第26話 フランスの使われ者
第八章・東奔西走 3<フランスの使われ者>
イカルス号事件の話をする前に、この時期の土佐藩と坂本龍馬について少し解説が必要だろう。
この物語ではこれまであまり土佐藩のことには
けれどもこの時期、すなわち慶応三年後半の話をするにあたってはイカルス号事件のことも含めて、土佐藩と坂本龍馬の話をしない訳にはいかない。
よく「
この時代はどこの藩でも尊王攘夷党と佐幕党が対立していたが、禁門の変を
そういった事情は土佐藩も同じだった。
土佐藩では禁門の変の後に武市半平太の土佐勤王党が
ところがここへ来て、再び尊王攘夷が息を吹き返したのである。
実際の長州藩は、尊王の部分は
「尊王は必ず攘夷と
として受けとっていた人がほとんどだった。この固定観念のせいで、翌年二月には土佐人が堺事件を引き起こすことになるのだが、それはまだ先の話である。
基本的に藩外で活動していた坂本龍馬と中岡慎太郎は別として、このころ活発に中央政局に乗り出していた土佐藩士としては
以後、この二人が土佐藩内で重要な役割を
この慶応三年の段階に至って土佐藩内では驚くべき変化が起きた。
土佐勤王党と上士との間には根深い対立があったというのは有名な話だが、その対立を乗り越え、龍馬と後藤が、さらに中岡と乾が手を握ることになったのである。
そして龍馬と中岡は薩摩藩とのコネを持っていた。
このコネを利用して後藤と乾は西郷や小松などと面会して五月には「
その
とにかく薩摩としては、特に
武力倒幕のためには一藩でも多く味方が欲しいのである。
土佐の藩論が武力倒幕路線と大政奉還路線とで揺れ動いているとはいえ、これからじっくりと説得して武力倒幕の方向へ引っ張ってくれば良いだけのことだった。
もしそれに失敗して土佐藩が大政奉還路線で決着するとしても、別に薩摩にとって不利益はない。
なんにせよ、西郷としては龍馬などの土佐人たちと大いに協議して、まさにこれから幕府への圧力を強めようとしていたところだった。
ところが、その矢先にイカルス号事件という思いもよらない出来事が発生し、土佐藩、なかでも海援隊の隊長である坂本龍馬はこの事件解決のために
龍馬はこの事件のことを大坂で知った。
それゆえ長崎での詳しい状況など知る
(もし噂通り、本当に我が海援隊士がイギリス人を斬殺していたとしたら、俺や海援隊は無論のこと、土佐藩もイギリスから敵対視されることになろう。そうなったら薩摩との盟約どころの話ではない。俺も土佐藩も完全に中央政局から
龍馬はこれまでワイルウェフ号やいろは丸を
(今は部下を信じることだ。我が海援隊士がそんなことをやるはずがない。万一やっていたとすれば必ず自首してるはずだ。犯人が
龍馬は腹をくくった。
大坂に着いたパークスはイカルス号事件のことで(いつもと変わらぬ態度ではあるのだが)幕閣相手に
かたや幕閣としても、パークスから言われたことはさておき、実際のところ土佐藩に嫌疑をかけていた。
水面下で土佐と薩摩が反幕府的な動きをしているのを幕閣が知っていたのかどうか、それは定かではないが、ともかくも長崎から聞こえてくる噂から
「おそらく犯人は土佐藩士であろう」
と推定したようである。
談判の結果、パークスと幕府の代表者が土佐へ出向いて土佐藩と交渉することになった。
パークスの通訳としてサトウが同行するのは無論のことである。
幕府の代表は外国総奉行の平山が選ばれ、トミーこと
そしてこのことを土佐へ伝えるために土佐藩士の佐々木
そこで佐々木は薩土盟約を結んだ関係から西郷に
それに加えて西郷は佐々木に助言も与えた。
「拙者も以前パークスと談判したことがござる。彼との談判は実に難しい。少しでもスキを見せるとしつこく
佐々木は深々と頭を下げて西郷に礼を言い、急いで三国丸が停泊している兵庫へ向かった。
佐々木が兵庫に着いて三国丸に乗り込んだところ、佐々木の後を追うようにして龍馬が兵庫にやって来た。龍馬はすかさず三国丸に乗船して佐々木に書状を渡した。
「これは越前公(春嶽)から老公(容堂)宛の書状だ。イギリスとの談判に関する助言が書かれている。土佐へ持っていって老公に渡してくれ」
春嶽との太いパイプを持っている龍馬は春嶽から容堂宛の手紙を
けれども上士である佐々木としては、浪士同然の龍馬からいきなり容堂や春嶽といった大物の名前を出されて面白いはずがない。しかも事件を引き起こした疑いをかけられているのは龍馬の海援隊である。文句の一つも言いたくなろう。
「偉そうな顔をして言うな。今回のような始末になったのも元はと言えばお主ら浪人どもが
「何を言うか!俺の部下は絶対にイギリス人を斬っておらん。もし斬っていれば必ず自首するか、切腹しているはずだ。お主は土佐人よりもパークスの言うことを信用するつもりか!」
こうやって言い合っているうちに三国丸は土佐へ向けて出発してしまった。
この間サトウは、パークスに同行して幕閣との会談、さらには将軍慶喜との会談に加わって通訳の仕事をするなど忙しい毎日を送っていた。
そんなある日、西郷がサトウの宿舎を訪ねてきた。サトウが土佐へ向かう数日前のことだった。
応接間に案内されると西郷はさっそくサトウに質問を
「イギリスはずいぶん土佐をお疑いのようだが何か証拠でも出てきましたか?それとも何か幕府に吹き込まれましたかな」
「いいえ。今のところ証拠はありません。けれども我々は必ず犯人をつきとめます。今は土佐人が一番あやしいので土佐へ行って調べるだけのことです」
「土佐人は最近イギリスを見習って「議事院」という制度を日本に導入しようとしていると聞く。イギリスは土佐を敵に回すべきではないでしょう」
「急いで日本に議会制度を導入しようとしても逆に失敗して国が混乱するだけです。時間をかけて慎重に導入したほうが良いでしょう」
「しかし今の幕府が存続するよりはマシでしょう。サトウさんは『英国策論』で朝廷を頂点とした諸侯連合政権を説いておられたはずだが、最近は気が変わったようですな」
「いいえ。私の考えは変わっておりません。私は今でもそれが日本の正しいあり方だと思っています」
「いや、変わったでしょう。幕府はフランスを使って薩長を
「何を言いますか!我がイギリスがフランスに
「まあ私の話をよくお聞きなさい、サトウさん。イギリスは兵庫開港にあれだけ
これはサトウにとって初耳の話だった。
イギリスにとって不利益になるのももちろん容認できないが、それに加えてイギリスが
のちにサトウからこの話を聞いたパークスは、激怒して幕府に抗議することになるのである。
サトウは多少の
「……先日、私があるフランス人と話をした際に、彼は私に言いました。いずれ日本も統一国家になる必要がある。そのためには英仏が協力して薩長を
「まことにありがたいお話だが、日本の変革は我々日本人の手でやらなければならぬ。外国人の手を
西郷の目的は、これまでもずっとそうであったように「イギリスを幕府から引き離す」ことだった。
決してイギリスに援軍を求めに来た訳ではない。
イギリスに「依存」すればする程、それだけ大きな借りを作ることになり、日本の独立は
西郷がこのように急きょサトウのところへやって来たのは、江戸の柴山たちから最近のイギリス公使館、特にサトウの様子が幕府寄りになってきていると報告があったからである。
さらに言えば、イカルス号事件によってイギリスと土佐藩の関係が悪化しつつあったので薩土盟約の関係上、土佐藩を擁護するためにやって来たのである。
サトウを挑発し、なおかつ幕府とフランスによる兵庫貿易の独占計画を打ち明けたことによって「イギリスを幕府から引き離す」という目的はそれなりに達成できたと思われたので、西郷は満足して帰っていった。
一方サトウは、西郷に「利用」されたとはまったく気がつかず「自分の申し出を辞退した西郷の姿勢は道理にかなっている」と思い、これ以降も西郷のことを敬愛し続けるのである。
そしてこの数日後、サトウとパークスは土佐へ向かって出発した。
ただしその途中で徳島へ立ち寄ることになった。
以前サトウの日本語教師をつとめ、『英国策論』の日本語訳にも協力した徳島藩の家臣、沼田
同じ四国の宇和島藩に招待された時と同様に、サトウやパークスは藩主親子(
ただし訪問当初は天気の悪さと段取りの悪さにパークスが(いつものように)
「たかが日本の大名ごときと会うのに、こんなに待たされてたまるか!」
と叫び出す場面もあったが、それ以降は順調に事が運んでパークスも大人しくなった。
そして訪問終了の頃にはパークスも徳島藩の誠意のこもった歓迎ぶりに心の底から満足するようになっていた。
余談ながら藩主
「私はそろそろ隠居して、イギリスへ旅行にでも行こうと思ってます」
と語った。しかしながら彼はこの五ヶ月後、鳥羽伏見の戦いの最中に病のため急死する。
そして息子の
徳島をあとにしたサトウとパークスは八月六日、土佐の
サトウたちはこの時バジリスク号という中型の軍艦一隻で土佐へやって来た。
数年前の生麦事件と薩英戦争の再来、とまではいかないにしても、土佐藩内は「イギリスの軍艦がやって来る」ということで騒然としていた。
ただし生麦事件との比較で言えば、今回のイカルス号事件は犯人が土佐人かどうかは判明しておらず(生麦事件は薩摩藩士が実行犯であることは明白だった)パークスの個人的な「断定」によって犯人扱いされた土佐人たちの
須崎は高知城下から2、30kmほど南西にある港町である。
高知の
実際この須崎においても三ヶ所の砲台は既に
ちなみにこの部隊の中には後に堺で事件を引き起こすことになる
サトウやパークスが乗ったバジリスク号はそういった陸上の雰囲気を
一方、湾内には先に到着していた幕府の
薩摩藩の三国丸で土佐へ帰郷した坂本龍馬は、この夕顔に乗り移って待機していた。
当初、談判は
まず幕府の平山と米田がパークスのところへやって来て現状を報告した。
しかし、そもそもこの事件の証拠は何も出て来ておらず、幕府も土佐人に嫌疑をかけているとはいえ土佐藩に無理を
平山からの報告を聞いたパークスは(いつものように)
「一体何のためにここまでやって来たのか!あなたたちは子どもの使いか!役立たずにも程がある!」
平山は
通訳をするサトウから見ても、この
次に土佐藩の後藤象二郎がバジリスク号にやって来た。
土佐藩は後藤にパークスとの談判を
「犯人が土佐人であるという証拠は何もない。しかしたとえ犯人が土佐人でないとしても、捜査には全力を
パークスは土佐藩を
自分はイギリスを代表する人間であり、相手をするのは日本国の代表者だけである。
大名のごときは
それゆえパークスは恐ろしい
「いや、犯人は土佐人に決まっている!これだけ状況証拠がそろっていれば疑う余地はない!私は土佐藩との友好を望んではいるが、この問題は国と国との問題であり、談判の相手は幕府だけである!土佐藩の
このパークスの
「一体公使は談判のために土佐へ来たのか、それとも挑戦するために来たのか、
この後藤の言葉を聞いて、通訳のサトウも驚いたが、サトウから説明をうけたパークスも驚いた。
しかしパークスは
このあと後藤はサトウと個別に会って苦情を述べた。
「公使の乱暴な言葉づかいは実に無礼である。あのような態度では本当にこの土佐で恐るべき事件が起きかねない」
「私だってあのような乱暴な言葉を通訳したくはない。だけど本当のことを伝える必要がある。後藤さんがそこまで
「承知した。今度会った時に
以後、数日に渡ってイギリス・土佐藩・幕府の間で談判が続けられた。
しかしこの土佐では新しい証拠は何も出て来なかった。
というか、むしろ海援隊のアリバイを示す証言が出て来る始末で、パークスはますます不機嫌になった。
そして再び後藤がバジリスク号を訪問した。
パークスは後藤に対して次のように
「土佐での捜査は終了する。今後は長崎にサトウを派遣して捜査を続ける。ついてはお互いの友好関係のためにサトウを使者として前藩主(容堂)のところへ派遣したい」
これに対して後藤が答えた。
「もし我々の間に友好関係があるというのなら公使自身が老公(容堂)に面会してはどうか。もし友好関係にないのであれば誰が老公に面会しても無駄である」
脇にいたサトウは、いらだちの色を隠せないパークスの通訳をしながらも、心の中で思った。
(公使がこんな回りくどい手配をしなくても、私に任せてくれれば土佐藩士たちと話をつけて、なんなく高知へ入ってみせるのに……)
さらに後藤がパークスに対して苦言を呈した。
「前回の公使の態度はまことに礼を欠いていた。拙者のような
サトウはこの後藤の苦言をハラハラしながら通訳したが、パークスはなんとか
と言うよりも、パークスはかえって後藤に好感を持ったのである。
そしてそれはサトウも同様だった。
彼らからすると後藤のようにハッキリと物を言う人間のほうが好きなのである。
さらに勇気や胆力がある人間であればなおさら尊敬に値する。
逆にあやふやな事しか言わず、何を考えているのか分からない人間、しかもそれで
サトウは後年、次のように手記で語っている。
「後藤はこれまで我々が会った日本人の中では最も
サトウが高く評価していた西郷と後藤は、この時点での武力倒幕路線と大政奉還路線におけるそれぞれの中心人物だった訳だが、この二人とここまで密接に付き合っていながら、
この後パークスは事件の捜査をサトウに
残されたサトウは土佐藩の夕顔に乗って長崎へ行くことになった。
もちろん、この夕顔に
龍馬は今回せっかく土佐へ帰郷したのに結局何も出来ず、実家や藩外の各地へ手紙を書くぐらいしかやることがなかった。
(せっかく土佐へ帰ってきたのに高知の実家にも帰れんとは……。まったく憎むべきはイギリス人よ。奴らが
同じ頃サトウは「龍馬の代わりに」とでも言うべきか、高知城下に来ていた。
ただし高知城下の見物が目的ではない。というか高知の町はいまだに騒然とした状態が続いており、イギリス人のサトウが町を見物するなど
サトウは容堂に会いに来たのである。
段取りはすべて後藤が手配した。サトウは町はずれにある
容堂はサトウに会うと
「あなたのお名前はかねがね聞き及んでいた。是非一度会いたいと思っていたがこんなに若い人だとは思わなかった」
と述べた。これに対してサトウは
「こちらこそお目にかかれて光栄です」
と答えた。
そして容堂は今回の事件についての
「犯人が土佐人なら逮捕して処刑する。たとえ犯人が他藩の者であっても捜査には全力を
それからサトウと容堂と後藤はこの問題についていろいろと話し合った。さらに容堂は、ヨーロッパの国際情勢やイギリス議会のことに興味を示し、それらについてサトウに質問した。
このあと酒席が用意されることになり、髪を
彼女たちに
「後学のためにこれをバラバラにして見せてしんぜよう」
とバラバラにした人体を見せつけた。サトウは気持ちが悪くなった。しかし容堂自身も、自分から見せておきながら
「気持ちが悪くなったから失礼する」
といって別室へ行ってしまった。それでもサトウが帰り際にその別室へあいさつに行くと、容堂は一人で酒を飲み続けていた。
サトウが感じた容堂の印象は次のようなものであった。
「彼は背が高く、少し
この二日後、サトウと龍馬を乗せた夕顔は土佐を出発して長崎へ向かった。
この航海の最中、サトウは体調が悪いこともあって船内の土佐人たちとまったく会話をしなかった。
なにしろ土佐人からすればイギリス人は憎むべき相手だったのだから皆サトウに対して
なかでも龍馬が一番サトウを憎んでいた。
イギリスから容疑者扱いされた海援隊の隊長であり、しかもそのせいで京都における政治活動を台無しにされたのである。龍馬が激怒するのは当たり前であろう。
龍馬は船内でサトウを見かけた時に「こいつ、斬り殺してやろうか」と思ったぐらいだった。
反対にサトウのほうは龍馬のことをまったく知らなかったので
「またあの人相の悪い男がこちらをにらんでいる」
ぐらいにしか思わなかった。
まさかこの人相の悪い男が西郷と
龍馬が海援隊の隊長で、今回
とにかくサトウにとってこの夕顔の船内は針のむしろと言っていいほど
それでも後藤が乗っていればサトウもまだ気楽に話すことができただろうが、後藤はこの事件の担当から
翌日の八月十四日、夕顔は下関に到着した。
この下関で龍馬は佐々木に妻のお龍を紹介した。佐々木の手記には次のように書いてある。
「
一方サトウも下関に上陸した。が、こちらは美人が相手ではない。
顔に刀傷を持つムサ苦しい男、井上
「俊輔なら今、長崎へ行っている。サトウさんも長崎へ行くのなら多分
聞多はこう、俊輔のことをサトウに説明したが、長州藩の状況については言葉を
サトウは多少
聞多の口が
江戸のサトウやイギリス公使館が幕府寄りになりつつある、という柴山たちの情報は、すでに西郷のところに届いていた。
そしてその情報は長州にも届いていたのである。
西郷が武力倒幕を準備しているこの時に(
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