ろしい表情をした男たちが数人、彼女の前に現れて尋問じんもんした。

「おい!今ここに男が一人逃げて来なかったか?」

(あの人、何をしたのか知らないけど、ここで白状したら間違いなく殺されるわ。もし悪人だとしても、私のせいで殺されるのはかわいそう……)

 それで彼女はおびえた表情のまま、別の出入口の方を指差ゆびさした。

 これを受けて、男たちはそちらの方向へと走り去っていった。


 男たちが去った後、俊輔はおそるおそる軒下からはい出て来た。もちろん蜘蛛の巣やらホコリやらでゴミまみれである。

「……助かりました。本当にありがとう」

 そう言って俊輔が礼を述べつつ、あらためて彼女の顔をよく見ると、面長おもながの美形でモロに俊輔の好みのタイプであった。

 命を狙われている最中とはいえ、無類の女好きである俊輔がこの機会を逃すはずがない。

「いずれご恩返しに来ます。あなたのお名前は?」

 彼女は、この何者かも知れないあやしいゴミまみれの男に、名をあかすのは少しためらいがあったが、何か直感的に「悪い男ではない」ような気がしたので

「梅」

 と本名をあかした。

 俊輔は後に潜伏状態から解放されると、この茶屋のお梅のもとへ通いつめるようになる。そして彼女が稲荷町の芸者見習いになってからも通いつめ、その後とうとう結婚することになるのである。

 言うまでもなく、彼女は後の伊藤梅子である。この当時、数えで十八歳(満年齢では十六歳)。


 問題なのは、俊輔にはすでにすみ子という妻がいたことであった。

 しかしこれまで見てきたように、二年前にすみ子が萩の家へ来て以降、俊輔はほとんど萩の自宅へ帰っていないのである。

 すみ子がとついで来てすぐに俊輔はロンドンへ行き、帰国してからは下関と山口にいることがほとんどで、萩の自宅へは一、二回帰っただけだった。そのいずれの時もすぐに萩を離れているので滞在期間はほとんどなかった。

 ていに言ってしまえば、俊輔はあまりすみ子を好きになれなかったようである。

 結局俊輔は梅子を選び、すみ子とは離縁することになるのだが、俊輔の母・琴がすみ子を気に入っていたので琴がなかなか承知しなかったという。それでもとにかく、翌年にはすみ子と離婚することになるのである。




 そしてこの頃、俊輔には「待ちに待った朗報」が届いた。

 桂小五郎が長州に帰ってきたのである。

 禁門の変の後、桂は但馬たじま出石いずし(現、兵庫県豊岡市)へ逃れていた。

 桂が京都で知り合った広戸ひろと甚助じんすけという男の故郷が出石だったので、そのツテを頼って逃れたのである。甚助は商人の息子で、バクチ好きがこうじて出石を飛び出して京都へ来ていたのだが対馬藩邸に出入りしているうちに、同じく対馬藩邸によく出入りしていた桂と知り合って友人となった。そして禁門の変後に桂を出石へと連れて行ったのだった。


 桂はその後、出石や城崎温泉きのさきおんせん(現、豊岡市)、養父やぶ市場いちば(現、兵庫県養父やぶ市)を流浪るろうして鬱々うつうつとした日々を送ることになった。

「今さらべつに申すこともなく、野に倒れ山に倒れてもさらさら残念はこれなく、ただただ雪の消ゆるを見てもうらやましく、ともに消えたき心地いたし申しそうろう。かりそめの 夢と消えたき 心地かな」

 桂は潜伏中このような感傷的な手紙を書いて甚助に送っている。

 ただし桂の女好きは相変わらずで、この流亡るぼうの時も幾つかの艶聞えんぶんを残してはいるのだが、それはまあ、とりあえず割愛することにしよう。


 ちなみに以前、俊輔が桂のために骨を折って落籍したいくまつは、桂と離れ離れになったあと京都から下関へ逃れて来ていた。彼女の面倒を見たのは俊輔と、桂の盟友の村田蔵六である。

 そしてこの年の二月、長州で正義派政権が誕生したことを知った桂は、甚助に手紙を持たせて村田のもとへと送り込んだ。手紙を読んだ村田はさっそく桂を長州へ呼び戻そうと考え、俊輔と幾松に相談した。

(とうとう桂さんが長州へ帰ってくる!)

 俊輔は目の前がパッと明るくなるような心地がした。俊輔だけではなく、多くの長州藩士が桂の帰国を待ち望んでいたのである。


 桂を出石へ迎えに行く適任者は、やはり幾松以外におらず、本人もそれを強く希望したのでさっそく幾松と甚助が出石へと向かった。そして幾松は上手く桂を出石から脱出させることに成功した。ただし、甚助は出石へ向かう道中、大坂で悪い癖を出して村田から預かっていた路銀をすべてバクチで使い果たして逐電ちくでんしてしまったので、甚助からその後をたくされた幾松は散々苦労をさせられた。長州へ戻った桂は笑って甚助を許したが、幾松は決して甚助を許さなかったという。


 かくして四月二十六日、桂小五郎は下関へ帰って来た。俊輔はさっそく桂に会いに行った。

「よう、俊輔。こんなに早く再会できるとは思ってなかったぞ。ずいぶん早くイギリスから帰って来たものだな」

「何が早いものですか、桂さん……。まだ二年しか経ってないのに色んなことがあり過ぎて、もう何年も経ってしまったような気分ですよ。本当によく無事で……」

 と言ったところで俊輔は涙がこぼれてきて、それ以上しゃべれなくなった。

「お互いにな。さっそくお前のイギリスでの話を聞かせてもらいたいところだが、その前にお前の命を狙っている連中をなんとかしないといかんな」


 俊輔、高杉、聞多の命を狙っていた長府藩の報国隊は、野々村勘九郎かんくろうという男が首領しゅりょうだった。

 この男は江戸の斎藤道場「練兵館」で桂の弟子だった男である。それゆえ桂が野々村を説教するとたちまち俊輔に謝罪し、高杉と聞多を狙うことも取り止めた。

 この暗殺者たちへの説諭せつゆが、桂が長州へ戻ってきて最初にやった仕事であった。そして高杉と聞多には俊輔が手紙を書き送って、すぐに逃亡先から呼び戻した。


 しかし桂が長州へ戻ってきたのはこのような小事のためではない。

 藩内外での激しい抗争によって人材の欠乏けつぼうはなはだしい長州としては、いずれ直面するであろう「幕府との対決」という大事のために、皆が桂の復帰を望んでいたのだった。

 のちに俊輔はこの時の桂の帰国について次のように書いている。

「長州では大旱たいかん雲霓うんげいのぞむがごとき有り様だった」

 大旱たいかんとは大干だいかんばつの事で、雲霓うんげいとはめぐみの雨の事である。

 桂は五月十四日に山口で藩主敬親と対面して、その後「用談役ようだんやく」という重職に就いて実質的に藩を指導する立場となった。

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